第3話
慎兄さんに髪を切ってもらってから半月ぐらいが経った。少しだけ髪が伸びたような気はするけど、色は慎兄さんが言ったみたいに「抜けて明るくなる」という感じはしない。
(初めて染めたから抜けてるかなんてわからないけど……いや、抜けてなんかない……はず)
もし色が抜けてしまったら染め直すことになる。ということは、あのお洒落な美容院にまた行かないといけないということだ。
(慎兄さんにはおいでって言われたけど、やっぱり二度目は無理だよ)
お洒落なお店の雰囲気を思い出すだけで気が引けた。それに行くとしたら慎兄さんに連絡しないといけないわけで、それが一番無理そうな気がする。
(そりゃあ、本当はもう一度会いたいって思ってるけどさ)
髪を切りに行った日から毎日のように慎兄さんを思い出すからか、本心では会いたくて仕方がない。そう思っていても会いに行く勇気は持てなかった。
(毎日思い出す僕も悪いんだろうけど)
鏡に映っていたかっこいい顔や、僕の頭を優しく洗ってくれた長い指の感触を毎日のように思い出した。僕を見ながら最後に「またおいで」って言ってくれた笑顔も何度も思い出している。
思い出すたびにドキドキして、同時に少しだけ胸が苦しくなった。もう一度会いたいと思っていても、また会えばもっとつらくなるとわかっているから会うのが少し怖い。そう思っているうちに「やっぱり好きなままでいないほうがいいのかな」なんて思うようにもなった。
(僕に好かれてるなんて慎兄さんには迷惑だろうし)
こんなふうにグズグズ考える男は慎兄さんにはふさわしくない。せっかく髪の毛をお洒落にしてもらっても、こんな中身の僕には似合わないしもったいないだけだ。それなら二度と行かないほうがいい。
「そうだ、もう行かないほうがいいんだ」
決意するようにそう口にした。それに僕なんかのために慎兄さんの時間を奪ってしまうのも悪い気がする。二海兄さんが「慎太郎の指名予約ってなかなか取れないらしいから」と言っていたことを思い出すたびにそう思った。
(そもそも僕がお洒落な髪型にしたところでどうするんだ)
「似合うよ」なんて言ってくれるのは兄さんたちだけだ。そういえば靜佳も「似合ってる」なんて言ってくれたけど、幼馴染みだから気を遣ってくれたんだろう。もしくは「かわいいよね?」と念押しするように尋ねた壱夜兄さんのほうに気を遣ったかだ。
(っていうか壱夜兄さん、バイト中にもかわいいとか言うのはどうなんだかな)
バイトのときのことを思い出して、思わず口を尖らせてしまった。
美容院に行った三日後、僕はいつもどおりバイトに向かった。バイト先は壱夜兄さんと同じ喫茶店で、その日はたまたま常連さんや靜佳しかお客さんがいない日だった。
だからか、壱夜兄さんはエプロン姿になった僕を見るなり「やっぱり三春はかわいいなぁ」なんて言い出したのだ。それを聞いた常連さんたちまでもが「かわいいねぇ」なんて言うから、恥ずかしさのあまり一度だけ注文を聞き間違えてしまった。あのときは常連さんだったから笑って許してくれたけど、ほかのお客さんだったら大変なことになっていた。
(まぁ、聞き間違えた僕が悪いんだけどさ)
本当に僕って奴は何をやっても駄目なんだと落ち込みそうになる。
高校を卒業した後、僕は大学に行くでもなく就職するでもなく家で暇な時間を過ごしていた。大学や専門学校に行くことを考えなかったわけじゃないけど、家から通えるところに行きたい学校がなくて進学はしなかった。
(そもそも、やりたいことがないんだよなぁ)
僕は昔からこうだ。何かに夢中になることがあまりなくて、幼稚園のときから一人で本を読んでいることが多い子どもだった。
おまけに要領が悪いからか、いつも兄さんたちに助けてもらってばかりいる。いまのバイトだって壱夜兄さんの勧めで働くようになったくらいで、その喫茶店だって靜佳のおじいさんのお店だから採用されたようなものだ。
高校を卒業したあと一人暮らしをしてみたいと思ったこともあったけど、料理はできないし掃除も得意じゃない僕には無理だと諦めた。それに兄さんたちが口を揃えて「一人は危ない」と心配するから、この先も一人暮らしはできないような気がする。
(父さんは好きなことをすればいいって言ってくれるけど……僕の好きなことって何だろう)
翻訳の仕事で海外にいることが多い父さんは「側で見守ってやれないから」と言って僕の気持ちをいつも尊重してくれる。それに「無理はしなくていい、ゆっくりやりたいことを探せばいい」とも言ってくれた。でも、その好きなことがいまの僕には見つからない。
「好きなこと……好きなこと……まぁ、慎兄さんのことはずっと好きだけど」
(って、そういうことじゃないし!)
