第11話


「まったく、お前は素人か……って、それもそうだな」


 島野の報告書を読んで、野口が深いため息をついた。理由はやはり菊地の同僚となった山岸に、自分の存在がバレたことだ。九年間菊地の護衛兼監視をしてきたけれど、バレたところで実害がなかったからだ。いや、どちらかと言うと積極的にバレるようにしていたのかもしれない。何しろ高校の時は仲の良いクラスメイト、大学は同じ学部で同じゼミで同じサークルで、社会人になったら同じ会社の同じ部署で働く仲だった。

 だから護衛は結構ゆるゆるだった。同じ学校の友だちだったり、同じ会社の同僚だったりすれば同じ駅を使うのも、行きつけのコンビニが一緒なのもなんの不思議もなかったから。休憩時間に一緒に同じ食堂に行って、同じ自販機で缶コーヒーを買うのも、なんの不思議もなかった。だから薬を仕込むのは簡単だったし、肩に手を置くふりをして数値を測定するのも容易だった。


「すみません」


 島野は素直に謝った。謝ったところでどうにもならないが、今後山岸には注意が必要だろう。いや、華代が食堂で派手にしてくれたから、山岸が気づいていなくても、そのうち噂が回って行くだろう。


「本当は、和真様に護衛の存在を知ってもらうのが一番なんだがな」


 野口はため息混じりに呟いた。


「顔を合わせた途端に罵られるかもしれませんよ?」

「それなんだよなぁ」


 野口は頭を抱えた。島野は、それはそれは菊地に信頼されていて、とても仲が良かった。俗に言う親友と言うやつだったと言っても過言ではない。だからこそ、裏切られたと思って罵声を浴びせられるかもしれないし、いきなり殴られるかもしれない。まぁ、仮にそんなことになったとしても、島野はおとなしく菊地からの非難を聞く覚悟はあるし、素直に殴られるつもりではある。

 ただ、結構体を鍛えてある島野のことを、菊地が殴った場合、痛手を負うのは菊地だろうことは容易に想像がつくのだ。

 野口と島野は悩んでいるけれど、その考えの行く先は違う。野口は専属護衛の島野が奥様こと菊地に嫌われると、支障が出ることを懸念しているのだ。つまりは、島野を嫌って菊地がわざと困らせようとか、逃げ出そうとか、そう言った行動をとるかもしれないということだ。だが、島野の不安はそっちではなかった。菊地に罵られても殴られても構わなかった。ただ、本気で嫌われるのが怖かった。ずっと騙してきたことは確かで、薬を盛ったのは確かに島野であるから、裏切り者と言われればそれまでだ。それでも、嫌わないでほしい、顔も見たくないなんて言わないでほしい。島野は心底そう思っていた。


「なぁ、昌也」

「はい、なんでしょう」


 真っ直ぐに島野は野口を見た。島野が菊地の専属なのは、一之瀬匡が直々に指名したからだ。だから野口の判断で勝手に外すことはできない。だがしかし、同僚の山岸に見られているし、華世の件もある。華世は自分がコマになることを望んでいるし、一之瀬も承諾している。酒巻は地方に根付いたアルファの家系でどこかの名家の分家などではない。それが自らコマになることを申し出てきたのだから、否と言うはずがなかった。ただ、もう一つのコマである島野がよく理解していないのだ。


「あれこれあって、なんだけど、お前明日から長休な」

「は?」

「だから、長休だよ」

「なんでですか?」

「あれだ、ほら、匡様が次の発情期で番うだろ?そうなると警備体制も変えなくちゃならないからな」

「それでなんで俺だけ長休なんですか?」


 まったく意味がわからないので島野は素直に質問するのだけど、野口は自分の口から伝えていいものか悩んでいた。悩んでいたからこそ、一瞬目を閉じて、小さく決意をして、口を開いた。


