第12話
長休なんてあっという間にすぎた。あの空っぽの部屋に、生活に必要なものを買い揃えようとしたら、とんでもない金額になった。何しろ、華世は地方議員の娘で、一之瀬の会社の秘書課で働くエリートアルファなのだ。それなりに高級品に囲まれて生活してきたわけだから、量販店の品で満足できない部分が多々あった。もちろん、理由は正しくて、家具は長く使うのだから、高くともきちんとした職人の作った物がいい。それに、この物件に見合わない家具を使うなんて信じられない。と言われてしまったのだ。しかも耳元で小声で「菊地くんが遊びに来るかもしれないのに、安っぽい家具なんか置けないでしょ?」なんて言ってきたのだ。たった一人にしか与えられないポジションを守るべくこんなことになったというのに、いざという時にみっともないところを見せるわけにはいかない。そんなわけで島野の長休は、ほとんど家具選びで終わってしまった。
「お気に入りの工房ってなんだよ」
タンスを注文するのに東北地方に行き、テーブルを作るのに一枚板の買い付けで北海道に行った。絨毯を買うのに贔屓の貿易商のいる横浜に行き、食器を買うのに九州地方を一周した。移動の旅費だけで凄いことになっていたが、島野は黙って着いて行った。家具は嫁入り道具だからと言って、酒巻の家が支払いをしたから、移動の旅費は島野が支払った。結婚式も新婚旅行も、仕える一之瀬匡よりも先にするわけにはいかないからだ。ただ、婚姻届だけは同じ日にするなんておこがましい。ということでさっさと済ませたのであった。
長休だったのに、まったく休んだ気にならないまま、島野は護衛の仕事に復帰した。もちろん、菊地に正体がバレた時、どんな顔をすればいいのか未だにわからないままだ。
「女の買い物に口出しするもんじゃないぞ」
チーム最年長で基本は運転手の高橋が島野を諭した。
マンションの地下駐車場は、住んでいる階層ごとに使用エリアが違う。高層階は使用するエレベーターも違うから、一番奥のエリアだ。そこだ車のメンテナンスをしているのだけれど、島野はもっぱらアシスタントと称しての雑用係で、長休中のささやかな愚痴を高橋に聞いてもらっているのだ。子どもの頃はボンヤリと理解していればよかったのだが、島野は大人になっても自分の家の特殊性に気づいていなかった。
「そういうもんなんですか?」
「ああそうだ。女の買い物はストレス発散だ。おまけに、いつ匡様に見られるかわからないんだ、変な物は買えないさ」
「匡様も見にきますかね」
「一回ぐらいは来るだろう。同じマンションなんだから」
「そうですよね」
「それよりあれだ、奥様だ」
「奥様?」
急に出てきたワードに島野の肩が小さく揺れた。
「匡様と番われたから、車で通勤になっただろ?帰りは寄り道ぐらいしないとだめだろう?」
「ああ」
つまりさっきの話だ。
女の買い物はストレス発散。つまりは自由を奪われたオメガもストレス発散が必要だと言うことだ。
「それなら朝にコンビニですね」
「コンビニ?」
「そうです。和真様は元はベータですから、庶民的なものじゃないと気後れしちゃうんですよ。それに、机の引き出しにお菓子を隠してますからね、毎朝買わないと足りなくなるし、新作はコンビニの方が早いですから」
「伊達に九年も一緒じゃなかったなぁ」
高橋はそう言いながら仕上げに車内に掃除機をかけた。 モーター音がするからしばらく会話はお休みだ。島野はタブレットで地図を開き、めぼしいコンビニを確認した。大学時代、菊地がコンビニでバイトをしていたのは、地元にそれくらいしかなかったからではなく、純粋に菊地がそのコンビニがお気に入りだっただけである。特に毎週発売される新作のパンを楽しみにしていた。
そんな事を思い出しながら、通勤ルートで寄れそうなコンビニを探す。都心のコンビニは駐車場がないところが多いが、幹線道路沿いならそれなりにある。行きと帰りで全てのコンビニチェーン店が回れるように考えてみた。つまり、行きと帰りでルートが違うことになる。
「こんな感じでどうでしょう?」
掃除機を片付けた高橋に島野はタブレットを見せた。ふた通りのルートが色違いで表示されているのをみて、高橋が頷いた。
