第17話


「和真くんに疑われてたんだ」


 この間の結婚祝いの件を話したら、三ノ輪が腹を抱えて笑ってくれた。笑い事では無いのだけれど、菊地が勘違いをしていたのではなくて、誤解をしていたとは予想外ではあった。

 ただ、誤解は解けたと思うので良しとしている。


「笑い事じゃないですよ。菊地くん結構本気だった」


 島野が真剣に訴えると、三ノ輪は人の悪そうな笑顔を向けてきた。


「じゃあ、本当にしちゃえばいいじゃない」

「は?何を本当にするんです?」


 三ノ輪の言っていることが理解できなくて島野は聞き返した。今日は菊地と一之瀬が二人で出かけたから、島野は非番になった。そんな時は一応妻である華世と一緒に過ごせばいいのに、秘書課にいる華世は島野より先にその事を知っていて、二人をさりげなく観察したいから着いてこないでくれと言ってきたのだ。つまりは島野がいると菊地にバレるからお前は来るな。と言うことだった。

 そんなわけで久しぶりに実家に顔を出そうとしたら、先回りして三ノ輪から連絡が入り、島野は今三ノ輪の部屋に来ている。


「昌也もオメガになっちゃえばいいんだよ」


 三ノ輪がこともなげにそんなことを言うから、島野はギョッとして三ノ輪を見た。


「俺は正真正銘のベータですよ」

「うん、知ってる」

「なら無理なの分かってるじゃないですか」


 三ノ輪のとんでもない提案に、島野は一瞬耳を疑ったが、三ノ輪の口調からしてからかわれているのだと判断した。だが、三ノ輪はいつもの調子の軽口だけど、目付きがまるで違っていた。


「ねぇ、昌也」


 その言い方は高校生の頃、図書館の前で提案をもちかけてきた時によく似ていた。

 だから、島野はできる限り警戒をした。したところでどうにかなるというわけでもないが、それでもしていないとしたとでは、大いに違うものなのだ。主に結果が同じであったとしても、その後の一之瀬の反応や、野口からの叱咤激励の類が変わってくるのだ。


「なんでしょう」


 三ノ輪は島野がとても警戒していることに気づいてはいるけれど、だからどうした。という気持ちである。島野がどんなに警戒したところで、どうにもならないことはどうにもならないのだ。


「ねぇ、ビッチングって知ってる?」

「知ってますけど、都市伝説みたいなもんですよね?」

「それが違うんだなぁ」


 三ノ輪は面白そうに口を歪めた。狙い通りに島野が反応したからだ。


「違うってなんです?だってビッチングってバース性の性転換のことですよね?菊地くんの後天性とは違いますよね?」

「そうだよ。和真くんのとはまったくの別物」


 三ノ輪が自信たっぷりにハッキリと言い切るから、島野はただただ嫌な予感しかしないのだ。日本ではあまり知られてはいないが、バース性について研究が日本よりも随分と進んでいる欧米諸国では、このビッチングを犯罪として取り扱っているのだ。つまり、分かりやすく言えばアルファ性を持ったものが、意図的にアルファ性やベータ性を持ったものを、オメガ性に作り替えてしまうことだからだ。互いの同意を得ていればいいけれど、拉致や監禁などをして、強引にバース性を書き換えてしまう行為が横行しすぎたのだ。

 分かりやすく言えば、オメガ不足が原因だった。

 日本よりもはるかに進んでオメガの保護やそれに対する法律を整えた欧米諸国ではあったが、力のないものが虐げられる歴史は、日本よりも遥かに長くその根は深い。法律に守られるためには、裁判を起こせるだけの財力が必要なのだ。もっとも、裁判を起こしたところで、ビッチングされてしまえばどうにもならないのが現実で、一度書き換えられてしまったバース性は元には戻らないのだ。だから、裁判を起こすのはアルファからオメガにされてしまった一部の金持ちだけなのだ。金も権力も持ち合わせていないベータは、ビッチングによってオメガにされたとしても、訴えることも出来ないまま、アルファに囲われてしまうのがオチなのだ。


