第16話


「匡様がいらっしゃるだなんて」


 何度もそう言葉にしながら華世は掃除機をかけていた。普段はアロマをたいていたらしいが、オメガバースである菊地のために三日前からたくのをやめ、ハウスクリーニングを頼んで念入りに掃除をした。もちろん、部屋を汚さないように島野は昨夜も使用人エリアに泊まった。それに、この部屋に島野の寝る場所は無い。いや、酒巻家が用意したことになっているベッドはダブルではなくキングサイズである。だから、寝ようと思えば華世と島野が並んで寝てもなんら問題はないのだ。が、島野が心情的に寝ることが出来ないだけだ。


「ねぇ、昌也さん」

「はい、なんでしょう」

「その口調何とかならないかしら?」

「え」

「だって、私とあなたは夫婦なのよ。それなのに夫であるあなたがそんなふうに話すだなんて、ちょっと距離感ありません?」

「それなら華世さんだって、そんなふうに喋るじゃないですか」

「だって、これは仕方がないじゃないですか。昌也さんは匡様の奥様である和真様専属の護衛……そう考えただけで、私」


 華世は恥じらう乙女のように自分の頬を両手で抑える。その姿はアルファ女性でありながらも可憐に見えた。


「もう俺たちこういう喋り方する夫婦ってことでいいんじゃないですか?」

「そ、そうね。下手に修正すると余計におかしくなりそうですから」


 華世はそう答えつつ、もう一度部屋の中を確認する。この日のために新しく買った空気清浄機はフルパワーで動いているけれど、とても静かだ。スリッパも新しいものを用意した。なにしろ一之瀬匡の足が入るのだ。可能な限りの高級品で、尚且つ大きいサイズを探し出した。何しろ体が大きなアルファは足もでかいのだ。


「和真様の足は入るかしら?」

「菊地くんの足は平均サイズだから大丈夫。ただ甲が高いだけ」

「ええ、それでばきついのでは」

「大丈夫だよ。匡様の足が入れば菊地くんの足も入るよ」


 玄関先でこの問答を何回したことだろう。島野はいい加減飽きてきたのだが、ちゃんと相手をしないと華世が泣きそうなので仕方なく相手をしている。それにしても、結婚とはこんなにも大変なことなのだろうか?少し聞いていたのとは違う気がした。


「華世さん、とにかく設定を忘れないでね」

「分かってます。昌也さん。私たちは職場で再開しての職場結婚と言うことでしたね?」

「そうです。それ絶対に忘れないで、菊地くんが驚いちゃうから」

「再開して、私は昌也さんの仕事熱心で健気な姿に惹かれた。そういうことでしたね?」

「はい。それでお願いします」


 島野と華世は、高校の時に一度出会っているから、一之瀬の会社で再開して、島野の仕事っぷりを見て華世が惚れた。という設定にした。だって、そうしないとアルファ女性とベータ男性の馴れ初めが説明つかないのだ。一般的に考えて、ベータ男性がアルファ女性に恋をしたところで成就するものでは無い。如何せん基本的なスペックがアルファ女性の方が高いからだ。プライドの高いアルファが、自分より劣るベータに惚れられて受け入れることは稀なのだ。

 だからこそ、一之瀬匡に陶酔している華世が、誠心誠意一之瀬匡に仕える島野の姿に心打たれた。という事にすれば世間的には納得されるのである。ただ、菊地がそれをどこまで信じてくれるかが問題なだけだ。


 そうこうしているうちに約束の時間がきた。


 同じマンションの最上階から来るだけなのだが、基本他のフロアに行くことは出来ないようになっている。そのため、一之瀬と菊地は一度一階にあるフロントまで降りて、入口のコンシェルジュに島野と華世の部屋への訪問を告げた。そうすると、フロントから部屋のインターホンに連絡が入るので、了承すれば訪問先の階にエレベーターが止まるという訳だ。

 フロントからの連絡は華世が応対した。さすがは秘書課なだけあって、受け答えが大変スムーズである。程なくしてやってきた一之瀬と菊地を出迎えると、華世の興奮はマックスになっていた。顔には出さないけれど。


「これね、結婚祝いなんだ。たす、あ、と、だん、な様と二人で選ん、だんだ、よ」


 そう言って菊地は老舗のデバートの紙袋を差し出した。これは昨日二人で仕事帰りに選んだものだ。買うものが島野にバレないように、仕事帰りにしたのだ。だから島野は何を買ったのか知らされてはいない。一之瀬の車で移動したから護衛は吉高だった。


 (匡様を旦那様って呼ぶのに照れてる和真様が尊い)


