第8話


 島野が走って警備室に戻ってみれば、出迎えてくれた野口が困った顔で出迎えた。どうやらコテージで何かがあったらしい。


「匡様がいるんだけどな」


 野口が示すモニターを見れば、そこには一之瀬匡と二階堂卓が並んで立っていた。秘書でもある吉高がいるということは、つまりそこに護衛対象がいるというわけで、つまりコテージには最初から一之瀬匡がいたわけだ。だがしかし、何故か二階堂卓まで同時にいたのは驚きだ。


「何があったんですか?」


 自分が駐車場からこの警備室に来るまで、時間にして30分程度だったと思う。直線距離にすればだいしたことはないのだけれど、如何せんコテージの周りもシェルターの周りもショッピンモールの周りも木が多いのだ。無機質にならないように、自然と共存するように、そしてシェルターを目立たせないように、とにかく色々な木が植えられていて、高原にある小路のようになっていた。散策するのにはいいだろうけれど、目的を持って急いでいる者にとってはとんでもなく複雑な作りになっているのだ。つまり、ボイラー室など音がする設備やガスや電気の配電盤など客の目に触れさせたくない物も植えられた木で隠されているわけだから、当然従業員の出入口や警備室の入口も隠されていた。木陰を走って多少は涼しかったけれど、それでもきちんとスーツを着込んでいた島野にとってはなかなか辛いものだった。

 何しろたどり着いたら状況が大きく変わっていたのだから。


「卓様が和真様にちょっかいを出した」

「え?」


 それは島野にとって寝耳に水だった。この辺りのアルファには『菊地和真といオメガに手を出すな』と言う話が伝わっているはずなのに?それに、この一連のプロジェクトに関わっている二階堂卓が知らないわけが無い。


「まぁ、おふざけなのは分かってはいるんだけどな」

「おふざけ……」


 なんだか簡単に言われてしまったけれど、菊地のことを九年間も見守り続けた島野からすれば、おふざけの一言で片付けられてはたまったものではない。


「卓様も匡様がいるのを分かっていてやってるからなぁ」

「匡様は、黙って見ていたんですか?」

「まぁ、なんだ……匡様は、ほら」


 野口が言葉を濁すけれど、島野はよく分かっていた。高校三年間、あの事故以来避けられまくっていたから、どうやって話しかけたらいいのか分からないのだ。 それに、オメガ保護法とかシェルターを菊地のために作ったなんて、恩着せがましく語ったところで伝わるわけが無い。島野もそうだが、今更ながらこの9年間のことをどうやって説明すればいいのかまったくもって分からないのだ。


「分かってます。俺も……同じですから」


 菊地になんて声をかければいいのか、そのことだけを考えていたけれど、未だにその言葉が見つからないのだ。菊地のことを運命の番だと認識しながら手を出さなかったことを褒めて欲しい。なんて、おこがましい妄想なのだ。なぜなら菊地はこのことを何も知らないからだ。自分にオメガ因子があったことも知らなければ、それを勝手にコントロールされていたことも分かっていないのに「ずっとこの時を待っていた」なんて言われても、菊地の事だから軽く流すに決まっている。それがわかっているだけに、一之瀬匡は二の足を踏んでいたのだろう。

 そして、そのせいでトンビが油揚げの状況に陥ったのだろうことは容易に想像がついた。


「和真様の数値が上がってるな」


 防犯カメラのもにたーではなく、パソコンのモニターを見ていた野口がつぶやいた。どうやらシェルター特性のネックガードの数値もリアルタイムで見ることができるらしい。


「数値、見られるんですか?」


 寝ている菊地の首筋に測定器を充てて何度か数値を計った事はあるけれど、それは報告のための測定であり、島野にとっては単なる数字でしか無かった。けれど、今野口の前で動く数字は、紛れもなく菊地のリアルな数値なのだ。知らず島野の喉がなった。


「これだよ。和真様はヒートが始まったみたいだな」


 野口が指さ数値は今まで島野が見た事がないような状態になっていた。防犯カメラに映ってはいないが、菊地は今頃辛い状態なっているのだろう。扉の方を見る一之瀬匡が眉間に皺を寄せ拳を握っているのが見えた。


「ああ、職員の木村がごちゃごちゃやってんなぁ」


 野口は楽しそうにしているけれど、島野は知らず口の中が乾いていた。飲み込む唾も出てこない。


 (菊地くんがヒート?オメガのヒートを起こしている?今から匡様と番われる?)


