第10話


 社内にいる間は特に何もすることは無い。何しろあちこちに設置されている防犯カメラは、菊地和真という男の顔を認識しているからだ。簡単に言えば勝手に菊地を追跡してれる。オマケに菊地の席のパソコンにもモニターが付いていて、仕事をする菊地の姿はバッチリ正面から撮られていて、オマケに音声も届くのだ。そう、社長である一之瀬匡の元へ。


「もはや社内ストーカーとしか言いようがない気がしなくもない」


 いや、実際そうなんだろうけど、仮にも社長だし雇い主だし大っぴらに口にすることでは無い。


「こーら」


 パコんっと言う音がして、島野の頭に丸められた書類が当たった。


「吉高さん」


 秘書で護衛もこなす吉高だった。田中だったらこの部屋にやってくることは無い。


「和真様は、案外聡いな」

「ぼんやりしているようで、周りを見て流されてますから」

「なるほどねぇ」


 頭に当たった書類が島野の前で広げられた。丸められていたから端が少しカーブしている。


「履歴書?」


 今更ながらの履歴書だった。菊地和真がこの会社に就職する為の便宜上書いたものだ。だが、筆跡が違う。


「この字は……田中さん?」


 じっくりと眺めながら島野は答えた。


「当たり」

「住所知りませんもんね」

「で、昌也は知ってるのか?」

「……今、知りました」


 場所を知っているから深く考えていなかったけれど、何かあった際に住所を知らないのはだいぶまずいかもしれない。街中なら自動販売機でも探せばいいけれど、護衛が主の自宅住所を知らないのはいただけない。

 島野はポケットから手帳を取り出して住所を書き写した。最上階なんて気軽に言うけれど、確かにタワーだと改めて思うのだった。

 菊地に見つからないように、食堂のあるフロアに向かう。オメガ専用のカフェエリアがあるから、そこに限りなく近い場所に座りたい。けれど、どこか情報が漏れるのか、新しく入ったオメガを見ようと露骨では無いけれど、ベータの女子社員が席を探すふりをしながらカフェエリア付近を歩いていた。


「ベータって時点で相手にされない現実を見ろよ」


 島野はそう小声で呟きながら、インカムのチャンネルを切り替えた。何回かノイズが聞こえたあと、カフェエリアで談笑する菊地の声が聞こえてきた。防犯カメラは菊地の事を追尾しているから、映像は一之瀬の元へと送られていることだろう。だが、昼休み特有のざわめきのせいで、会話をクリアに拾うことは出来なさそうだ。

 それでもカフェエリアの近くに来ればこうして聞き取ることは可能である。


「…………男じゃん……」

「でも…………の、じゃ……」

「じゃあ、この……るの?……」


 時折聞こえてくる邪魔な声はベータの女子社員だろう。カフェにいる見知らぬオメガを見つけ噂話に花を咲かせているようだ。島野は何となく声のする方に視線を向けてみると、流行りのオフィスカジュアルに身を包んだ女子社員がグループになって座っていた。見た感じベータとしてはまぁそれなりに見栄えのする顔立ちはしている。だが、アルファを見慣れてしまった島野からすれば、まるで花がなかった。


「ご一緒してもいいわよね?」


 そんな声が聞こえて、島野の前にランチプレートが置かれ、次に華やかな顔立ちの女性が座った。社員食堂において圧倒的な存在感を放ち、視線を独り占めている。しかしながら、そんなことを歯牙にもかけず島野に向かって笑顔を向けてきた。


「…………え?」

「探してしまったわ、昌也さん」


 そしてとても嬉しそうに、それこそ花がほころぶかのように笑った。当然、視線を送っていた男性社員たちはそれだけで言葉を失い、噂話に花を咲かせていた女子社員たちは目を見張った。

 一之瀬の会社はアルファもオメガもベータもいるのだが、オメガの社員は見ての通りオメガ専用のカフェエリアで食事をする。アルファの社員は大抵が役職を持っていて、社員食堂を使うことは稀だ。たまに使うことがあっても部下に囲まれていたりして、ベータの平社員は近寄ることも出来ないのだ。

 それなのに、明らかに一目でアルファと分かる美しい女子社員が、体格はいいが顔はそれなりの男性社員、つまりはどう見てもベータの前に座り嬉しそうに笑っている。明らかにおかしいと感じながらも、誰もがたたそれを見ているしかなかったのだ。


