第5話

(き、来てしまった)


 誘われるままに慎兄さんの部屋に来てしまった。というより、気がついたら慎兄さんの部屋だったというほうが正しい気がする。


(ここに慎兄さんは住んでるんだ)


 一軒家のうちとは違うお洒落なマンションで、部屋の中もテレビや雑誌の中みたいだと思った。いま座っているソファもインテリア雑誌から出てきたようにお洒落だ。初めて見る好きな人の部屋に、嬉しいやら照れくさいやらで思わずクッションを抱きしめながらキョロキョロ見回してしまった。


(あれ、この匂い……)


 抱きしめたクッションからいい匂いがする。


(もしかして香水かな)


 二海兄さんは香水をつけるけど、僕と壱夜兄さんは使わない。たまに壱夜兄さんから香水の匂いがするときは靜佳とデートしたか部屋に行った後だ。


(二海兄さんのはもっと甘い感じかなぁ。靜佳のは大人っぽい感じで、でも壱夜兄さんに移ったときは柔らかい感じになるんだよね)


 自分が使わないから香水の種類なんてわからない。でも、いまほのかに匂っている香りはかっこいい慎兄さんにぴったりな気がした。その香りが座っているクッションをギュッと抱きしめ、ついクンクンと嗅いでしまう。


(そういえば車の中もほんのりいい匂いがしてたっけ)


 緊張していたせいではっきり覚えていないけど、車用の芳香剤とは違う優しい香りだった。


(慎兄さんは香水、ちょっとだけ付けるんだ)


 そういうところも二海兄さんとは違う。二海兄さんのは甘いのが強いけど、慎兄さんのは少しだけ柑橘っぽい爽やかな感じもした。


(こうやって抱きしめてたら、僕の服に移るかな)


 もし香りが移れば家に帰ってからも嗅ぐことができる。


(いつも靜佳の香水が移ってる壱夜兄さん、うらやましかったんだよな)


 そこまで考えてハッとした。服に香水の匂いが移るなんて、それじゃ恋人みたいだ。壱夜兄さんと靜佳は恋人同士だからおかしくないけど、僕と慎兄さんは……。


(……そういえば好きって言っちゃったんだ)


 美容院でのことを思い出して顔が熱くなった。


(あのとき「俺も」って聞こえた気がしたけど、やっぱり空耳だよな)


 勢い余って告白してしまった僕は相当混乱していた。頭はグルグルしていたし、体もカッカと熱くなって訳がわからなくなっていた。そのせいで自分に都合がいい空耳が聞こえてしまっただけだ。


(でも、それじゃあのキスは……されたのは夢じゃないよね……?)


 キスされた頬をそっと撫でる。僕の頬に触れた慎兄さんの唇は柔らかくて熱かった。まるで恋愛小説のワンシーンみたいなキスだった。


(それからニコッて笑って、慎兄さんの親指が僕の唇を撫でて……)


「こっちはまた後で」と言われた気がする。


(……~~っ)


 いろいろ思い出したせいで、また頭がグルグルし始めた。抱きしめたクッションに顔を埋めながら足をバタバタさせる。気がつけば「うー」とか「あー」とかよくわからない声まで出ていた。


「どうかした?」

「し、ししし慎兄さん!」

「どうしたの?」

「なななななんでもないですっ」


 慌ててクッションから顔を上げた。飲み物を持って来てくれた慎兄さんが「三春くんは何やってもかわいいね」なんて言いながら隣に座る。


「か、かわいいなんて、そんなことないです」

「そんなことあるよ? 三春くんは小さいときからずっとかわいかった。ランドセル背負ってたときもかわいかったし、中学の学ランも高校のブレザーもかわいかった」

「ランドセルって、それは小学生だからかわいく見えただけで……って、学ラン? ブレザー?」


 慎兄さんが都会に行ったのは僕が小学生のときだ。それから一度も会っていないから中学や高校の制服姿は見せていない。「あれ?」と思って首を傾げていると「二海に見せてもらったんだよ」と言ってスマホの画面をタップし始めた。


「あんまりかわいいから頼み込んで送ってもらったんだ。お気に入りは中学の入学式かな。夏服もかわいいし、高校のは壱夜さんにネクタイ結んでもらってるときのと、やっぱり入学式も捨てがたいかな」


 そういって見せてもらったスマホの画面には、僕の懐かしい写真が何枚も表示されていた。全部二海兄さんが撮ったもので、いつの間に慎兄さんに見せていたんだろうと眉が寄る。