「とりあえず実家帰って、親に聞け」

「わかりました」


 こうして島野は訳の分からぬまま長休となり、言われるままに実家に帰った。父親はもう仕事に行った後だけど、母親はリビングでお茶を飲んでいた。


「そお、野口さんにそう言われたのね」


 そう口にして、母親はゆっくりとお茶を飲んだ。それから少し考えるような素振りを見せて、ゆっくりと島野の顔を見た。


「島野家は、代々一之瀬家に仕えるベータの家系よ」

「うん」

「私とお父さんは職場結婚なの」

「職場?」

「お父さんが一之瀬家で護衛をしていることは知っているわよね?」

「うん」

「私はね、お手伝いさんだったの。お屋敷のお掃除をしたり、奥様方の身の回りのお世話をしたりしていたわ」


 母親はそう言って小さく息を吐いた。


「蘇芳様がね運命の番である陽葵様と出会われたのよね。昌也も知っているだろうけど、匡様には沢山のお姉様がいらっしゃるでしょう?」

「うん」

「全員アルファだから後継問題はなかったのよ」

「うん」

「でもね、陽葵様は後転性オメガだから、男の子を産まなくちゃって思ってしまったのよね」

「うん」


 一之瀬の母親が元はベータであったことは知っている。だから親子二代で後転性オメガが運命の番だと驚いたのだ。


「陽葵様がね、ヒートがあけた時に私に言ったのよ。『男の子だ』って」

「うん」

「だからね、それを聞いて私とお父さんもすぐに子作りをしたのよ」

「…………」

「ベータは毎月妊娠できる能力があるからね。でも確実に産まなくちゃいけないでしょ?だから一之瀬家お抱えの医者にはかからせてもらったわ」

「…………」

「それで昌也が生まれたでしょう?匡様とは一月違い。蘇芳様から褒められたわ」

「…………」

「昌也はちゃんと匡様の遊び相手ができたものね。アルファは生まれた時から違うから、ベータの普通の子どもと遊んで力加減を学ばないといけないのよ」

「…………」

「だからねぇ、昌也。あなたもちゃんと仕えなくてはダメなのよ、うちは代々一之瀬家に仕えてきた家系なのだから」

「……うん」


 母親の話を聞いて、島野はようやく華世の言わんとしていたことが理解できた。華世は一之瀬匡に自分の全てを捧げたいと言っていた。それはつまりそう言うことなのだ。世の中の女性の大多数が憧れているであろう結婚さえも、一之瀬匡に捧げる覚悟があるのだ。それはつまり、その後生まれるであろう子どもさえも、一之瀬匡に捧げるという事なのだ。

 つまり、なんの覚悟もしていなかったのは島野だけだったのだ。言われるままに菊地和真を監視し、時に護衛をして、誰よりも近しい存在であり続けたと言うのに、その意味を理解していなかったのだ。


(俺はバカだ)


 今頃気づいても遅い。あまりにも近しい存在になってしまったから、気づくのが遅れてしまった。もうすぐ菊地は二度目の発情期を迎える。ずっと島野が薬でコントロールしてきたから、本格的な発情期を迎えさせないようにしてきた。だがしかし、実際は大学の途中から菊地のフェロモンはきちんと定期的に変化していた。だからヒートを起こさないように、抑制剤が数種類使われていたのだ。薬が効くと、菊地から甘い匂いがしなくなるため、島野はいつも内心ホッとしていたのだ。

 だが、次の発情期で番いになると一之瀬は言っていた。


(菊地くんが匡様に抱かれるんだ)


 知ってはいる。知識はある。自分だって女を抱いたことがある。けれどでも、菊地和真が一之瀬匡に抱かれるのだ。そうして項を噛まれて番になる。想像した途端、島野は全身から力が抜けていくような感じがした。

