第9話
とにかく滑らかに移動できるように、細心の注意を払って扉を開け、一切の障害物を取り除いた。車はいつもとちがってワンボックスで、スライドドアが電動で動くため開閉がゆっくりなのがいただけない。もっとも、マンションの駐車場は地下だから、天候や人目は関係がないのではあるのだが。
「どうぞ靴はそのままで」
事前に敷き詰められた絨毯は、この日にためだけに用意されたものだった。玄関から寝室まで、いや、正確にはベッドまで、靴のまま移動するためだけに用意された。
島野にとって最も大切な仕えるべき一之瀬匡。その運命の番である菊地和真がついにやってきたのだ。とは言っても、一之瀬匡に抱きかかえられた状態だ。肌触りのいい毛布に包まれて、大切に抱き抱えられている菊地は眠っている。つま先まできちんと包まれているため、見えるのはほんの少しの前髪だけだ。顔が見えているのは、抱き抱えている一之瀬匡だけだろう。大切な大切な運命の番をようやくその手にだけだからなのか、足取りは軽かった。
「和真」
ベッドに優しく下ろした時、一之瀬の口から愛しい番の名前が呼ばれた。だが、眠っているため返事は聞こえない。それでも、目を細め嬉しそうに口角を上げるその顔は普段とはまるで違いただ穏やかだった。
これ以上邪魔をするわけにはいかないので、島野は黙って一之瀬から靴を脱がせ、足元の絨毯を片付ける。菊地がいる時は寝室に入らないルールがあるが、今日だけは特別だ。ゆっくりと扉を閉めて見えない相手に頭を下げる。脱いだばかりの一之瀬の靴を玄関に置くと、野口と共に絨毯を倉庫にしまった。次に使う日があるのかは謎である。
翌日、一之瀬は仕事があるから出社してしまったが、菊地はまだ寝ているらしい。護衛兼秘書の吉高がついて行き、田中が残った。元から菊地専任の島野は控え室で待機状態だ。一応使用人専用の通路を使い寝室の様子を伺ってみたが、聞こえてきたのは菊地の規則正しい寝息だった。
(良かった。よく寝てる)
菊地の護衛だけれど、寝室には入れないから壁の向こうから様子を伺うだけで島野は満足した。一之瀬が仕事に行ってから随分と時間が経っているけれど、菊地が起きる気配はまるでなかった。田中は田中で普段の仕事を処理しているようで、無言でノートパソコンと向き合っていた。今日から初めて護衛につくなら、島野もパソコンでも開いて菊地のことを頭に叩き込もうとしていただろう。だがしかし、実質九年間誰よりも一番近い存在として来たから、今更菊地の何かを知る理由がなかった。唯一変わったことは、菊地がベータからオメガになった事だろう。菊地の初めての発情期は、施設職員の木村が対処してしまったから、島野はただモニターを見ているだけだった。だが、これからは全て一之瀬匡が相手をする。ようやくあるべき形になるのだ。
「奥様は、なんでも食べるんですか?」
不意に田中から声をかけられて、島野は驚いて顔を上げた。特にすることがなかったため、日課のストレッチをしていたのだ。足を開いた状態で、床に胸をつけていたから本当に顔だけ上げてみた。
「……何をして、いや、まぁいいでしょう」
基本が一之瀬匡の秘書である田中は、特別体を鍛えたりはしていない。ただ有事の際に対処できるよう、運動不足にならないように気を使ってはいるだけだ。
「好き嫌いは基本ないですね。コーヒーはブラックで飲むんですけど、缶コーヒーはカフェオレタイプを飲みます。食べることは結構好きなので、たまに食べすぎて苦しんでましたね」
島野がサラッと答えると、田中は一瞬目を見張り、その事を手帳に書き留めた。
「特に好きな食べ物な?」
「庶民的な食べ物で生きてきましたから、高級食材に馴染みはないです。強いて言えばあまじょっばい食べ物をよく作ってました」
「あまじょっぱい……作る?」
「就職してからですけど、一人暮らしを始めてから自炊してましたから、煮物とか作り置きしてましたね」
「煮物、ですか」
「洋食はあまり作ってなかったですね。パスタを茹でて缶のミートソースをそのままかけていたからなぁ」
「なるほど」
「あ、唐揚げは作ってました。揚げたてを台所でそのまま缶チュウハイで」
「は?台所で、そのまま、とは?」
「ガス台の前に椅子を置いて、揚げながら食べてましたよ」
「な、なるほど」
「あ、唐揚げって洋食ですか?和食?」
「その辺は追求しなくていいですよ。卓上タイプのフライヤーが必要かもしれませんね」
そんなことを呟きながら田中がまたメモをとるものだから、島野は黙って見るしか無かった。
「あ……」
壁越しに、人が動く気配がした。島野はただ黙って様子を伺う。田中はパソコンで連絡を入れたようだ。そうして返信を確認するとようやく控え室を後にした。残された島野は、そのままストレッチを続けることにした。耳に付けたインカムからは田中と菊地のやり取りの声が聞こえてくる。機械越しとはいえ、久しぶりに聞く菊地の声だった。