 島野は椅子に座っているのに、全身から血の気が引いていく錯覚を覚えた。モニター越しながら、匂いもしなければ声も聞こえない。それでも、上昇していく数値と画面の中を慌ただしく動く木村を見れば、何か大変なことが起こっていることぐらいは理解ができた。


「ああ、匡様追い出されちまったなぁ」


 モニターを見て野口がそう口にしたから島野の視線もそのモニターへと移動する。そこには扉に外からしっかりと鍵をかける木村の姿が映っていた。

 

「車は吉高が出すだろうけど、俺はどうするかな」


 野口が独り言のように口にしたけれど、それは島野にも向けられている言葉でもあった。島野は一人でここに来たから、車は関係者用の少し奥まった場所に停めていた。だが、島野が来た時、似たような車は見当たらなかった。


「野口さんは、車、どこに停めていたんですか?」

「ん?ああ、客用の方だよ。館内ぷらぷらして客層を見たりしてたからな。だから、まぁ、今のうちに車出さないとなぁ」


 そんなことを呟きながら時計を見るあたり、丸一日以上は停めているのだろう。


「和真様は一週間は出てこないだろうから、お前もその間に身の回りのもん揃えとけよ」

「…………あ、はい」


 一瞬何を言われたのか理解ができなかったけれど、一拍おいて理解した。島野の新しい職場は住み込みなのだ。マンションのワンフロア全てが一之瀬匡の新居であるのだけれど、つまりそこには使用人たちの居住スペースもあると言うことなのだ。


「昌也、一旦今日中に戻ってこいよ」

「わかりました」


 島野が返事をすると、野口は片手を上げて部屋を出て行った。扉が閉まるのをぼんやりと眺め、島野は色々考えた。駐車場で見た菊地の姿は一週間前と変わりがないようにみえた。もっと近づけば何か違いに気づけたとは思うが、見た感じやつれているとか、辛そうだとか、悲観しているとかそんなマイナスなイメージはなかった。

 それどころか、今まで島野が見知っていた菊地そのものだった。オメガになったなんて言われてもまるでわからないほど、島野のよく知っている菊地だった。


「オメガの、フェロモン」


 目の前にあるパソコンのモニターに目をやれば、菊地のパーソナルデータが見えた。その中で目まぐるしく数値を変えているのはオメガのフェロモンの数値で、ヒートを示す数値になっていた。実際こんな風に見たのは初めてで、心拍数と体温も上がっていた。ベータ女性も排卵日や、妊娠すると体温が上昇すると言う。オメガになった菊地の体にも同じような現象が起きているのだろう。


「菊地くん、が、発情しているん、だ」


 誰もいなくなった部屋で、一人モニターを眺める。固定された画面は菊地のいる部屋のドアを映し続けていた。平日の昼間だからなのか、ドアの前を通ったものはまだいない。


「菊地くん……」


 島野はパソコンのモニターを指でなぞった。そこには菊地のメディカルデータが忙しなく表示されている。


「発情したんだ、菊地くん」


 専門知識がそこまでない島野ではあるが、九年間菊地のデータをこっそり取り続けてきたから、ある程度のことはわかる。菊地のオメガフェロモンの数値が上昇しているから、完全に菊地は発情の状態にいて、心拍数が落ち着いてきたから抑制剤が効いたのだろう。血圧が上がったのは射精したと推測される。そんな数値の変化を眺めながら、島野の脳裏に蘇るのは、あの日の菊地の顔だ。

 最後の仕上げに仕込んだ発情剤は粉で、つまみの唐揚げに塩と一緒にかけたのだ。飲み物ばかりを気にしていた菊地からすれば、完全にだまし討ちにあったと言うわけだ。トイレに立つ直前の菊地は、目元を赤くしてほろ酔いのような見た目になってはいたが、あれは発情が起こる直前の顔だった。アルコールや、参加した女性陣の化粧品や香水の匂いに紛れてわかりにくかったけれど、菊地のうなじのあたりから、島野にもはっきりとわかる甘い香りが立ち上っていたのだ。だから、男子トイレの空調を逆流させてアルファの擬似フェロモンを流したのだ。そのあとは、野口が待機させていた施設の職員が菊地を運び出し、事後処理をした。

 そうして、島野は驚いた顔をして菊地のカバンを手渡したのだった。

 だから今、この状況は島野が待ち望んだ状態で、九年間の集大成であるはずなのに、島野の両目からh涙が溢れていた。


「ごめん……菊地くん、ごめん……辛いよね」

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