「そうだな、コンビニって言ってもいくつかあるし、奥様はあのコンビニがお気に入りなんだろ?」
「そうです。あのコンビニです」
島野が提案したルートは、行きも帰りも菊地のお気に入りのコンビニに寄れるようになっていた。もちろん、寄らなければ最短のルートで帰ることは可能だ。
「野口さんたちにも伝えておかないとな。寄り道する時は報告しないとだからな」
高橋はそのままタブレットを使って護衛チームに共有させた。見た感じ優しそうなおじさんで、スマホ操作も慣れていなさそうなイメージなのに、サクサク操作して仕事も早い。しかもドローンの運転もできるので、たまに駐車場で飛ばしていたりする。遊んでいるのではなくて、防犯カメラの死角を見ているのだそうだ。
「お帰りになったな」
かすかに聞こえてきたエンジン音に高橋が反応した。護衛として耳がいいのは重要な事だが、高橋は良すぎるのだ。どう考えてもまだ入り口に入ってきたばかりで、エンジン音やタイヤの音がコンクリートに反響して聞き取り辛い状況だ。島野の耳にはまだ車の走行音程度にしか聞こえない。けれど、高橋の耳が聞き間違いをしたことがなければ、その報告を聞いて島野は速やかに行動を起こさなくてはならかった。
行きと同じように 一之瀬に抱き抱えられた菊地がいて、誰かに見られている訳では無いからと菊地は素直に大人しくしている。かりに同じマンションの住人に見られたところで別段何かある訳でもない。アルファが大切な番のオメガを運んでいるのだ。何もおかしなことでは無い。
島野はエレベーターのボタンを押して、上階のフロアの専用のカードキーをかざし、一之瀬がスムーズに歩けるように扉を押さえる。指定した最上階までノンストップで上がるから、屈んだ体勢でいるとやたらと腹筋に力が入った。
そうして一之瀬がエレベーターを降りれば、すぐに玄関のドアを開ける。この一連の動作を音を立てずに行えるようになるまで島野は時間がかかった。なにせ、今まで音を立てないなんて、意識していなかったからだ。と、言うのも菊地がちょろすぎて、まったく緊張感が生まれなかったからである。だがしかし、今はものすごい緊張感を持って接している。何しろ、一之瀬家の本宅で顔合わせをしたばかりなのだから。けれど菊地からは罵られることはなかったし、殴られることもなかった。ただひたすら驚かれてしまい、腹に力を入れて覚悟をしていただけに、なんとも拍子抜けだった。
「島野くん、島野くん」
それなのに、菊地は今までと同じ調子で島野を呼ぶ。しかも番になった一之瀬の腕に抱かれたままで。菊地は無邪気に話しかけてくるけれど、どうにも島野にとっては一之瀬の圧が強かった。考える前に口を動かし、返事をしたから、おかしなことは言ってはいないと思う。けれどどうにも菊地のあの目はまずいと思う。まるであの事件がなかったかのように、今までとまるで変わらない目で島野を見てその名を呼ぶのだ。
これではまるで、許されてしまったかと勘違いをしてしまう。
「勘弁してくれ」
控え室で頭を抱える島野の肩を、野口が面白そうに叩いてきた。もちろん叱咤激励ゆえのものだ。
「嫌われてなくて良かったじゃないか」
「それはそうなんですけどっ」
島野は頭を抱えたままの状態で返事をした。どうにもこうにも頭を抱える事態である。何しろ菊地が嬉しそうに適当に当たりをつけてドアに向かって島野の名前を呼ぶのだ。それは当たりだったりハズレだったりするのだけれど、概ね当たりである。隠れている扉は普通のドアの奥にあったりするからだ。
そして何よりいちばん困ることは、風呂場でキョロキョロと島野を探すことだ。そんな覗き魔みたいなことが出来るわけがない。菊地は島野からの返事がなくともなんだか嬉しそうにするから困るのだ。
そうして結局、島野にとって一番最悪な形で菊地が行動を起こしてくれた。
「ねぇ、島野くんいる?」