 華世は夢見心地で品物を受け取った。受け取りながら思ったことはただ一つ。これは家宝であるという事だ。

 そうして、用意しておいた菊地が気に入っているというオレンジジュースを出し、菓子は華世の好きなフランスの焼き菓子だ。菊地が美味しそうに食べるのを一之瀬が微笑ましく見つめているのを、華世はまた尊いものを見る目で眺めていた。二人の馴れ初めを菊地が聞いてきたので、打ち合わせ通りに華世が答えたら、菊地が目を輝かせたので島野は内心驚いてしまった。


「すごいねぇ、島野くんの仕事してる姿はアルファが惚れるぐらいなんだぁ」

「ええ、昌也さんの仕事ぶりはそれはもう素晴らしいんです」

「すごいなぁ、俺なんか同じ島の人たちとお菓子食べたりしちゃってるのに」

「和真、それは俺の前であまり言わないでくれないか」


 社長である一之瀬の前で堂々とサボっていることを告白するのは、ある意味とても菊地らしかった。もちろん、パソコンにしかけたカメラで見ているから一之瀬はちゃんと知ってはいるのだけど。


「それに、昌也さんは体を鍛えているからベータにしては体が大きい方でしょう?」


 華世がそれとなく島野のことを褒めてみた。


「やっぱり、島野くんって体大きいよね?腹筋も割れてるしずるいよね」

「え、ええ、腹筋……は割れ、てます、ね。ええ」


 唐突にそんな不穏なことを菊地がぶっ込んできたから、華世が慌てて一之瀬をチラ見した。当然一之瀬だって鍛えているから腹筋だって割れている。だが、目の前で他の男を褒められるのは癪に障るというものだ。島野は若干背中に冷たいものを感じたのだった。


「あ、そうそう」

「なんでしょう?和真様」


 華世は空気を切り替えるタイミングだと察して笑顔で答える。


「一つだけ確認したいことがあるんだけどさ」

「確認したいこと、ですか?」

「うん、確認したいんだけど」

「ええ、なんでしょう?」


 菊地がたいそう真剣な顔で言ってくるから、これは島野と華世の馴れ初めを疑っているのかと思い緊張が走る。だが、菊地の口から出てきた言葉はそんな大層な話ではなかった。


「ねぇ、赤ちゃん産むのは酒巻さんなの?島野くんは産まないの?」

「は?」


 菊地の言っていることが理解出来ず、華世がかたまった。


 (菊地くん、まだそれを言うの?)


 この間納得したと思ったのに、菊地はまだ疑っていたらしい。島野はなんて答えればいいのか分からずに、視線をゆっくりと一之瀬に向けた。そうすると、一之瀬もまた驚いた顔をして動きが止まっていたのだ。


「和真、何を言っているんだ?」


 最初に口を動かせたのは一之瀬だった。やはり番のかけた呪縛から抜け出すのは容易いようだ。だがしかし、ここで常識を説いてしまえば菊地に嫌われることは目に見えている。菊地がどうしてそんな考えに至ったのかを知らなければ、菊地の疑問の解決にはならないのである。


「何って?」

「だから、どうして昌也が妊娠すると思ったんだ?」


 一之瀬は極めて冷静に菊地に聞いた。


「だってさぁ、匡はアルファでしょ?匡と結婚した俺が赤ちゃん産むんだろ?」

「そうだな」

「それで、由希斗くんは匡のお姉さんのアルファと結婚したんだよね?」

「ああ、そうだ」

「それなのに、由希斗くんが赤ちゃん産むんでしょ?」

「そうだな、この場合妊娠率は由希斗の方が遥かに高いからそうなるな」

「だからさぁ、酒巻さんと島野くんの場合、島野くんが赤ちゃん産むんじゃないの?」

「なぜそうなる?」


 一之瀬が代表して口に出してくれたけど、華世も島野も内心声を大にして突っ込んでいた。


「だって、匡のお姉さん女性なのにアルファだから赤ちゃん産まないんでしょ?」

「ん?まて、和真。何を言ってるんだ?」

「そうです、和真様。学校で習いましたよね?オメガは発情期に妊娠する確率が限りなく100パーセントなんですよ?そのためオメガ男性の精子は活動が弱くなるんです。だから頑丈なアルファ女性の体の中では卵子にたどり着く前にほぼ死亡してしまうんです。だからアルファ女性とオメガ男性が結婚した場合、オメガ男性が妊娠するんです」

