第2話
「力加減は大丈夫?」
「はい、あの、大丈夫です」
おかしな声になっていないか心配になったけど、すぐに気持ちよくなってウトウトした。そんな僕に気づいたのか、それから慎兄さんは何も言わずに髪を洗ってくれている。長い指が優しく揉むように頭に触れるたびに、僕はフワフワした浮遊感と心地よさにうっとりした。
(何もかも初めてのことばっかりだけど……すごく気持ちいい……)
椅子に座ったときは緊張でガチガチだった。いつも同じ髪型の僕は髪を切る前に「希望の長さとかある?」と聞かれても答えられない。いつも行く床屋では毎回同じように切ってもらうだけだったから長さなんて考えたこともなかった。何て答えればいいのか焦っていたら「俺好みにしても平気?」と聞かれて思わず「はいっ」と答えていた。
(俺好みって、よく考えるとすごい言葉だよね)
美容師ってみんなああいうことを言うんだろうか。そうだとしても、慎兄さんにそんなことを言われて嬉しくないはずがない。
そうして切ってもらった髪型は、僕にはもったいないくらいお洒落な感じだった。もっさりした田舎者だった僕が、ちょっとだけ都会の人になったような気さえしてくる。それから髪を染めたんだけど、何とかっていう横文字の染め方らしくて名前すら覚えられなかった。
「全体じゃなくて部分的に染めるだけだから」
「ええと……はい」
説明されてもよくわかならかった僕に、慎兄さんは「こんな感じかな」と言ってタブレットで写真を見せてくれた。画面には、黒髪に何本も明るい色が入っていて毛先も明るくなっている後ろ姿の写真が映っている。そんな派手な色にするのは恥ずかしいと思っていると「色は暗めにするよ」と言われて少しだけホッとした。
そうして初めて髪を染めた後、今度はすぱっていうのをしてもらうことになった。レモンみたいな香りのオイルを頭皮に塗ったりマッサージをしてもらったり、至れり尽くせりというのはこういうことを言うに違いない。
(それを全部慎兄さんがしてくれるんだもんな)
切っているときも染めているときも、目の前の鏡を見るたびに慎兄さんの顔が見えた。当たり前なんだけど、視界に入るたびに「慎兄さんに切ってもらってるんだ」と実感できて胸がいっぱいになる。長い指が僕の髪の毛に触れるだけでソワソワもした。ますます好きな気持ちが溢れそうになるのを必死に抑えたけど、ばれずに済んでいるか少し心配になる。
そしていまは、シャンプー台で頭皮を揉むようにマッサージしてくれている。長い指がグーッと揉んでくれるんだけど、最初は慎兄さんが触っているというだけで首の上側がソワソワした。緊張して全身カチカチになっていたのに、気がついたら気持ちがよくてずっとウトウトしている。「慎兄さんが上手だからだろうな」なんてうっとりしながら、気がついたらすっかり眠気に負けてしまっていた。
「寝てる顔もかわいいなぁ。あーやばい、キスしたくなる」
どこからか慎兄さんの声が聞こえてきた。
(……って僕、眠って……?)
ゆっくり目を開けたら、慎兄さんに見下ろされていてびっくりした。一瞬夢かと思ったけど、そういえば頭を洗ってもらっていたんだっけと思い出す。
「気持ちよかった?」
「え、と……」
お湯の音が聞こえなくなっているということは、すぱっていうのは終わったんだろう。その代わり、何かに包まれている頭がホカホカしていた。どうなっているのかわからなくてキョロキョロと目を動かしてしまう。
「ホットタオルしてるから、あと少し眠ってていいよ。終わったら起こしてあげるから」
「あの、……はい」
どうやら僕は完全に眠っていたらしい。恥ずかしくなって小さい声で返事をしたら、慎兄さんがニコッと笑いかけてくれた。
(……どうしよう、笑顔がかっこよすぎてつらい)
慌てて目を瞑ったものの、ドキドキしていたせいか今度は眠ることはなかった。
ホットタオルというのが終わったあと、席に戻ったら慎兄さんが首や肩を揉んでくれた。首に手が触れたときは一瞬ビクッとしてしまったけど、別に嫌だったわけじゃない。むしろ触られたところが熱くなって顔まで真っ赤になってしまった。
それからドライヤーで丁寧に乾かしてもらって、最後にいい匂いがする整髪料を少しだけ付けてもらった。いつも整髪料を使うことがないから、それだけで急にお洒落になったような気がする。
こうして僕の初めての美容院は無事に終わった。
