幼馴染みの二人
朏猫(ミカヅキネコ)
第1話
「おまえさ、
「え……?」
「ほら、俺と同じクラスで家にもよく遊びに来てた慎太郎」
「……覚えてるけど」
覚えているというより、忘れたことなんて一度もない。いまだって名前を聞いただけで心臓がピョンと跳ねてしまったくらいだ。
それを悟られないようにボソボソと答えたら、
「あいつ高校卒業してから都会の専門学校に通ってただろ? 専門学校卒業してからはファッション雑誌のヘアメイクとかしてたらしいんだけど、美容師としてこっちの美容院に転職したんだってさ」
都会に行ったことは知っていたけど、専門学校に通っていたなんて初耳だ。そもそも七歳も年が違う兄さんの同級生の進路を僕が知っているはずがない。
(でもそっか。慎兄さん、美容師になってたんだ)
中学生や高校生のときの慎兄さんを思い出す。あの頃もかっこいいなぁと思っていたけど、写真に映っている慎兄さんはさらにかっこよくなっていた。何だかすごく垢抜けていて芸能人っぽい感じにも見える。
(お洒落な都会の人って感じだな)
慎兄さんは二海兄さんみたいなチャラチャラした感じじゃないかっこよさで、見かけるたびにいつもドキドキしていた。それがさらにかっこよく、ううん、何倍増しにもなっている。じっくり見たい気持ちを我慢しながらスマホの画面をチラチラと見た。
慎兄さんに初めて会ったのは僕が幼稚園生のときだ。初対面のときから優しくて、本を読んでくれたりトランプで一緒に遊んでくれたりしてすぐに仲良くなった。家族以外で仲良くしてくれる人は初めだったから、僕はすぐに慎兄さんに懐いた。
最初は楽しくてワクワクするばかりだったけど、小学生になってからはドキドキすることが多くなった。慎兄さんが家に遊びに来ても恥ずかしいやら緊張するやらで、どうしてか挨拶くらいしかできない。そんな僕を二海兄さんがいつもからからかっていたのはいまでもよく覚えている。
(おかげでますます会いづらくなったっけ)
最後に会ったのは慎兄さんが高校を卒業する数日前だった。そのとき黒髪に赤色が混じった髪の毛になっていて、小学生だった僕はびっくりして呆然としたっけ。
(あの髪の毛、美容師の専門学校に行く前だったからだったんだ)
あのときはすごく驚いたけど、最後にかっこいい慎兄さんを見ることができてよかったといまでも思っている。
それ以来、僕は一度も慎兄さんに会っていない。二海兄さんは連絡を取り合っていたみたいだけど、親友の弟というだけの僕に慎兄さんとの接点なんてあるはずがなかった。
(せめて帰省してるってわかってたら、こっそり覗きに行くくらいはできたのに)
それなのに二海兄さんはいつも「そういや慎太郎、昨日まで帰省してたんだよ」なんて事後報告しかしてくれなかった。もちろん街中で偶然すれ違うなんてこともなかったし、きっと慎兄さんのほうは僕のことなんてすっかり忘れているに違いない。
「それでさ、……あった。ほら、やる」
そう言った二海兄さんが財布から名刺サイズのカードを出してスマホの横に置いた。
「なにこれ」
「美容院の割引券。俺はこの前切ったばかりだから、おまえにやるよ」
「こんなお洒落な美容院になんて行けないってば」
「そういやおまえ、まだあの床屋に行ってるんだっけ?」
「うん」
僕が通っているのは小学生の頃からお世話になっている床屋だ。おじいちゃんって呼ばれるような年齢になった顔馴染みのおじさんがやっているところで、小学生のときからずっと通っている。予約なしでも切ってくれるし、何も言わなくてもいつもの髪型にしてくれるから楽なんだ。そもそも僕は髪型にこだわったりしないから新しい床屋に行こうだとか、ましてや美容院に行こうなんて考えたこともない。
「おまえも二十歳過ぎたんだから美容院くらい行けって」
「……別に、髪型なんてどうでもいいし」