(どうせなら、もう少しマシなもの見せてくれればよかったのに)


 どれもこれも子どもっぽくて恥ずかしい写真ばかりだ。とくに中学の入学式なんて、制服はブカブカだし子どもっぽさ丸出しで恥ずかしくなる。


「もしかして俺が写真持ってるの嫌?」

「嫌っていうか、子どもっぽくて恥ずかしいっていうか……」

「子どもっぽいかなぁ。俺には国宝級にかわいく見えるけど」

「こ、国宝級って……それに僕、かわいくなんてないです」

「そんなことないよ。三春くんは昔からかわいかったし、いまだってかわいい」


 抱きしめたクッションに半分顔を埋めたまま隣をチラッと見ると、スマホを見ながら微笑んでいる慎兄さんの横顔が目に入った。


(慎兄さんこそ昔からずっとかっこいい)


 いままで慎兄さんよりかっこいい人を見たことがない。前にうっかりそう言ったら、二海兄さんが「俺のほうがかっこいいだろうが」なんて怒っていたっけ。

 僕がじっと見つめていることに気づいたのか、慎兄さんがスマホを置いて僕のほうを見た。そうやって見つめられるとどうしても目がウロウロしてしまう。


「俺はね、三春くんのことがずっと好きだったんだ」

「えっ!?」

「どうして驚くかなぁ。さっきも好きだって言ったのに」


 苦笑する慎兄さんに「あれは僕の空耳じゃ……」とつぶやくと、「空耳って、三春くんは相変わらずだなぁ」と言って笑い出す。僕はといえばいろんな意味で頭も目もグルグル回っていた。


「これはしっかり言っておかないと危ないな」

「慎兄さん、」


 体ごと僕を見た慎兄さんがニコッと笑った。その笑顔がすぐに真面目な顔に変わる。


「俺は三春くんが好きです。ずっと昔から好きでした」

「ずっと昔、」

「そう、三春くんが俺を好きだと言ってくれたときからずっと」

「それって、」

「三春くんが幼稚園生のときで俺が中学生のときかな」


 僕の顔を見ながら慎兄さんがニコッと微笑んだ。


「十年以上会わなかった間も忘れられなかった。むしろ会えない分どんどん気持ちが膨らんでいった。もうね、毎晩のように三春くんが夢に出てくるんだ。これは重症だなと思って、それで戻って来ることにしたんだ」


「え? え?」と戸惑っている僕に慎兄さんが「こんな俺、重たいかな?」と寂しそうに笑う。


「それとも気持ち悪いとか幻滅するとか思われちゃうかな」

「そ、そんなこと思いません! それに僕だって……」

「俺しか好きじゃないんだよね?」


 改めて指摘されると恥ずかしくて居たたまれない。思わず抱きしめたクッションに口元をぎゅっと押しつけた。


「僕のほうこそ、ずっと好きだったなんて絶対に気持ち悪いし」


 モゴモゴと話す僕に「そんなことないよ」と言いながら慎兄さんが僕のおでこをさらっと撫でた。


「気持ち悪いなんて絶対に思わない。むしろ真っさらなままでいてくれたことに感謝しているくらいだ。まぁ、真っさらすぎてどうしようかと思わなくはないけど、そこは逆に嬉しいというか教え甲斐があるというか」

「教え甲斐……?」


 よくわからなくて顔を上げると「こっちの話だから気にしないで」と、今度は頬を撫でられた。


「うーん。やっぱりあんな約束しなけりゃよかったかな」

「約束?」

「せっかく両思いになったのに二海と約束したからなぁ」

「二海兄さんと何か約束したんですか?」

「二海や壱夜さんと同じように俺も三春くんを守るっていう約束をね」

「守るって……」


 兄さんたちの場合は過保護なだけだ。まるでまだ僕が子どもみたいに心配する。そうしたくなる過去があったとしても僕ももう立派な大人なんだし、そろそろ弟離れをしてもいい頃だと思う。