 自分は、一之瀬匡の願いを叶えるために九年間動いてきたのではなかったのか?それなのに、何を今更驚いているのだろう。


「ねえ、昌也」


 不意に母親が名前を呼んだ。


「なに?」


 返事はしたものの、顔を見ることができなかった。目が合えば、自分の気持ちがバレてしまうと感じたからだ。


「あなたもいい年よ。あのお嬢さんとてもいい人だわ。それに、そうしないとそばに居られなくなるわよ」

「え?」

「生まれた時から一緒に居られる子どもは一人だけなのよ」

「は?」

「一緒に公園に行ったり、お買い物に行ったり、お昼寝したり、そんなことができるのは一人だけなのよ?誰かにとられてもいいの?」

「……あ、うん……いや、ダメ、菊地くんの護衛は俺だから」

「じゃあ、どうしよっか?」

「えっ、と、あ、うん。で、でかけてくるっ」


 慌てて家を飛び出した島野の背中を、母親は楽しそうに見送ったのだった。


「ええと、連絡先……どこだっけ?」


 慌てて家を出たものの、自分は休暇中で、相手はきっと仕事中に違いない。慌てて考えもなしに飛び出したから、どうすればいいの分からなかった。女の子と付き合ったことがないわけではない。菊地に合わせて大学時代はベータの女の子と付き合っていた。だが、相手はアルファの女性だ。誰が見てもアルファらしい容姿をしている華やかな人で、平凡な見た目のベータである島野と釣り合いが取れるとは思えなかった。

 だが、声をかけてきたのはあちらの方で、打算なことぐらいはわかっている。だが、たった一人にしか与えられないポジションに着くには、島野が一番近いのだ。

 島野が連絡を入れると、華世はあっさり承諾してくれた。しかも今から来ると言う。指定された駅前に立っていると、華世がタクシーでやってきた。


「昌也さん、おまたせ」


 そう言って何のためらいもなく華世は島野の腕に自分の腕を絡めてきた。モデルのような頭身の華世は、島野よりも背が高かった。おまけにヒールの高い靴を履いているから、完全に肩の位置が一つ分華世の方が上だった。


「あそこへ行きましょう、昌也さん」


 若干華世に引きづられるようにして、島野は華世のいう店へと連れていかれる。いわゆる老舗デパートで、紳士服売り場へと進んでいった。華世は慣れた手つきで島野の服を見繕う、何故だか分からないけれど、華世は島野の服のサイズをわかっているのだ。


「あら、これくらいできなくては秘書は務まらなくってよ、昌也さん」


 華世はわざわざ島野の名前を口にする。それがあえてなのだということぐらい島野は分かっていた。心理的な影響力は大きい。それから周りに与える影響も。


「これにしましょう、昌也さん」


 言われるままに島野は華世の選んだ服に着替える。着ていた服が紙袋に入れられて手渡される。そのまま今度は地下に降りたから、当たり障りのない菓子折りを購入した。そうしてまた、華世に引かれて島野はタクシーに乗り込み、昔よく見た風景を、少し低い角度で眺めることになった。

 懐かしむ間も無くタクシーを降りれば、そこは酒巻の屋敷だった。地方議員とはいえ、代々続くアルファの家柄だ。門構えもちゃんと古い。


「お父様、いま戻りました」


 華世が勝手知ったるというふうに歩き、着いた先は落ち着いた雰囲気の書斎だった。この部屋だけリフォームされているのか、床には段差がなく、フローリングも新しい。


「ようやく来たか」


 そう言って島野の前に現れたのは、やや年のいった男性だった。高校に入るときに父親から見せられた資料よりだいぶ老け込んで見えるのは、それがもう九年前の記憶だからだろう。その隣に立つ男性はどちらかといえば華世に似ていた。アルファらしい華やかな見た目だが、年齢を重ねているようで落ち着きがある。


「昌也さん、紹介するわ。父よ。そしてこちらが兄、父の秘書をしているの」


 言われた相手に頭を下げる。この部屋の中で考えれば、ベータである島野が一番格下だ。


「お父様、こちらが昌也さん。一之瀬匡様の運命の番様の護衛をなさっているの。高校の頃からずっとよ」

「初めまして、島野昌也です」


 紹介されたから改めて名乗ってみれば、華世の父親は目を細めて島野を見ていた。その顔は決して怒っているようには見えなかった。普通に考えれば、隠したであるベータの島野が返事を渋ったのだ、文句の一つでもいってきても良さそうなものだ。


「昌也くん、ありがとう。華世のわがままを聞いてくれるとは思わなかったよ」

「わがまま、ですか?」


 意味がわからなくて島野は首を傾げた。どちらかといえば、わがままを言って返事を遅らせたのは島野の方ではないだろうか?


