第13話
下の階に新居を構えたけれど、華世が必要ないと言うので積極的に行くことはしない。華世はようやく実家を出られたから、一人暮らしを満喫しているようだった。朝に食べるパンが敬愛する匡様と同じくだと言うことにいたく感動し、奥様のお気に入りのオレンジジュースが飲めるなんて、と笑っていた。だから「奥様の好きなイチゴジャムだよ」と言って同じ銘柄のイチゴジャムを渡しておいた。
そんなわけで島野は変わらず使用人エリアで寝泊まりをしている。特に不自由はしていないし、洗濯物は自分で洗濯機を回して干せるし、食事は他の護衛担当と一緒に何かを作って食べている。本当に華世は自分の人生を一之瀬匡に捧げたいだけなのだ。と改めて思う。
まぁ、その辺は島野も似たようなものなので特に意見はない。
「……っだ、いちの…………ぁあ」
コンクリートの壁越しに聞こえてきた菊地の嬌声に思わず肩が跳ねた。ここに来て、ほぼ毎晩聞こえてくる声だ。九年間も我慢していたのだから、一之瀬からすればようやくなのだが、菊地からすればまだ戸惑うことが多すぎるのだろう。時に許しを乞う菊地のかすれた声があまりにも辛すぎて、島野は思わず耳を塞いでしまった。
「昌也」
名前を呼ばれて手を払われた。顔をあげればそこには野口が立っていた。怒っている様子は無いが、それでも目つきは鋭い。
「すみません」
島野は謝罪を口にして、腕立て伏せを始めた。これは野口からの提案だった。島野の煩悩が強すぎるから、体を動かして取り払え。という力技なのだ。
なぜなら、デスクワークの部屋はあえて寝室の裏に作られているからだ。アルファがいちばん無防備になるのは、やはり番との性交渉の時だろう。このご時世、閨番と称して一晩中寝室に張り付くなんてことは出来ないから、隣の部屋で待機しつつ事務作業を行っている。別に徹夜作業はしないけれど、仮眠のためのソファーは設置されていた。
「昌也、無理はするなよ」
野口が腕組みしながら島野を見ていた。
「友だち、なんです」
腕立て伏せをしているから、動きに合わせて言葉を区切る。
「あー、そんなこと言ってたなぁ奥様……」
野口は首を捻りながら口を開いた。どうしたらいいのか考えているのか、出ている答えに悩んでいるのか。
「別に、俺が、どうこうしたい、訳じゃなくて」
「うん?」
「菊地、くん、を、守る、の、はっ、俺だ、って」
「ふぅ、ん」
「傷、つけられ、て、るわけ、じゃない、って、頭、では、理解、して、まっす」
「そうか」
「だ、から、匡、様っ、を、恨ん、で、るとか、じゃ、なく、て」
「ああ」
「菊地、くん、がっ、苦し、そぉ、なのがっ、聞い、てて、辛い、んで、すっ」
「そうか……じゃあ、腕立て伏せじゃなくても良かったな」
「は?」
「いや、下半身に血が溜まってんなら、上半身動かせばいいんじゃないかと思ってな」
「そ、う言う、かん、たんな、ことで、した?」
「さぁなぁ?その辺はわからん」
「て、きとう、なんで、すねっ」
「落ち着いたか?」
「ええ、まぁ」
「それなら風呂はいって寝とけ」
「はい」
島野が立ち上がった時、既に菊地の声は聞こえなくなっていた。
「あ、ベットメイク」
「出来んのか?」
「出来ますよ。菊地くんのですから」
「あー、じゃあ任せるわ」
島野は使用人用の通路から部屋に入り、風呂の支度をした。自動給湯だから、ボタンを押したらいなくなって差支えは無い。明かりを調節して眩しくないようにすると、扉を開けに行った。
決して中は見ない。