慌てて頭をブンブン振った。父さんが言う「好きなこと」はそういうことじゃないのに、好きという言葉を思い浮かべるだけで慎兄さんのことを思い出してしまう。
(好きなこと……やりたいこと……考えても何も思い浮かばないんだよなぁ)
小さいときから続いているのは本を読むことくらいで、それ以外だと写真を撮るのは好きかもしれない。といってもスマホで空とか花とか野良猫とかを撮る程度だから、仕事にしようなんて思ったことはなかった。父さんの影響もあって翻訳された本もたくさん読んできたけど、それが仕事に役立つとも思えない。
僕が好きなことは仕事に繋がらないことばかりだ。二十二歳にもなった男がこんな状態なんて、さすがに引くレベルのような気がする。
(こんなんで、この先ちゃんと生きていけるのかな)
このままじゃ、これから先ずっと壱夜兄さんに養ってもらうことになりそうな気がした。そんなの、いくら弟でも情けなさすぎて自分でも嫌になる。
そんなことをぼんやり考えていたらピロンと着信音が鳴った。テーブルに置いたままのスマホを見ると慎兄さんの名前が表示されている。
「え!? 慎兄さん!?」
慌ててメッセージを開いたけど間違いなく慎兄さんからのものだ。
(今日の夕方五時過ぎに会えないか、って……。今日って……今日!?)
慌てて時計を見た。いまが三時過ぎということは五時まで二時間もない。
(ええと、車で迎えに行くから……って、迎えにって、慎兄さんがうちまで来るってこと!?)
ど、どうしよう。迎えに来てくれるのに断るのは悪い気がする。そもそも僕に会いたいなんてどういうことだろう。僕はメッセージを見ながらテーブルの前をウロウロと歩き回った。
(落ち着け僕。“会いたい”じゃなくて“会えないか”だ)
きっと何か用事があるんだ。そうだ、会いたいんじゃなくて会わないといけないことがあるに違いない。
(そっか、髪の毛がどうなったか気にしてるのかも)
結局あれから一度も慎兄さんに連絡していない。だから、その後どうなったか心配してくれているのかもしれない。
(どうしよう、髪の毛なんてちゃんと整えたことないんだけど)
慎兄さんが切ってくれたのにボサボサ頭で会うことなんてできるはずがない。そう考えた僕は慌てて洗面所に向かった。
洗面台の脇にある棚には、兄さんたちが使っている整髪料なんかも置いてある。何種類もある中で、美容院でつけてもらったのと似た香りのものを選んでほんの少し指に取った。
(二海兄さんが何種類も持ってるのが不思議だったけど、今回は助かった)
どうやって付ければいいのかわからないから、慎兄さんがしていたように指で髪の毛をサクサク梳くようにする。
(なんだかちっとも変わってない気がするけど……って、そうだ、服!)
いま着ているのはお気に入りのスウェットだ。壱夜兄さんは「かわいいよ」なんて言ってくれるけど、こんな普段着で慎兄さんに会うわけにはいかない。大急ぎで階段を駆け上がって自分の部屋に飛び込み、クローゼットに上半身を突っ込んで奥をゴソゴソ漁った。
(たしかここに……あった!)
まだ下ろしていなかった綺麗なままのシャツと、外行き用のデニムパンツを引っ張り出す。
(そっか、今日は曇ってるから外はきっと寒いよな)
それなら裏側にボアがついたズボンのほうがいいかもしれない。持っていたデニムをベッドに放り投げて、チェック柄のズボンを引っ張り出した。
見た目は普通のズボンだけど、裏側がボアになっているからすごく暖かい。真冬に雪が降ったときも大丈夫だったから、これならきっと寒くないはず。
(寒いとトイレが気になるからさ)
慎兄さんと会うのにトイレのことばかり気にするのは恥ずかしすぎる。よし、このシャツとズボンにして、上にコートを着れば……。
(って、コートはまだ早いか)
もうすぐ十二月だけど冬のコートは早い気がする。それなら、このへんにたしか……あった。
(厚手のパーカーなら変じゃないよね)
念のためマフラーもすれば寒くない。もし暑くなったら取ればいいだけだ。
選んだ服を念のためベッドに並べて確認する。うん、これならかっこいい慎兄さんの隣にいてもおかしくはない……はず。真っ白なパーカーは壱夜兄さんが選んでくれたものだし、「似合ってる」と何度も言ってくれた。中身が冴えない僕なのは仕方がないとして、服だけでも変じゃないものを着ておきたい。
よし、これで大丈夫と思って時計を見ると四時を少し過ぎたところだった。
「……あぁ!」
しまった、慎兄さんに返事をしていない。慌ててスマホを探したけど、ベッドにも机にも見当たらなかった。
(テーブルに置いたままだ!)
バタバタと階段を駆け足で下りてからリビングに入ると、やっぱり置きっぱなしになっていた。急いで返事をしようと手に取ったところで、画面に慎兄さんからの新しいメッセージが表示されていることに気づく。
(無理ならまた今度……って、無理じゃない!)
僕至上一番というくらの速さで、でも変な文章にならないように気をつけながら何とか返事を送った。
それから急いで着替えて、去年のクリスマスに二海兄さんがくれたコーデュロイ生地のボディバッグに財布やハンカチを突っ込む。念のためにもう一度洗面所で鏡を見て、また整髪料を少しだけ拝借してから何となく髪をまとめた。パーカーを着てから前も後ろも鏡でチェックして、ボディバッグを肩にかけてからもチェックしていたら玄関のチャイムが鳴った。
(き、来た!)
心臓が壊れるんじゃないかと心配になるくらいドキドキしながら、僕は大急ぎで玄関に走って行った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます