第3話
そういえば。思い立ってはずれに一人で暮らすエンリケじいさんはどうしているだろう。島民が自分の小屋から出なくなって、エンリケの姿を見ることもなかった。彼もまた消えてしまったのだろうか。エンリケの小屋はマングローブの森の奥にあった。木の根が絡みつき、苔むした古い小屋だ。エンリケは生まれたときからこの小屋に住んでいると言っていた。
ルイが木のドアをノックすると、木が軋む音がしてエンリケじいさんが顔を出した。この世界にまだ自分以外の人間が生きていた。
「じいさんは無事だったのか」
ルイは思わず涙ぐむ。エンリケは静かにルイを家の中へ招き入れた。
「一体何が起きているんだ。もうこの島には俺たち二人きりだ」
椅子に座りがっくりと項垂れるルイに、エンリケは樽から掬った蒸留酒を出してくれた。きつい酒を口に含むと身体が温まり、気分が落ち着いた。
「エミリオに、ソフィア、アイリスもみんな消えてしまった」
エンリケは肩を震わせて涙を堪えるルイを静かに見つめている。
「彼らは俺のすべてだった、一体どうして」
ルイは島で起きている不条理を呪う言葉を何度も口にする。エンリケは空になった木の椀に酒を注いだ。ルイはそれをひっつかみ、一気に飲み干した。喉が焼けるような酒の感覚をどこか懐かしく思えた。
「悲しいか、辛いか」
エンリケの問いに、ルイは唇を歪めて目を見開く。
「当たり前だろう、愛する家族がどこかへ消えてしまったんだぞ」
ルイは思わず激昂して立ち上がり、机を拳で殴りつけた。エンリケは顔を真っ赤に染めたルイを冷静に見つめている。
「すまない」
ルイは大きく溜息をついて椅子に腰掛ける。老人に八つ当たりしたところで、何も解決しない。
「お前はなぜこの島にいるのか、考えたことがあるか」
「どういうことだ」
ルイは不快感を露わに顔をしかめる。先ほどから妙に冷静なこの男は何か知っているというのだろうか。
「俺は子供の頃からこの島で育ち、アイリスと出会って愛し合い、エミリオとソフィアを授かった」
ルイはそう言いながらはたと気が付く。子供の頃から島にいたはずだが、何も思い出せないのだ。父の顔も母の顔も、子供の頃の思い出も何もかも。
ルイは右のこめかみが激しく疼き出すのを感じて眉根を顰める。エンリケの酒を飲んでから身体が妙だ。エンリケが豊かな白い口髭の下で唇を歪めて笑っている気がした。
「俺はいったい、何者なんだ」
「思い出すがいい」
穏やかだったエンリケの口調が厳しい色を帯びる。そこには堪えがたい怒りが滲み出していた。脳が激しく脈打つ感覚に、ルイは頭を抱える。痛みと熱で頭が破裂しそうだ。脂汗が額から流れてくる。
「うがぁああ」
ルイは両手で頭を抱えてのけぞった。椅子から飛び上がり、床に転がり苦痛にのたうちまわる。毒でも盛られたのだろうか、しかし一体何故だ。ルイは自分を見下ろす冷淡な顔がエンリケではない、誰か他人のように思えた。
「お前が飲んだ酒に記憶を呼び覚ます薬を混ぜておいた」
エンリケの声が遙か遠くに聞こえる。意識が朦朧としかけた瞬間、瞼の裏に白い閃光が弾けた。
暗い部屋の中、何かを探していた。不意に昼間のような目映い光が差し、男が何か叫んでいる。手にはナイフを持っていた。反射的に男の腹にナイフを突き立てた。肉を抉る感触、吹き出した血の熱。
続いて声を聞いた女が部屋に飛び込んでいた。もう助からない夫に寄り添い、泣き喚いてている。声を出すのをやめさせねば。血塗れのナイフで喉を切り裂いた。裂けた肉の隙間から血が迸る。力を失って倒れる身体。
騒ぎに目を覚ました娘と息子が起きだしてきた。彼らは父母の姿を見てショックを受けるだろう。可哀想だ、と思った。泣き叫ぶ娘の胸にナイフを突き立てた。逃げようとした息子の背中を刺した。
引き出しを探り、金目のものを探した。財布から現金とクレジットカードを抜き取り、部屋を出た。
逃走経路など考えていなかった。すぐに警察に拘束された。
スピード裁判だった。強盗目的で一家四人を殺害、終身刑だ。刑務所で死を待つのみだった。灰色の壁を見上げて眠りについた。記憶はそこで終わっていた。
「俺は、強盗をして一家四人を惨殺した」
ルイは両手を見つめる。何の罪もない家族の血に塗れた手を。
「お前が無惨に殺したのはワシの娘一家だった。娘は三人目を身ごもっており、孫は小学校に入るのを楽しみにしておった。裁判でお前に反省の色は一切見えなかった」
エンリケは淡々と語る。
「工藤隆一、それがお前の名だ。ワシは密かにお前の身柄を買い、偽りの記憶を植え付けてここへ連れてきた」
「そんな、まさか」
工藤隆一は目を見開く。家族との幸せな時間が人為的に作られたものだったとは。人生が覆えされた恐怖に全身が震え、汗が噴き出す。
「お前に家族を奪われた孤独と苦しみを味合わせるためだ。どんな気分だ、お前の愛する家族は二度と戻らぬ」
エンリケは絶望する隆一の姿を見て哄笑する。潮騒が遠くに聞こえている。笑い声が耳の奥に木霊し、隆一はドロドロのマグマのような熱い怒りがこみ上げてくるのを感じた。
反射的にテーブルにあったナイフを手に取り、エンリケの胸を刺した。
「ぐっ」
くぐもった声を上げ、エンリケの胸が赤く染まっていく。口から血を吹き出し、膝を折った。
「憎いか、悔しいか。これがワシの復讐だ。お前はこのつまらない島の最後の住人だ」
エンリケは震える手で隆一を指差す。そして再び嘲笑う。一つ大きな咳とともに大量の血を吐き出し、事切れた。
「くそっ」
隆一は泣きわめきながらエンリケの身体を足蹴にした。偽りの記憶だとしても妻と子供たちを愛していた。その気持ちを踏みにじられた怒りと悔しさは恐ろしく耐えがたく、エンリケに憎悪を向けるしかなかった。
ひとしきり老体を痛めつけたあと、隆一は椅子に腰掛け鼻水と涙を拭う。
エンリケは隆一にこの島の最後の住人だと言った。老人は死んでしまった。他の住人も消えてしまった。この島に一人で暮らして行けるのだろうか。隆一は愕然とした。
絶海の孤島に偽りの家族を連れてきて住まわせ、そしてあっという間に撤収させた。老人はとんでもない財力と執念をもって復讐を成し遂げたのだ。
この島を出るヒントはないか。隆一はエンリケの小屋を物色し始めた。食器棚、箪笥と変わったところは無い。
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