「俺にオメガになれ、と?」

「別にそこまで言ってないけど……」


 含みのある言い方をして、三ノ輪は、あえて目線を逸らした。

 これは非常に良くないことだ。島野の中で警告が鳴り響いているけれど、エリアの外に出ればいいのか、頭を抱えてやりすごせばいいのか、とっさに判断ができない。だから、あえて目線をそらした三ノ輪の意図を考える。

 三ノ輪はオメガである。しかも先祖代々オメガが連なるオメガ筆頭とも呼ばれる名家の跡取りだ。結婚もしていて、後は子どもが生まれれば安泰と言われている。この間見せられた新規事業のオメガ専用の下着の販売が順調で、日本ではまだ未開拓の番婚を定番化させようともしているらしい。

 確かこの間、菊地と口約束ではあるが、一緒に子どもを産もう。なんてことを言っていた。それに一枚噛んで、島野は結婚させられたのだ。そう、代々一之瀬家に仕えてきた家系であるから、仕える相手に子どもが生まれるのならば、それに合わせて自分たちも子を成さなくてはならないからだ。だから島野は華世と結婚して住まいを同じマンションの階下に構えたのだ。


「子どもを産むのは華世さんだし」


 口に出してみて、間違いがないことを確認する。アルファだけれど、女性であるから子どもを産むことができる。ただアルファ同士だと相性が悪く、互いの優先性のせいで着床が難しいのだ。ベータが相手なら、通常の妊娠と確率は変わらないため、自然妊娠が可能である。ただ、優秀なアルファである華世は、一回のチャンスで妊娠する気なのだ。確か島野の母もそうだったらしい。だから、ベータにできたのならアルファである自分にもできるはずである。と言うのが華世の主張なのだった。


「そうだね、華世は女性だから妊娠できるね」


 三ノ輪が何やら気だるげな様子で島野を見ていた。そうして、いきなり島野との距離を詰めてきて、至近距離で囁くように口を開いた。


「僕さぁ、オメガとして生まれ育ったけどね。やっぱり赤ちゃん産むの怖いんだよね」

「はぁ」

「多分だけどね、和真くんだって怖いと思うんだ。だってこの間までベータだったんだよ?番がその辺のアルファだったら無理して赤ちゃん産む必要はないけどさぁ、相手はあの一之瀬匡なんだよ」

「…………」

「蘇芳様は和真くんのこと気に入っているから何も言わないだろうけど、後継のことはそのうち和真くんの耳に入るよね」

「…………」

「僕が一緒に妊娠すれば周りの人の目とかそう言うのは分散されるだろうけど、和真くんの心はどうなんだろうね」


 島野は答えられずにただ目の前にある三ノ輪の顔を見つめた。男性オメガらしく中性的な顔立ちをしていて、肌はきめ細かく張りがある。綺麗な形の瞳を縁取るまつげは長く見事に生えそろっていた。


「和真くんの誤解はどおして生まれたのかな?」


 それは、島野も薄々と感じてはいた。

 ずっと一緒にやってきたから、ずっと一緒に過ごしてきたから、ずっと同じなのだと思っていたのだ。

 だがしかし、島野にはオメガ因子はない。つまり、島野がオメガになると言うことはないのだ。


「菊地くんは誤解をしていただけで、本気で願ってはいないですよ」

「そうかな?誤解をしていたと言うことは、そうだと信じていたからだろ。きっと今頃がっかりしてるんじゃないのかなぁ」


 三ノ輪にそんなことを言われて、島野の心が小さく傷ついた。自分はまたしても菊地を裏切ってしまったのだろうか?いや、菊地が勝手に誤解をしただけで、島野は積極的に菊地を騙そうとしたわけではない。確かに、紛らわしくもアルファ女性と結婚すると言う、友人の三ノ輪と同じことをしてしまっただけで、その結婚だって島野がしたくてしたわけではないのだ。

 だから、島野は悪くはない。そう、誰かに言って欲しいのに、周りは誰もそんなことを言ってはくれない。それどころか、じゃあそうすればいいじゃないか。と煽り立ててきたのだ。


「華世さんが、そんなことするわけがない」

「なんで?自分が産もうが昌也が産もうが、匡様の子どもとの幼馴染のポジションは取れるんだから、どっちでもいいんじゃないのかなぁ」

「じ、自分で産むのと俺が産むのとでは、全然違うでしょ」


 そう、口にしてから島野は三ノ輪を見た。そう遠くない未来、三ノ輪も菊地も妊娠するだろう。そんな時、護衛の島野は確かに側にいるけれど、妊娠すると言う感覚は共有できない。菊地が転んだり怪我をしたりしないようにはできるけれど、妊娠に対する不安については対応ができない。