「ドライヤーのとき、手櫛で適当に乾かしても綺麗にまとまるからね。それから……はい、後ろはこんな感じ。ここではそんなに目立たない色味だけど、太陽に当たったら綺麗に見えると思うよ。時間が経ったら少し色が抜けて明るくなるけど、その頃は髪も伸びてるだろうしまた切りにおいで」
「え……?」
やったことがない髪型と色に鏡を見ながら「ひょえぇ」と思っていたから、うっかり聞き逃すところだった。
「あの……また、切りに来るんですか?」
思わずそんなことを言ってしまった。「これじゃあ失礼じゃないか!」と慌てて「ええと、そうじゃなくて、」と言ったら、鏡の中の慎兄さんが「あはは」と笑い始める。
「三春くんは相変わらず遠慮がちだなぁ。急に連絡してくる二海とは大違いだ。もし俺に切られるのが嫌じゃなかったら、ぜひ来てほしい」
「そんな、嫌だなんて絶対に思わないです」
「よかった。それじゃあ連絡先交換しようか」
「え……?」
「店に電話で予約してもらってもいいけど、俺がいないときもあるからね。直接メッセージもらったほうがありがたい」
「ええと、あの、」
さすがにそこまでしてもらうのは迷惑じゃないだろうか。それに僕から慎兄さんに連絡なんてできるとは思えない。どんな文章を送ればいいか考えて考えて、結局送れないような気がする。そう思ったけど、会計のときに「スマホ貸してくれる?」と言われて素直に渡してしまった。
こうして家族以外は数人しか登録していないメッセージアプリに、慎兄さんの連絡先が加わることになった。
いつもと違う髪型と初めてのカラーだからか、帰り道は周囲の目が気になって仕方がなかった。同時に「慎兄さんに切ってもらった」なんて浮かれ足になっていた気もする。それでも「あんな奴がなんであんな髪型を?」と思われているような気がした僕は、気がつけばいつもより少し早足で家へと向かっていた。
そうやって家にたどり着くと、玄関にはちょうど出かけようとしていた二海兄さんがいた。
「おぉー、かわいいじゃん」
「かわいいって……」
僕が「ただいま」と言う前に「想像以上にかわいくなったな」なんて言うから、思わず呆れた顔になってしまう。
「な? 慎太郎に任せてよかっただろ?」
「それはまぁ、そう思うけど」
お洒落になりたいとは思っていないけど、慎兄さんにいろいろしてもらえたのは嬉しい。だって、こういうことでもない限り慎兄さんに近づける機会なんて僕にはないんだ。
「……なに?」
スニーカーを履きながら、二海兄さんがじっと僕を見ている。何だろうと思って声をかけたら「うーん、こりゃあかえってまずいかもなぁ」なんて言い出すから思わずムッとしてしまった。
「そりゃあ僕みたいな男にはこんなお洒落な髪、似合わないと思うけどさ。でも、勝手にあれこれ言ったのは二海兄さんだからね」
「違うって。かわいくなったのは当然として、これじゃ余計な虫まで寄って来そうだなって思っただけ」
「虫……?」
もしかして、最後につけてもらった整髪料に虫が寄って来るってことだろうか。たしかにすごくいい匂いがしたから、いまが春なら虫が近寄ってきたかもしれない。でもいまは秋の終わりで、帰り道で虫に襲われるなんてことはなかった。
「二海兄さんって、たまに変なこと言うよな」と思いながら靴を脱いでいると「一応、気をつけろよ」とまた言われる。
「ま、諦められなかったのは慎太郎のほうだし、あいつが責任持ってくれんだろうけど」
「責任って何のこと?」
よくわからないことを言いながらドアを開けた二海兄さんにそう聞いたら、「おまえも兄貴も、ろくでもない輩にモテるってことだよ」と返ってきた。
「ちょっと、それじゃあ意味がわからない」
「心配すんな。おまえも兄貴と一緒で彼氏が守ってくれるだろうからさ。その彼氏が一番ろくでもねぇけどな」
「え? って、彼氏って、僕そんな人いないからね!」
「わーってるって。んじゃ俺、
「鍵、ちゃんと閉めとけよ」と言いながら二海兄さんが出て行った。夕方から優美ちゃんのところに行くということは泊まってくるってことなんだろう。
二海兄さんと優美ちゃんはつき合いが長いベテランカップルだ。それに優美ちゃんは小さいときからよく知っている幼馴染みで、僕や壱夜兄さんとも仲がいい。二人とももう二十九歳だし泊まることだってしょっちゅうだ。
(結婚しないのかなぁ)
優美ちゃんのほうは絶対に結婚したがっている。それなのに待たせっぱなしだなんて、二海兄さんはヘタレに違いない。
鍵をかけながら、二海兄さんが最後に口にした言葉を思い出した。