三ノ輪由希斗が遊びに来たタイミングで、使用人用のドアの前で島野を呼んだのだ。三ノ輪は高校の時のクラスメイトで、一之瀬匡の姉の嫁ぎ先だ。正確には一之瀬の姉が夫のアルファで、三ノ輪が妻のオメガになる。高校の時から島野の事情を知っているからこそ、からかわれるのでやめて欲しかった。確かに三ノ輪は一人で来たけれど、完全に一人で来た訳では無い。当たり前だけど、運転手付きの車に乗ってやって来て、マンションに着いたら島野がドアを開けて車を帰らせた。三ノ輪は楽しそうに初めてのお宅訪問としてマンションのインターホンを押し、菊地と会話をした。一応菊地が対応したことにより三ノ輪が最上階に繋がるエレベーターに乗り込むことができたのだけど、ちゃんと島野が一緒に乗った。もちろん三ノ輪にだって護衛ぐらいついている。けれど、着いてきたのはマンションの入口までで、あとは島野と交代したのだ。
そんなわけで、島野は三ノ輪が玄関のインターホンを鳴らす寸前までそばにいて、そのまま使用人エリアへと隠れたのだ。それなのに、菊地は無邪気に島野を呼んだ。三ノ輪が出しそうに笑っているのが見えて、島野はいたたまれなくなって菊地の後ろから姿を見せることになった。なぜなら、使用人スペースを仕える主人に見せる訳にはいかないからだ。
「ねぇ、島野くん、立たれてると気になる」
「そうだよ。罰ゲームみたいじゃないか」
護衛だから同じソファーに座れない。と言ったら菊地が嬉しそうに自分の部屋を案内してきた。
「うわぁすごい」
かつて菊地が暮らしていた2DKのアパートにあった物が全て収まっている菊地の部屋は、畳の代わりに絨毯が敷かれていた。
「ねぇ、ここなら一緒に座れるよね?」
菊地が嬉しそうに言うから、島野も同じテーブルについた。もちろん座布団なんてものは無い。
「ごめんねぇ、座布団は使ってなかったんだ」
「大丈夫だよ。お茶の時に比べればこの絨毯の方が座り心地がいいから」
「飲み物ぐらいはあるから」
そう言って菊地の冷蔵庫から出てきたのはお気に入りのオレンジジュースにアイスコーヒーだ。グラスは小さな食器棚からとりだした。
「これもずっと使ってたヤツなんだ」
「俺の引越し祝いだよ」
菊地の取りだしたグラスは、島野が菊地が一人暮らしを始めた時に引越し祝いとしてあげた6個セットのグラスだった。
「昌也があげたの?」
「そうです。ちゃんと俺が選びました」
島野がそうそ言うと、三ノ輪が意味ありげに笑う。
「これ凄く使いやすいんだぁ」
菊地は嬉しそうにオレンジジュースをついで、島野にはアイスコーヒーをついだ。
「缶チュウハイがちょうど入るんだよね」
「それが狙いで買ったんだよ」
「缶チュウハイ?」
箱入り息子の三ノ輪は、缶チュウハイを知らなかった。だから菊地は冷蔵庫から一本取り出して三ノ輪に見せた。
「これが缶チュウハイだよ。俺が好きな味」
よく冷えた缶を渡され、三ノ輪はじっくりと缶を眺めた。なかなか面白いデザインの缶である。何よりも大きくアルコールの度数が表示されているのが珍しくて、三ノ輪はそこをじっくりと眺めた。この度数はこれで高いのだろうか?としばし悩む。
「ビールがだいたい五パーセントなので、この缶チュウハイは6パーセントだからちょっとアルコールの度数が高いですね。まぁワインは十五パーセントぐらいあるからそれよりは低いですけどね」
「へぇ、昌也詳しいんだ」
「だって菊地くん何も考えないで飲むから」
「違うよ。同じ値段ならアルコール度数の高いのを買ってたの」
「エーット、それはつまり?」
三ノ輪には分かりにくい感覚なので、小首を傾げて聞いてきた。
「貧乏性?」
「なんで?」
「アルコール度数が高い方が酔うのが早いでしょ?」
「ああ、なるほど」
そんな簡単な説明で納得したのか、三ノ輪は缶チュウハイを返してきた。それを島野が冷蔵庫にしまう。
「お菓子買ってきたんだ」
そう言って三ノ輪が老舗デパートの紙袋を出てきた。確かにずっと三ノ輪が持っていた。本来なら、玄関で菊地に渡すはずだったのに、島野のくだりがあったせいで忘れてしまったのだ。
「うわぁ、ありがとう」
受け取った菊地はそのまま島野に袋を渡す。そうして買って知ったるな感じで先程の食器棚の下の扉を開けた。
「菊地くん、これかな?」
「そうそう、それ」
島野が取りだしたのはスナック菓子だ。学生時代によく食べていたし、アパートで飲む時はツマミにもしていた。