「僕はぁ、和真くんと一緒に妊娠して子育てするけれどぉ、昌也は一緒に妊娠できないねぇ。出産に対する不安とか、そう言う気持ちが理解できないよねぇ。専属護衛なのに」


 まるで心の中が見透かされたかのように、三ノ輪が的確な言葉を口にする。きっとそうだ、菊地は島野がずっと一緒に同じことをしてきたから、これから先もずっと同じことをしてくれるのだと思っているのだ。

 だとすると、それは誤解ではなくて、島野がそう思わせてしまったのだ。それはつまり、島野が悪いと言うことではないのだろうか。


「俺……どうしたら……い、いんで、しょう」


 島野が片手で口を押さえて、深刻そうな顔をするから、三ノ輪は内心うまくいったと微笑んだ。油断したら笑ってしまいそうだけど、ここはぐっと堪えて真面目な顔を作り上げる。


「昌也、そうは言っても親御さんからいただいた大切な体だよ。一人で決めるなんてしちゃダメだ。ご両親とちゃんと相談しないといけないよ」

「……は、はい」


 島野は何度も頷いて、自分の服の裾をぎゅっと掴んだ。華世に相談したところで答えはわかりきっている。一之瀬の望むままにするだろう。だからまずは両親に相談をして、それから野口に聞かなくてはならないだろう。島野は当初の予定通りに実家に帰ることにした。

 タクシーを拾えばよかったのに、頭の中がグルグルとしすぎて、判断が鈍っていたのだろう。無意識に電子マネーをかざして改札をくぐり、ちょっと前まで見慣れたホームに降り立った。色々な人がいて、今まで意識はしていなかったけど、ベビーカー優先車両があってそこに乗り込むベビーカーを押す人がいて、電車に乗れば、優先席にはお腹の大きな人が座っていた。島野が普段見慣れていたのは制服を着た学生や、スーツを着た会社員たちだった。


(時間帯のせいだよな)


 客層が違うのは休日だからであって、自分の意識が変わったからだとは思いたくはない。けれど、気持ちが切り替わると見える景色が変わるのは本当のことなのだろう。流れる景色にやたらと産婦人科の看板が目につくのだ。


(男性オメガが出産できる病院は限られてるから)


 その昔、菊地がうっかり街中でヒートを起こしてしまった時の搬送先になる病院のリストが頭をよぎる。大学と、菊地の実家では搬送先の病院が全然違ったし、乗り換えをする駅もまた違う搬送先だった。コンパの度にここだとどこに搬送されるのか。なんて頭の中でシュミレーションしていたものだ。


(なんて言って話を切り出せばいいんだ?)


 元々の予定通りに実家には向かってはいるけれど、ちゃんと連絡は入れてはいなかった。華世と籍を入れたことを両親は知っているけれど、この話については何も知らされてはいないだろう。菊地が誤解をしていただけなのだ、昨日の今日で話が回るとは思ってはいない。

 とりあえず最寄りの駅に降りたところで電話をかけてみれば、母親は家にいてのんびりしていたようだ。なんとなく落ち着かなくて、駅前にあるケーキ屋で菓子折りなんかを買ってしまった。実家に顔を出すのに菓子折りを買うなんて、なんだか一人前な感じがするものだ。

 鍵は持ってはいるものの、開けにくくて呼び鈴を鳴らしてしまった。


「あらやだ、他人行儀ね」


 母親は笑ってそんなことを言うけれど、まんざらでもなかったのか、嬉しそうにコーヒーではなく紅茶をいれてくれた。そして母親とたわいもない話をしながら持参した菓子を食べていたら、休日なのに書斎にこもっていた父親がやってきた。


「久しぶりだな、昌也」


 そう言って、父親は自分でいれたコーヒーを持ってきた。


「あらやだ、このお菓子には紅茶の方があうわよ」

「俺はコーヒーの方が好きなんだからいいだろう」


 そんな両親のやり取りをみて、いずれは華世とこんな関係になれるのだろうかと内心首を捻る。なんといっても両親はベータ同士であるから、色々な感覚やものの捉え方がそんなに違わないのだろう。そう考えると、華世はアルファで自分はベータであるから、色々と違いがありそうだ。