「ついでに染めてもらえよ。絶対にかわいいから」
「かわいいとか、なに言ってんのさ」
「俺もかわいいと思うよ?」
「ちょっと、
キッチンから顔を出した一番上の壱夜兄さんまで変なことを言い出した。
「せっかくだから行ってくればいいよ。はい、散髪代」
「バイト代あるから、お金は大丈夫」
「じゃあ、これは今月のお小遣い」
「お小遣いって……僕、もう二十二なんだけど」
「いくつになっても
よくわからない理由を言いながらポチ袋を押しつけられてしまった。猫のイラストはかわいいと思うけど、「お年玉」って文字が二十歳を過ぎると恥ずかしい。
実家暮らしだからお金には困っていないし、アルバイトも少しだけしているからお小遣いなんて必要ない。でも、ここで突っぱねると壱夜兄さんは絶対に悲しそうな顔をする。そんな顔は見たくないから、結局最後は受け取ってしまうんだ。
ポチ袋を両手で持って「ありがとうございます」と頭を下げたら、「どういたしまして」と言って壱夜兄さんがキッチンに引っ込んだ。それからすぐにお皿を持って戻って来る。
「おっ、オムライスだ。うっまそー」
「今度お店で出そうと思ってる試作品だよ。さぁ、三春も座って」
壱夜兄さんは小さな喫茶店で働いている。仕事は注文を取ったりレジを担当したりの接客なんだけど、たまに厨房のこともやっているらしい。元々料理が好きだから、メニューを考えるのは楽しいんだっていつも笑いながら話している。
「壱夜兄さんって昔から何でもできるもんなぁ」なんて思いながら自分の席に座ったところで、テーブルの上に置いてあった二海兄さんのスマホがブルブルと震えた。
「三春、今日は用事ないって言ってたよな?」
「うん、とくにはないけど」
「じゃあ、三時に美容院な」
「え?」
「慎太郎、三時なら空いてるってよ」
「え……?」
「三時でオッケー……っと。返事送っといたから」
「ちょっと二海兄さん、なに勝手なことしてんのさ!」
「いいから、いいから。ほら割引券も。忘れても慎太郎にもらったやつだから、割引はしてもらえるってさ」
出来立てのオムライスが載ったお皿の横に二海兄さんが割引券を置く。「だから僕は別に」と慌てる僕を見ることすらしない二海兄さんは、さっさと合掌してから「いただきます」とオムライスを食べ始めた。
「どうぞ召し上がれ。ほら、三春もあったかいうちに食べて」
「……うん」
せっかく壱夜兄さんが作ってくれたオムライスだ。文句は後回しにして僕も合掌しながら「いただきます」と言って一口食べる。最初に口に広がったのは刻んだトマトが入ったトマトソースの爽やかな味で、続いてホワイトソースのクリーミーな風味が広がった。ソースの二種類かけは見た目もおいしそうだけど味も抜群だ。
「兄さん、おいしいよ」
「よかった」
「そりゃあ兄貴の作ったもんだからな、うまくて当然だろ」
「もちろんそうだけど……って、そうじゃなくて! 二海兄さん、さっきの三時って、」
「美容院の予約時間。慎太郎の指名予約なかなか取れないらしいから、忘れずに行けよ?」
それって、無理やり予約を入れてもらったってことじゃないんだろうか。あんなお洒落な美容院になんて入れる気がしないけど、無理に取ってもらった予約だなんて聞かされたら断るのが申し訳なくなる。僕はハァとため息をついてから、壱夜兄さんのオムライスを黙々と食べた。
せっかくのオムライスも上の空で食べ終わった僕は、一時間も前から服を取っ替え引っ替えして出かける準備をした。初めて行くお洒落な美容院にふさわしい服をと考えてはみたものの、何を着ても中身が僕じゃあ絶対にお洒落になんてなれない。それでも約束を無視することはできなくて、何度も引き返したくなる気持ちを抑えながら何とか目的地にたどり着くことができた。
「……めちゃくちゃお洒落だ」
通りの反対側から見たお店は、思わずそうつぶやいてしまうくらいお洒落だった。都会にあるような雰囲気だから、お客さんもきっとお洒落な人ばかりに違いない。
そんなお店に僕みたいなもっさりした田舎者が入る勇気なんて湧くはずがなかった。店構えを見た途端に足が止まり、すぐにでも帰りたい気持ちになる。
(どうしよう)
やっぱり二海兄さんに断ってもらえばよかった。お昼ご飯の最中に何度もそう思ったのに、どうしても断れなかったことをいまさらながら後悔する。
(……だって慎兄さん、すごくかっこよかったからさ)
だから、つい会ってみたいなんて思ってしまったんだ。
スマホの中の慎兄さんは本当にかっこよかった。最後に見たときよりずっとかっこよくて、横目でチラチラ見ただけだけどすごくドキドキした。ドキドキしながら「お客さんとしてなら会ってもおかしくないよね」なんて思ってしまった。
こんな機会でもなければ兄弟の同級生に会うことなんてまずない。とくに七歳も年上だと、年が離れすぎていて接点なんてまったくなかった。でも、お客さんとしてなら堂々と会いに行ける。もしかしたら二海兄さんから僕のことを聞いて、ちょっとでも思い出してくれているかも、なんて期待までしていた。
でも、やっぱり無理だ。さっきまでは「お客さんだし、二海兄さんが無理やり予約しただけだし」なんて言い訳みたいなことを思っていたけど、こんなお洒落な美容院に入る勇気はない。
(うん、やっぱり僕には無理だ)
二海兄さんに連絡先を教えてもらってキャンセルの連絡をしよう。そういえば割引券にお店の連絡先が載っていた気がする。先にお店に電話して、それから慎兄さんに連絡したほうがいいだろうか。
そう思ってスマホに視線を落としたところで「三春くん?」という声が聞こえていた。
「あ……」
顔を上げたら、お店の前にとんでもなくかっこいい人が立っていた。ちょうど建物の影になっているのに、まるでそこだけスポットライトが当たっているかのようにキラキラ光って見える。思わず目をすがめたところで「やっぱり三春くんだ」という声がした。
(この声……って、慎兄さんだ)
久しぶりに聞く慎兄さんの声に心臓がドクンと跳ねた。そのままドッドッと鼓動が早くなる。
何度も思い出していた声よりも現実は少しだけ低かった。それがまたかっこよくて顔が段々熱くなってくる。それに昔と同じように優しい声で「三春くん」と呼んでくれたことが嬉しかった。覚えていてくれたんだと思うだけで胸がきゅっと切なくなる。
「大丈夫?」
「え……?」
ぼんやり見とれていたら、僕に聞こえるようにか少しだけ大きな声が聞こえてきた。
「もしかして迷子になってた? ここ住宅街側だから、ちょっとわかりにくかったかな」
「ええと、」
慎兄さんの声ははっきり聞こえているのにうまく理解できない。嬉しいとか恥ずかしいとかいろんな感情が体の中をグルグル回って、まるで外国語を聞いているような感じがした。それでも返事をしないとと焦っていると「スマホ見てるから、てっきり迷子になったのかと思って」と慎兄さんが笑っている。
「あの、そうじゃなくて、時間早すぎたかなって、思って」
慌ててスマホをボディバッグに突っ込んだ。大人なのに迷子を心配されるなんて恥ずかしすぎる。
「時間なら大丈夫だよ。さぁ入って」
そう言いながら慎兄さんがお店のドアを開けてしまった。そんなことまでされたら「やっぱり帰ります」なんて言えるはずがない。
(ど、どうしよう)
帰ることもできず、かといって近づくこともできない。写真なんかよりずっとかっこいい姿に体がカチコチになってしまう。
「三春くん?」
「す、すぐ行きますっ」
また名前を呼ばれてハッとした。このままじゃ慎兄さんに迷惑をかけてしまう。そう思って急いで左右を確認し、車がようやくすれ違えるくらいの幅の道を小走りで渡る。
(どうしよう、どうしよう、慎兄さんがどんどん近づいて来る……!)