(彼氏が守ってくれるって……そんなの、僕にいるわけないじゃんか)
そもそもなんで彼氏なんだ。彼女がいるかもしれないって思わないんだろうか。
(そりゃあ、僕はずっと慎兄さんしか見てなかったけどさ)
そのせいか、いままで女の子を好きになったことは一度もなかった。だからといって慎兄さんと付き合いたいなんて大それたことも思っていない。告白しようと思ったことももちろんなかった。
だって、相手は七歳も年上なんだ。それに慎兄さんは昔からすごくもてていたし、そんな慎兄さんが僕を親友の弟以上に見てくれるはずがない。
(わかってるけど、やっぱり諦めきれないっていうか……)
それでも慎兄さんが都会に行ったときに一度は諦めた。思い出すとつらくなるから、最初のうちはできるだけ思い出さないようにしていた。ここ二、三年はようやく「懐かしいなぁ」なんて写真を眺めたりしていたけど、今日からまた少しだけつらくなるような気がする。
(だって、実際に会ったら昔に戻ったっていうかさ)
小学生のときはいつも慎兄さんのことばかり考えていた。会うのは恥ずかしいのに会えないと悲しくなる。だから、いつもこっそり覗き見なんてことまでしていた。そんな僕に気づいた慎兄さんがニコッと微笑んでくれるのがたまらなく好きだった。
(そう、ずっと好きだったんだ)
でも好きなままでいても仕方がないと思って忘れようとした。それなのに今日会ってしまったせいで、昔の気持ちがあふれ出すように蘇った。ううん、我慢していた間にもっと好きになっていたことに気づかされた。お昼までは“片思いの人”だったのに、すっかり“いまでも好きな人”に変わってしまっている。
こんなんじゃ、きっと今夜からまた毎日慎兄さんのことを考えるに違いない。小学生のときはそれがつらくて考えることをやめたけど、大人になったいまのほうがもっとつらくなるような気がする。
(だって、どんなに好きになっても報われないってわかってるから)
僕みたいな田舎者は、かっこいい慎兄さんの隣にはふさわしくない。しかも僕は男で、さらに立派な大人でもないからだ。
(せめて壱夜兄さんみたいな大人の男だったら、少しは違ってたのかなぁ)
壱夜兄さんは優しくて大人で、それに弟の僕から見ても綺麗な人だ。女性的じゃないのに、かっこいいっていうよりも綺麗って言葉が似合う大人の男だと思う。
だから、幼馴染みで同性の
海外暮らしをしていた靜佳が大人びているからか、32歳の壱夜兄さんと26歳の靜佳が並んで立っていてもまったく変じゃない。むしろ大人の恋人同士という感じで素敵だなぁといつも思っている。
二海兄さんだってチャラチャラしているけど、高校のときはイケメンで有名だった。ファンクラブもあったみたいだし、いまでもすぐナンパされるんだって優美ちゃんが嫉妬するくらいにはモテるらしい。
(それに比べて僕なんて……)
小さい頃から何をしても自信が持てなかった。年が離れているから兄さんたちはかわいがってくれたけど、外に出たらただの冴えない男でしかない。人見知りで社交的でもないし、そんなだからモテたことなんて一度もなかった。兄さんたちとばかり一緒にいたからか、友達と呼べる人もほとんどいない。
そんな僕がかっこよくてお洒落な慎兄さんと付き合うとか……。
(ないない)
あまりにもあり得なさすぎて思わずブンブンと頭を振った。
(そもそも幼稚園のときからずっと好きだったなんて、慎兄さんが知ったらドン引きだよ)
だから、僕がずっと好きだったってことは絶対に気づかれないようにしないと。
「……髪、どうしようかなぁ」
慎兄さんは「また切りにおいで」と言ってくれたけど、僕から連絡する勇気は出そうにない。今日いた三人のお客さんも想像どおりお洒落な人たちばかりで、働いている美容師の人たちもお洒落で素敵だった。そんなお店にまた行くのかと思うだけで気後れしてしまう。
(うん、もう一度行くなんて僕には無理だ)
おじさんにはびっくりされそうだけど、伸びてきたらいつもの床屋に行こう。何度か切っているうちにお洒落な色の部分もなくなるはず。そうしたらいつもの僕に戻って、そのうちお洒落な髪にしたことも忘れるはずだ。
せっかく連絡先を交換したけどメッセージを送ることはないだろうなと思いながら、スマホの画面をそっと撫でた。
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