「たしかに真っさらな三春くんを相手にいきなりはなしだと思うけど、これは俺の理性が試されるなぁ」

「理性、ですか?」

「まぁ、少しずつ進めていこうか。せっかく恋人になったんだしね」

「こ、恋人」

「そう、恋人。告白し合って気持ちを確かめたから、もう恋人だと思うんだけど違った?」

「ち、違わないです」


 違わないけど、いきなり恋人なんて言われるとどうしていいのかわからなくなる。そう思いながらクッションに口元まで埋めたところで「そうだ、続きする?」と言われた。


「続き?」

「そう、お店でしたことの続き」


「え?」と顔を上げると「キスの続きだよ」と言いながら慎兄さんの指が唇を撫でる。


「キ、キスの続き、」

「してもいい?」


 触られている唇が急にゾクゾクしてきた。唇も頬もぼわっと熱くなる。


「それともしたくない?」


 慌てて「したいです」と言いかけてハッとした。

 恋人になってすぐにそんなことを言うなんておかしくないだろうか。がっついているとかみっともないとか、そういうふうに思われたくなくてちろっと視線を上げる。

 そこには美容院で見たときと同じ慎兄さんの顔があった。いつもどおりかっこいいのに、いつもと何だか違う。あのときふと浮かんだのは色気という言葉だったけど、それよりもっと……駄目だ、やっぱり何て表現していいのかわからない。

 その顔で見つめられるとなぜか背中がソワソワした。うなじや耳の裏までソワソワしてくる。頭がクラクラし始めたところで下唇を撫でられて体がカッとなった。


「し……したい、です」


 答えた途端に首筋がぞわっとした。今度は上唇を撫でられて背中がゾクゾクする。思わず目を瞑ると「かわいい」と慎兄さんが囁いたのがわかった。


「慎、ん……っ」


 柔らかいものがぶつかって名前を呼べなかった。一瞬何が起きたかわからなくて目を開けたけど、目の前に何かがあってよく見えない。


(これって……もしかして僕、慎兄さんとキスしてるんじゃ)


 そう思った途端に唇が猛烈に熱くなった。キスなんて初めてだから、どうしたらいいのかわからない。アワアワしていたら、慎兄さんが息を吐くみたいに笑ってからもっと唇をくっつけてきた。


(き、気持ちいい……気がする……)


 段々頭がぼんやりしてきた。何度もチュッチュッと音がするのが少しだけ恥ずかしくて目を閉じる。くっついているところがますます熱くなって、そのうち体がフワフワし始めた。


「ん……」


 もっとしていたかったのに慎兄さんの唇が離れてしまった。残念に思いながらゆっくりと目を開けると、いつもよりずっと近いところに慎兄さんの顔がある。


「あー……やっぱり約束なんてするんじゃなかった」

「……?」

「店を出るタイミングでメッセージとか、まさかあいつ盗聴器仕掛けてるんじゃないだろうな」

「し、」


 名前を呼びたいのに唇がじんわり痺れていてうまく動かない。


「まぁ、焦る必要はないか。それに時間はたっぷりあるわけだし」

「慎、兄さん」


 ようやく唇が動いた。でも少し動かすだけでジンジンする。それがキスをしたからだとわかって顔が熱くなってきた。


「そうだ、今夜泊まっていく?」

「え?」

「よかったらだけど」

「と、泊まりたいです!」


 思わず前のめりに答えてしまった。だって恋人ができたら相手の部屋に泊まるのが夢だったんだ。兄さんたちが泊まるのを見るたびにうらやましく思っていたけど、ついに僕も恋人の部屋に泊まる日が来たんだ。


「それじゃ、壱夜さんに連絡しておこうか。黙ったままだときっとすごく怒るだろうから」

「はいっ」


 僕は大慌てで壱夜兄さんにメッセージを送った。いつもならすぐに返事が来るのに待っても待っても返事が来ない。


(今夜は喫茶店じゃないはずなんだけど……あ、もしかしてデート中なのかな)


 それならすぐには返って来ない気がする。だからといって返事が来ないまま外泊するわけにはいかない。そんなことをしたら壱夜兄さんは絶対に悲しむ。


(グループメッセージだから二海兄さんも見てるし、それなら大丈夫かなぁ)


 そう思って画面を見ていたら「慎太郎にはメッセージ入れておいたから」という二海兄さんのメッセージが表示された。きっと壱夜兄さんへのメッセージに違いない。それならきっと大丈夫と思った僕は、夕飯を作ってくれるという慎兄さんの手伝いをすることにした。といってもお皿を出したりコップを運んだりしかできることはない。


(もう少し手伝えるくらい家で練習しないと)


 慎兄さんと恋人になったんだから、これからこういうことが何度もあるはずだ。そのたびに慎兄さんにばかり任せるのは気が引ける。「壱夜兄さんに料理も教えてもらわないと」と思いながら、僕は大好きな慎兄さんとの時間を思う存分堪能することにした。

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