段々近くなる慎兄さんの姿に目眩がしてきた。心臓は壊れたみたいにドクドクしっぱなしだし、このままじゃ気絶してしまうかもしれない。そんな心配をしながら駆け寄ると「いらっしゃい」と微笑みかけられてクラッとした。
(かかか、かっこよすぎる……!)
それにほんのりいい匂いがした。もしかしてシャンプーの匂いだろうか。こんないい匂いのシャンプーなんて使ったことがないから、その匂いだけでさらに緊張してくる。
「あ、あの、僕、」
「二海からカットとカラーって聞いてるけど、それでいい?」
「カ、カラー!?」
思わず声がひっくり返ってしまった。二海兄さんってば、何を勝手なことを言っているんだろう。そんなお洒落な髪の毛なんて僕に似合うはずがない。それに色を染めてもらうということは、それだけ慎兄さんに手間をかけてしまうということになる。
(それにいろいろやってもらう間、ずっと慎兄さんが近くにいるってことでしょ……? そ、そんなの無理!)
ずっと好きだった人に髪の毛を切ってもらうだけでも大変なことなのに、そのうえ染めてもらうなんて畏れ多すぎる。そもそも顔を見ただけで心臓が壊れそうなんだから、これから長い時間を慎兄さんの側で過ごすなんて心臓が持つはずがない。
「そんな顔しなくても大丈夫。俺みたいな色にはしないから安心して」
そう言って笑った慎兄さんの髪は、黒髪の内側が鮮やかなピンク色をしていた。それがすごく似合っていて「やっぱり美容師はお洒落なんだな」と思うのと同時に「しっかり目に焼きつけておかないと」なんて変なことを考えてしまった。
(だって、慎兄さんにこんなに近づけるチャンスは二度とないだろうし)
最後に慎兄さんに会ったとき、僕はただ惚けるだけで何も話すことができなかった。しかもすぐに俯いてしまったせいで慎兄さんをちゃんと見ることすらできなかった。あの後「もっとしっかり見ておけばよかった」と何度後悔しただろう。
その気持ちを思い出したからか「せっかくのチャンスを無駄にしてもいいのか?」なんて思ってしまった。もう会えないかもしれないと思うと、このまま帰るなんてもったいない気がしてくる。
「そうだ、ついでにヘッドスパもしてみる?」
「ヘッド、すぱ……?」
「初めてのお客さんなら、カラーとセットで割り引きになるよ」
すぱって何だろう。よくわからないけど、それをすればさらに慎兄さんの近くにいられるかもしれない。「慎兄さんの側にずっといるなんて無理」と思っていたはずなのに、僕は浅ましくも「せっかくなら少しでも長く近くにいたい」と思ってしまった。「すぱ」が何か訊ねる勇気もないまま「お願いしますっ」と勢いよく頭を下げる。
こうして僕は生まれて初めての美容院を体験することになった。相変わらず心臓は心配になるくらいドキドキしているけど、同じくらい嬉しくて舞い上がりそうにもなっている。逃げたい気持ちなのに踊り出したいような、こんな変な感覚になったのは初めてだ。
(落ち着け僕、ここで失敗したら台無しだぞ。もう大人なんだから落ち着いて受け答えしないと)
変なことを口走らないように、余計なことを言わないように、そんなことを言い聞かせながらチラチラと慎兄さんを盗み見る。僕は慎兄さんに促されるままお店に入り、マントみたいなものを羽織った。それさえもお洒落でますます緊張してしまう。それでも「慎兄さんを堪能しないと」という一心で何とかお洒落な椅子に座った。
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