「娘はどうしても一之瀬匡様のお役に立ちたいと言って聞かなくてね。迷惑を承知の上で一番近い君に見合いを申し込んだんだ」


 そう言ってすまなそうに頭を下げられれば、最初に華世が言っていたことが思い出される。島野に見合いを申し込んで、待っていたのは華世の方だった。しかも、いつになるかわからない状態で。美人で性格もいいアルファの華世ならば、当然選ぶ側だっただろうに。


「それは、随分とおまたせしてしまいましたね」


 そう言いながら手持ちの菓子折りを秘書をしているという華世の兄へと手渡す。


「いえいえ、代々一之瀬家に仕える優秀なベータである島野の家に、うちの娘が嫁げるなんて嬉しい限りですよ」

「安心してくださいなお父様。私、必ずや匡様のお役に立ってみせますわ」


 そう言って華世が島野に向かって微笑むものだから、島野も精一杯の愛想笑いを浮かべるのであった。

 食事でも一緒にするのかと思えば、華世はそのまま踵を返すように家を出た。なぜか腕を組んで通りを歩き、着いたのは小さなレストランだった。


「まだランチはやっているかしら?」

「ありますよ」

「じゃあ、二つお願いね」


 店に入るなり華世は注文をして、窓際の席に向かい合わせで座る。


「いらっしゃい」


 そう言いながら水の入ったピッチャーと、色付きのグラスを置いたのは、なんだか見覚えのある顔だった。


「本当に、あの島野くんと?」

「ええ、そうよ。私が有言実行する人間だって、忘れたのかしら?」

「まさか、でも……島野くん、本当にいいの?」

「な、なにが?」


 島野を置いてきぼりにして、勝手に進んでいった会話だったのに、最後に問いかけられればよくわからないまま動揺してしまうというものだ。


「華世の、目的。知っているのよね?」


 探るような目線で問いかけられれば、一瞬考えはしたものの、すぐに答えは出てきた。


「知ってるよ。それに関しては俺もそうだと思っているから。譲れないところではあるけどね」

「あらやだ、昌也さん。そこはあなたに譲るわよ、もちろん」


 完全に主語が抜けているのに、華世は譲ると言い出した。


「私はね、匡様のお役に立てればそれでいいの。きっと昌也さんが一番そばにいないと番様が不安になるとおもうのよね」

「え?」

「昌也さんもそうでしょう?番様のそばにいないと不安でしょう?だから、その役割は諦めるわ。だって、割り込んでも意味がなさそうだし」


 華世は笑いながらそう言った。だから島野は笑いながら礼を言って、高校の時の同級生だというシェフが作ったランチを美味しくいただいたのであった。


 ランチを食べた後、華世の車で島野の実家に行ってみれば、玄関先で待ち構えていた母親に、家に上げてもらえることなく次の異動先の鍵を渡された。場所は華世がすでに知っていたらしく、島野は助手席でおとなしく座っていた。


「ここって……」


 見覚えのある駐車場に、見覚えのあるエントランスだった。


「空いているの、ここしかなかったの。でも一つ屋根の下には変わりはないわよね?」

「そ、そうだね」


 鍵を開けて中に入れば、何もない空間に一枚の婚姻届が置かれていた。夫となるものの欄だけが空白で、あとは全て埋められている。


「書き損じは許さないからね」


 島野は黙ってボールペンを受けっとた。

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