「うん、それは知ってるけど」

「では、なぜ?」


 一之瀬が、もう一度菊地に問いかける。すると、菊地はモゴモゴと口の中で小さく呟いた。


「島野くんも……俺と同じじゃないの?」


 それを聞いて部屋の中は静まり返った。微かに聞こえるのは空気清浄機の音だけだ。

 菊地の言葉の意味を理解するのにしばし時間が必要だった。菊地と同じとは何なのか。まずはそれを知らないといけないからだ。

 長い沈黙の後、菊地の言わんとしていることをようやく理解出来た島野が叫んだ。


「俺はベータだから!正真正銘ベータだからねっ」


 島野の叫びを聞いて、ようやく理解できた一之瀬と華世であった。



 菊地が何とか納得をして一之瀬と共に帰っていくと、玄関で見送りをした華世はその場に座り込んだ。


「ああ、匡様がお履きになったスリッパ」


 恭しくスリッパを手に取り、あろうことか華世はそれに頬ずりをしたのだ。


「ああ、匡様の温もりが……」


 一応、夫である島野ではあるが、華世のこの奇行に関して何かを言うつもりはサラサラなかった。触らぬ神に祟りなしと言うし、現段階で島野の中に嫉妬とかそういう感情が湧かないからだ。もちろん、島野自身が一之瀬匡と言う人物に仕える身であり、まぁ尊敬はしているからだろう。


 (そりゃ脱ぎたてだから温かいだろうね)


 華世の奇行についての感想は、そっと心の中だけにする島野であった。


「ええと、こっちのスリッパは棚にしまえばいいのかな?」


 とりあえず、菊地のはいていたスリッパだけでも片付けようとしたら、華世が下から睨みつけてきた。


「ダメよ!匡様と和真様がお履きになったのよ。これはもう家宝です。飾ります」

「飾るの?」

「ええ、そのためのケースは用意してありますから」

「……はぁ」


 華世が一之瀬の履いたスリッパを持って歩くので、島野はそのまま菊地が履いたスリッパをもって華世に続いた。


「これよ」


 一応、夫婦の寝室(予定)に入ると低い棚の上に何も入っていないガラスケースが置かれていた。


「ここにしまいます」

「はい」


 言われるままにスリッパをガラスケースにしまうと、華世が紙に何かを書いてスリッパの前に置いた。


 (名札じゃん)


 それぞれのスリッパの前に名前と日付の書かれた紙を華世が置いた。そうして扉を閉めると、華世は両手を合わせて祈るのであった。若干ストーカーじみて入るが、盗んだのではなく華世が用意したものだからギリギリセーフなのだろう。

 さて、


「ねぇ、お祝いの品見なくていいの?」

「いけない。私としたことが」


 華世は勢いよく立ち上がると、颯爽とリビングへと行ってしまった。残された島野は仕方なくリベンジへと向かう。一応夫婦の寝室だけど、居心地は極めて悪かった。


「はぁ、ゆっくりと開けなくては」

「うん、落ちついてね」

「ええ、割れ物でしたら大変ですもの」


 華世は渡された紙袋から慎重に包みを取りだし、ゆっくりと包装紙を剥がしていく。流石は老舗のデパートだけあって、止められていたのは最初の店のロゴマークのシールだけである。


「何かしら?」


 華世がゆっくりと箱を開けると、なんとホットプレートだった。しかも最近流行りのオシャレなやつだ。SNSなんかでよく見かけるやつだった。色は淡いミントグリーンでなんとも可愛らしい見た目だった。


「ホットプレート?ええと、調理器具、よね?」

「うん、菊地くんが今ハマってるんだ」

「和真様が?」

「お好み焼きとか焼きそばとか、やたらとそれで焼いてるんだ」

「それは、つまり、匡様がお好み焼きをお食べに?」

「うん、気に入ったみたいだよ。あとは休みの日の朝にフレンチトースト焼いてるかなぁ」

「まぁ、なんて、素敵なんでしょう」

「そうだね」


 そんな素敵な朝食だけど、菊地が注文を忘れた牛乳やついでにと言ってカステラを買いに、コンビニまで走らされたのは島野である。


「では、早速私たちもそれらを作らなくてはいけませんね」

「え?今から?」

「ええ、お夕飯に作りましょう」

「何を?」

「お夕飯ですもの、お好み焼きにしましょう」

「材料は?」

「昌也さん買ってきてくださる?」

「今から?」

「ええ、だって、月曜日にお礼を言わなくてはいけないでしょう?」

「……そうですね」


 そうして一階の高級スーパーで買い物をしながら島野は思った。今日キッチンを見た限り、華世が料理をした形跡が見当たらなかった。華世もお好み焼きぐらいは食べたことがあるだろう。だが、作ったことはないと思われる。


「俺が作るんだよな、きっと」


 島野は大きなため息をついて、せめてマヨネーズは好きな銘柄にしようと思うのであった。

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