音を立てずに再び使用人用の通路に入り呼吸を整える。人の動く気配は一之瀬だ。水音が聞こえるまでしばし待つ。誰もいない寝室に入り、手早くリネン類を取り替える。これはホテルに一週間研修に行って覚えた。一之瀬家に仕える者は、必ず行う研修だ。一之瀬グループのホテルで研修を行い、貴人のお世話の仕方からおもてなしまでを学ぶのだ。だから、護衛チームの誰もがベッドメイクは完璧にこなせるのだ。が、島野は菊地の後始末を他の誰かに任せるつもりは全くなかったのである。
だから、ほぼ毎晩行われる行為の後始末を自分の仕事として行ってるのだ。菊地の体を一之瀬が洗うのなら、島野はシーツや下着を洗えばいい。男なら、自分が射精したモノの後始末を、女性にさせるなんて恥ずかしすぎることだろう。それに、気を失っている菊地の体を洗った後、一之瀬が下着やパジャマまで着せるかどうかなんてわからないから、とにかくベッドを清潔にしておくことは島野の使命でもあるのだ。
「昌也、何してんだ?」
ドラム式洗濯機の前で、広げたシーツを熱心に見つめている島野を見て、野口が呆れたような声をかけてきた。
「汚れの確認ですけど?」
なんてことはないように、島野は返事をするが、側から見ればだいぶシュールな構図ではある。
「汚れの確認って、ラブホじゃあるまいし」
「そう言う汚れの確認じゃありませんよ」
島野は熱心にシーツの確認をすると、次は掛け布団カバーの確認を始めた。こちらも広げて熱心に確認をしている。枕カバーは目の前で広げると、表と裏を素早く確認して終了だ。
「よし、今日も怪我はしてなかった」
そう言ってボタン操作をしてドラム式洗濯機を回し始めた。それを聞いて野口があんぐりと口を開けたまま島野を見た。
「別に、匡様を疑っているわけではないですよ。菊地くんがまだ慣れていないから、心配なだけです」
そう言うと島野はさっさと仮眠のためにソファーへと行ってしまった。後に残された野口は、クルクル回る洗濯物を黙って眺めるのであった。
菊地が出勤する時は、地下の駐車場まで直通となるエレベーターに一人で乗る。上階の住人専用のエレベーターは、途中のフロアに止まるなんてことはない。だから、菊地がエレベーターに乗り込めば、高橋がすぐさま車を回すのだ。大した時間ではないけれど、会社員をしていた菊地は、ほぼほぼ毎朝時間通りに行動をする。そんな菊地の専属護衛を勤める島野は、自転車で後をつけるのだ。車では小回りがきかないし、バイクでは咄嗟に行動に出れれないこともある、自転車は、案外利用している人が多いため、街に溶け込み、なんなら肩に担いで電車やバスに乗れてしまう優れものだ。雨の日が少し辛いけど、護衛の仕事とはそんなものだろう。
珍しく菊地が車を降りてコンビニに入ったので、島野もさりげなく後に続いた。高橋は車の中で待機しているのが見えた。これはおそらく今朝の約束のためであろうと思われるから、買うものの予測はつく。季節限定のチョコ菓子だ。菊地のいるオメガの島で人気なのだ。確か人気の喫茶店のデザートとコラボしたのが美味しいとか話していた。
「ねぇ、島野くん。聞いてる?」
突然名前を呼ばれて驚いた。声はかけていないし、後ろから入っていったから、絶対バレていないと思ったのに。黙って隣に立っただけなのに、菊地は島野の気配を覚えていて、当たり前のように話しかけてきたのだ。
「……俺は、アイスなら食べる、かな」
かろうじて返事をすれば、菊地は嬉しそうな顔をして島野を見るのだ。
「アイスかぁ、あ、ドリンク出てたなぁ」
そんなことを口にしながら菊地は楽しそうにコンビニの店内を歩く。いつの間にかに島野はカゴを持たされていて、コンビニで買うには随分な数が入れられていた。カゴの中の彩りはなかなかポップな仕上がりで、島野にとっては見慣れた菊地のセンスが見て取れたのであった。