「どうして、ここに?」


 ようやく島野が口にできたのはそんな在り来りの言葉だった。


「だって、昌也さんったらお仕事ばかりで私に構ってくれないじゃない?だから、こうやってランチデートでもしようかと思ったのよ」


 そう言って酒巻華代は笑った。

 しかし、華代の言った言葉に島野は困惑した。ランチデートとはどういうことか?いや、そもそも華代はこの会社の社員だったというのだろうか?まったくそんなことは知らされていない。いや、もしかすると……


「昌也さん、私の釣り書、ちゃんと読んでくれてなかったのかしら?」


 言われて島野は記憶を手繰り寄せた。確か封筒に入っていた華代に関する書類、そこに書いてあった気がする。だから、仕事絡みの依頼なのだと思ってしまったのだ。そう、華代がここの社員であったから、だ。


「読んみました、よ。その、読んだから仕事の話なんだと、思ったわけで」


 今更ながらの、言い訳だ。見合い相手の釣り書を依頼書だと思うあたりどうにもならない。それに、華代との会話を聞いている周りの社員たちは、こんな華やかなアルファらしい華代と見合いをするような島野の事を、残念なアルファだと認識してしまったようだった。


「酷いわねぇ、昌也さんったら」


 笑いながら華代はランチプレートを食べ始めた。色とりどりの野菜がご飯の上に乗っているが、そのご飯の色も紫色だ。


「昌也さんったら、お肉ばっかりじゃない」

「生姜焼き定食なんだから普通でしょ」

「付け合せのお野菜はそれだけなの?」


 そう言って華代は豚肉をめくる。その下にはタレでクタクタになったキャベツの千切りがあった。


「普通でしょ?」

「ダメよ。バランスよく食べなくちゃ」


 そう言って、自分の皿からトマトを箸でとって島野の口へと運んできた。咄嗟に何が起きているのか理解は出来なかったが、これは回避不可だと悟り、島野は素直に口を開く。何もついていないトマトだけの味が口の中に広がった。


「トマトを食べると病気にならないそうよ。昌也さん、毎日食べましょうね?」

「え?毎日?」


 口の中のトマトを飲み込んで島野はあせった。毎日とはどういうことだろう?島野たち護衛の食事を華代が指導すると言うことなのだろうか?


「ええ、そうよ。昌也さんのためにハウスを1棟建てましょうか?」

「そんなに?」

「だって、毎日食べるんですもの」

「いや、普通に買うでしょ」

「そお?……ああ、でも確かに、毎日違うトマトを食べるのも楽しそうね」


 そうじゃない。島野は声を大にして言いたかったけれど、楽しそうに笑う華代に向かって、そんなことは口には出せなかった。

 食べながら確認すれば、華代は秘書課に所属していた。確かに華やかなアルファである華代は、そういった場所が似合うだろう。つまりは一之瀬の秘書である田中の下で働いているというわけで、ある意味島野の行動は筒抜けなのかもしれない。


 菊地の帰宅に合わせて駅に行くと、菊地の隣に山岸というオメガの男性社員がやってきた。どうやら年上だけど危なっかしい行動をする菊地が気になって仕方がなかったらしい。インカム越しに話を聞けば、島野の存在に山岸は気づいているらしく菊地の事をやたらと心配してくれていた。ありがたいとはおもいつつ、素人にバレてしまったことが悔やまれる。

 とは言うものの、護衛としての任務は、正しくはこれが初めてかもしれない。そう考えたら島野は素人同然だ。菊地からはちゃんと隠れていたかもしれないが、傍から見れば挙動不審な奴だったということだ。もしかすると、山岸が菊地を心配しすぎて周りを警戒しすぎていただけなのかもしれないけれど。

 そうして帰宅した菊地が部屋の中で一人でバタバタして、静かになったと思ったら1階にあるスーパーに買い物に出てきた。1階に入っているスーパーは、所謂高級スーパーで、米は玄米の状態で並んでいるし、鮮魚のコーナーに数種類のキャビアがあったりして、元ベータの庶民派の菊地には信じられない光景だろう。だから、値段を見て一人驚く菊地の表情が面白くて、島野は背後からではなく斜め前辺りの棚の影に立っていた。

 それなのに、菊地は島野には全く気づくことはなく、買ったものをコンシェルジュが運ぶことにものすごく驚きながらも、急いで部屋へと帰って行った。

 そうして、菊地が夕飯の支度を始めた頃、その匂いを嗅いで島野の腹が盛大に鳴った。もちろん護衛としてあるまじきことだ。


「ああ、かぼちゃの煮物作ってくれないかなぁ」


 島野にとって菊地の作るかぼちゃの煮物は思い出の味であり、一之瀬にとっては未知なる食べ物なのであった。

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