「これはねぇ、こうやって開けるんだ」
そう言って菊地はパーティー開きをしてテーブルの上にポテトチップスを置いた。
「お菓子なの?」
スナック菓子に馴染みがない三ノ輪が不思議そうに一枚つまんで眺めた。
「ジャガイモを薄切りして油で揚げたやつです。味の種類が色々あるですが……」
「俺はねぇ、コンソメが好きなんだ」
そんなことを言いながら菊地は次のお菓子を開けていた。今度はチョコ菓子で、細かく砕かれたアーモンドがチョコの中に練り込まれている。
「これはチョコだね。わかるよ」
そっちを眺めながらまずは手にしたコンソメ味のポテトチップスを口にする。軽い咀嚼音がして、三ノ輪が味わっているのがわかる。
「味が濃いかな?って思ったけれど、上に味が着いてるから濃く感じるんだね。こっちのチョコも面白い食感だね」
そう言いながら三ノ輪がどんどん口にするから、島野は三ノ輪が持ってきた紙袋の中身を開けた。
「菊地くん……」
島野が小声で名前を呼ぶから、菊地はようやく気がついた。
「えっ、と、ああそう、お持たせですけど?」
「そうそう」
「島野くん、開けてよ」
「はいはい」
三ノ輪が持ってきたのはクッキーの詰め合わせで、一口サイズがちょうど良かったのか、ものすごい勢いで無くなった。
「お腹が、出たかも」
トイレから戻ってきた菊地が何気なく口にして、お腹を撫でた。
「ちょ、菊地くん、いや、奥様!」
島野が慌てて菊地の手を掴む。いくら友だちだとしても、素肌を晒すなんてだいぶまずい。
「え?なに?島野くん?」
何も分かっていない菊地は不思議そうな顔をした。
「は、肌を晒すなんて、絶対ダメ!」
「えーなんでぇ、別にいいじゃん。友だちなんだし」
菊地は不満を漏らしながら元いた場所に座ると、そのまま島野の服を掴んだ。
「そう、お腹と言えばさ」
言うなり島野の服を掴む。
「うわ、なに?」
中腰の姿勢だった島野は、バランスを崩して倒れそうになりながらも三ノ輪を潰す訳にはいかないので、何とか踏みとどまった。が、しかし、
「ああ、やっぱり。島野くんの裏切り者」
床にお尻を着いて体育座りが崩れたような体勢になった島野の腹を見て菊地が叫ぶ。菊地が言う何が裏切りなのかと三ノ輪は顔を島野の腹へと向けた。
「何が裏切りなの?」
三ノ輪の頭が島野の腹の前に来てしまったから、慌てて避けた島野はさらにバランスを崩してそのまま後ろに倒れてしまった。けれど、菊地も三ノ輪も島野の心配なんてしやしない。
「コレ見てよ」
菊地は島野のシャツを捲りあげ、島野の腹を三ノ輪に見せた。
「うわぁ」
「割れた腹筋なんて、裏切りだよ」
そう言って菊地は、遠慮せずに島野の腹をゆびさきでつつく。
「ちょっ、菊地くんっ」
島野は慌てて起き上がろうとしたけれど、呆気なく三ノ輪に頭を抑え込まれてしまった。
「すごーい、
そう言って、三ノ輪までもが島野の腹を撫でてきた。細い指が撫でるように触れてくるから、どうにもくすぐったくて島野は思わず腹に力をいれる。
「わぁ、固くなった」
「ほんとだ、凄い。溝が深くなった」
二人揃って島野の腹を触りまくる。どう考えてもオメガによるベータに対するセクハラなのだが、一之瀬家に仕える護衛である島野が二人の手を振り払うなんてことは選択肢にはなかった。
「もぉ、ほんとにずるい。俺の腹こんななのに」
菊地がもう一度服をめくって自分の腹を見せてきた。別にたるんではいないが、筋肉の筋も見えない色の白い薄い腹だ。
「ちょっと食べ過ぎかな?」
そう言って三ノ輪が菊地の腹を指でつつく。
「お菓子食べすぎたかも、由希斗くんは?」
「え?僕?」
やめればいいのに、言われたから三ノ輪まで自分の腹を出てきた。
「どう?」
「うーん?俺より薄い?アバラが見えるね」
そんなことを言って二人で腹を見せあって、島野の腹と見比べる。床に倒れたままの島野は、とりあえず二人を見ないように視線を上の方へと向けるのだった。
「お願い二人とも、早く隠して」
島野の願いは二人の番に怒られないこと。ただそれだけだった。
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