会計は、菊地が一之瀬から渡されたカードで済ませた。なかなかな量であったから、レジを通った物から順に島野がマイバックに詰めていく。できれば硬いものは下に詰めたいのだけれど、レジを通るのはカゴの上の商品からになる。アイスがパンの上になっているなんて気にしているうちに精算が終わるから、島野は慌てながらも素早く菊地の後についてコンビニを出た。
車のドアを開けて、菊地が後部座席に乗り込んだのを確認して、コンビニで買ったものを菊地の隣に置いたら、菊地が島野の腕を掴んできた。
「島野くん、どうやって帰るの?」
マンション近くのコンビニだから、歩いてきたとでも思ったのだろうか?菊地が島野に車に乗るよう言ってきた。当然、運転手の高橋は島野の事情は知っている。だが、ここで島野が車に乗らなくては菊地が帰れなくなる。アイスだって買ったのに。
(俺の自転車)
島野は停めた自転車の方を一瞬見たけれど、チェーンもかけてあるから盗まれることはないだろう。バックミラー越しに高橋を見れば、楽しそうに笑っていた。
島野が座り、シートベルトを締めれば、車がようやく動き出した。そこからは菊地による島野への尋問タイムだ。この間は三ノ輪がいたから高校時代のように過ごせたけれど、菊地は疑ぐり深いのか、島野に質問を繰り返す。島野が九年間してきたことを知っても、菊地は島野を嫌ったりしないのだ。それどころか、とんでもないことを口にした。
「じゃあ、離れないでよ」
そんなことは番に向かって言うことだ。ベータの、しかも護衛に向かって言うことではない。おまけに島野の腕を掴んで、真剣な顔で見つめているのだ。
(ずるいよ、菊地くん)
島野がどう返事をしていいのか悩んでいると、ちらりと見えたバックミラーに、笑う高橋の顔が見えた。
「わかったから、友だちだから」
島野が精一杯の気持ちを込めて返事をすると、菊地が嬉しそうに手を握ってきた。
(菊地くん、ほんとこれは匡様にやってあげて)
バレたら、きっとバレるんだけど、一之瀬に殺される。そう思いながらも島野は菊地の手を離せないでいた。
だが、心配さなくても島野は菊地に殺された。物理的にではなく味覚的に。菊地がコンビニで買ったお菓子を食べさせられたのだ。そもそも菊地はチョコミント味が苦手だと言っておきながら、平然とドリンクを飲んでチョコを口にするのだ。菊地に言われて買ってきたものをテーブルに広げ、アイスは溶けないように冷凍庫にしまった。だが、イチゴ味のチョコを口に入れて、そのあとチョコミント味のドリンクを飲まさせられて流石に島野は悶絶した。
もともと島野はチョコミントの味が得意ではない、どうしても歯磨き粉を飲み込むようで、喉をうまく通らないのだ。涙目になりながら飲み込もうと必死になっていると、菊地が楽しそうに島野の口に入れたものを順に撮り、涙目になっている島野を撮った。もちろん解説付きで。
島野が口から出さないように、鼻から抜けるミントの歯磨き粉を彷彿させる匂いと格闘しながら飲み込むと。視界にもう一人の足が見えた。一之瀬が帰ってきたことに気づかなかったのだ。慌てて居を正したけれど、見上げて一之瀬は別段怒っている様子ではなかった。ただ、不思議そうな顔をしていた。おそらく、一之瀬はこう言ったじゃれあいをしたことがなければ見たこともなかったのだろう。そうして、菊地の話を真剣に聞き、水色の菓子パンを手に取り不思議そうな顔をした。
(トマトにチョコミントなんてどんな罰ゲームだよ)
島野は菊地がトマトスープを作るのをもちろん手伝った。真っ赤なトマトスープは塩味が効いてなかなか美味しかったのだが、それに菓子パンを合わせようとする菊地のセンスが恐ろしい。しかも食べるのは一之瀬だ。島野は丁寧に食事を辞退して、ようやく解放されたのだった。
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