 そんなことを考えていると、父親が島野に向かって口を開いた。


「俺は別に構わないぞ」

「な、何を?」


 いきなり言われても何がなんだかわからないものだ。そもそも主語はどこだろう?何が構わないのか言ってもらわないと困ってしまう。


「あらやだ、あなたったら」


 母親が、笑いながら父親の肩を叩いている。島野には全くわからないが、両親はわかり合っているようだ。特に母親は、いつもの調子で島野にはなんとも理解がしずらかった。


「もお、報告は正確に、なんて言ってるくせして、自分はこんなんなんだから」


 そう言って、母親はもう一度笑った。島野は笑うべきところが全く見えていなかったから、父親の様子を伺ってみる。父親は、普段通りの感情の読みにくい顔をしていた。


「昌也、あれだ」

「あれ?」

「そうだ、つまり、な。和真様がそう望むのなら、そうすればいい」

「……え、あ……あぁ」


 なんとなく、感覚でわかったような気がしたけれど、やはり父親はあえて肝心な主語を抜いて喋った気がした。その証拠に、視線が泳いでどこか遠くを見ているのだ。たいして広くもないリビングだと言うのに。


「もう、お父さんったら」


 今度は膝を一回強めに叩いたようだ。母親は、一人だけなんだか嬉しそうな顔をしていた。


「いいじゃなぁい、昌也」

「なにが?」


 意味がわからなくて聞き返す。


「何ってぇ、昌也が赤ちゃん産むことよ」


 そう言って母親は、心底嬉しそうに笑ったのだ。

 全く予想していなっかたけれど、昨日の今日ですでに話が回っていたらしい。一之瀬家の情報網おそるべし。と言いたいところだが、あの場にいたのは島野と華世、それから一之瀬と菊地である。華世が言うはずはないから、一之瀬が話をしたのだろうか?可愛い番の可愛い誤解の話を。


「なんで、もうしってるの?」


 思わず口から出たのは、ありきたりなセリフだった。


「なんでって、お前なぁ」


 呆れたような顔をして、父親がため息混じりに教えてくれた。


「和真さまのネックガード、盗聴機能も付いているからな」


 その事実を聞いて、島野は絶望したのであった。

 そして、島野の人生一大事であるにも関わらず、両親は全くブレないで一之瀬家への忠誠めいたことを言う。これではグダグダ考えていた島野が裏切り者のようではないか。完全に目が泳いでいる島野を見て、母親がにっこりと笑った。


「いいじゃない、昌也。ステキなお嫁さんもらって、赤ちゃん産めるだなんて、人生一粒で二度美味しいなんて、なかなかないわよぉ〜」

「そ、そう言うことじゃないと思うんだけど」

「あらぁ、いいじゃない。お母さん嬉しいわぁ、親子二代で幼馴染になれるだなんて素晴らしいじゃない」

「うん」

「それに、息子が赤ちゃん産んでくれるだなんて、お母さんも一粒で二度美味しいわよ」

「あ、そ、そうなの」

「そうよ、お嫁さんにあの出産を経験させるなんて気がひけるじゃない。だってアルファのお嬢さんなのよ。昌也だったら、ほら、痛がったらお尻叩いても平気でしょ」

「ああ、うん」


 母親の考えがぶっ飛びすぎて、島野は深刻に考えていた自分がなんだか小さく思えてきた。母親のように大きく構えていればよかったのだろうか。答えがわからなくて今度は父親の方を見れば、父親は今度は遠い目をしていた。そんな父親を見て、島野は心底ホッとした。やはり自分は間違ってはいないのだ。世の中の人が、みんな母親のようだったら、オメガが虐げられたりはしないのだから。


「父さんも、母さんも、意見はないんだ」

「我が家は一之瀬家に代々仕えているんだ。望まれればそれに答えるだけだ。嫌なら出ていくしかない。これは以前にも言ったと思うがな」

「うん、知ってる」


 島野は晴れ晴れとした気持ちになって、実家を後にした。

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