なんの躊躇いもなく部屋の中を歩き回っているようで、独り言とは思えない声が聞こえて、田中に話しかけられて盛大に驚いている。本当にのびのびとしている菊地は、ある意味強かなのだろう。竹を割ったようなとはよく聞くが、ある意味菊地も竹のような人物だ。どんな強風が吹こうとも折れることはせず、しなやかに受け流していく。今回のことだって、上から降り積もる重みに負けて下にしなっているだろうけれど、折れる直前で全てを跳ね除けて真っ直ぐ天に向かってしまうに違いない。
その証拠に、田中に向かって怒鳴り散らすこともなく、出されたコーヒーを飲み、自分の部屋を確認している。
「あいかわらずだなぁ」
自然と口元が緩くなる。聞こえてくるのは声だけだけど、それでも菊地がどんな顔をしているのか想像出来てしまう。決して怒りはせず、目の前の出来事を受け止め淡々と処理をする。感情の起伏は激しくは無いが、表情には出やすいから、さぞや田中は笑いを堪えるのが大変なことだろう。きっと菊地は全力で嫌な顔をしているはずだから。
翌日、島野はビジネスカバンを取りだした。カッコつけのための道具だから、一応中にはペンケースとノートなんかが入っている。ただし使ったことは無い。
「あとこれだ」
紐のついた名札をスーツのポケットにしまい込む。高校を卒業してから渡された一之瀬グループの社員証だ。実質これされあれば一之瀬グループの会社はどこでも入れる。今日から菊地が務める一之瀬匡が社長を務める会社にだって入れるのだ。社員では無いけれど。ただし部署を聞かれたら『セキュリティセンター』と答えるようにはなっている。グループ全体を対応する部署だから、「見かけないわね」なんて言われてもいくらでも言い逃れができるのだ。
島野は先回りしてマンションのエントランスに出ていた。きっと一之瀬は菊地と一緒に出社しようとしているだろうけれど、それは出来ないことなのだ。初出社の日は色々と手続きがある。まして、昨日手続きをしたばかりだから、人事課は菊地の社員証なんて用意出来ていない。菊地の立場を知っているのは対応したあの人事課の女性だけだ。
「あ、来た」
エントランスで何食わぬ顔で立っていると、案の定菊地は島野に気づきもしないで出ていった。教えていなかったはずなのに、ちゃんと最寄り駅がわかるのがなんとも言えない。まぁ、周りにもマンションがいくつか建っているから、そこから出てくる人たちが向かう先が駅なのだ。ワイシャツに上着を軽く羽織った菊地は、財布からキャッシュカードを出して切符を買っていた。確かあの財布には電子マネーのカードが入っていたはずだ。銀行口座は凍結されたけど、電子マネーはされていないから、それで切符が買えたのに。島野はそんなことを思いながら、ゆっくりと菊地の後をついて行く。もちろん、島野は電子マネーをかざして改札を通った。
ホームで菊地は駅員と何かを話していた。財布からまた何かを取り出して、それを見せて案内されている。多分オメガ専用車両に乗るよう促されたのだろう。後ろから見ても分からないが、前から見れば菊地ネックガードはハッキリと見える作りになっていた。一之瀬がどんなネックガードを送ったのか、島野は知っている。何しろ菊地の首周りを寝ている隙に測ったのは島野だからだ。
大学を卒業して就職した会社で作った社員証用の顔写真を入手して、一之瀬は菊地に似合うネックガードを熱心に探していた。一番近くにいるからから、島野に意見を求めてくるので島野はいつの間にかにネックガードに詳しくなっていた。
「菊地くん、それ単なる悪口」
護衛対象者である菊地と同じ車両に乗れないから、島野はこっそり菊地のカバンに盗聴器を入れた。最初はマンションのエントランスで入れようと思ったのだけれど、意外にも菊地が全く島野に気づかなかったから、ゆっくりと後ろについてみたのだ。
そうしたら、本当に気付くことなく菊地はホームまで来てしまった。満員電車ではちかんに気をつけるよう一之瀬が伝えているのだが、ベータとして生きてきた菊地は、男であってもオメガなら狙われるという事を理解していなかった。もし、一般車両に乗り込むようなことがあれば、ガードする予定であったが、駅員が先に気づいてくれたので背後から盗聴器をいれたのだ。
そうして隣の一般車両で菊地の様子を探ってみれば、同じ車両に乗り合わせた男子高校生からの質問に、素直に菊地は答えていた。しかもオブラートに包むなんてことをしないから、島野からすればまんま一之瀬匡に対する悪口にしか聞こえなかった。
けれどまぁ、菊地が一之瀬のことを嫌っていないようなのでそっと胸を撫で下ろした。
そうして何とか菊地が無事に会社に着いたから、その背中を見送って島野は何食わぬ顔で普通に出勤するのであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます