第7話


 結局、華世にはなんとも返事が出来ないまま島野の休暇は終わってしまった。一週間は長いようで短かった。華世は毎日島野を誘い、ドライブと称してあちこち出かけてくれた。三年間通った高校に、四年間通った大学。初めてアルバイトをした市民プール、アルバイト代で行ったスキー場。夜に家に帰って、その思い出の場所で撮った菊地の写真を眺めた。短いながらも動画もあって、当時の菊地の声が聞こえた時、島野はようやく自分の中の喪失感に気がついた。明日からは新しい職場で仕事が始まる。もちろんそこに菊地和真はいない。

 そもそも自分の役目はなんだったのか考えれば、ベータである菊地和真が誰にも傷つけられることなく、安全にオメガ化する事を見守ることだった。

 約九年かけてそのミッションが終了し、島野には新しい役割が一之瀬家から与えられる。菊地と一緒に就職した会社は、ベータしかいない一之瀬グループの子会社だった。教授の顔を立てて面接に行ったことになっていたが、そもそもその教授だって一之瀬グループから支援金を得て研究していたのだ。何もかもが仕組まれていて、けれど菊地は何も知らなくて、島野はその笑顔を守るために必死の九年間だったのだ。

 今更ながらに燃え尽き症候群のようになってしまい、島野は書斎のパソコンの前で突っ伏した。


「……菊地くん、ごめん」


 素直で従順な菊地の事だから、特に抵抗なく施設で過ごしていることだろう。だが、島野が自分を騙し裏切ったことを知れば、きっと軽蔑の眼差しを向けてくるに違いない。一之瀬匡の運命の番であるから、一之瀬家に仕える自分と、いづれどこかで出会ってしまうだろう。その時、自分はどんな顔をすればいいのだろうか。


「おい、愚息」


 何か軽いものが頭に当たって、聞き覚えのある父親の声がした。視線を上に向ければ、茶封筒を手にした父親が立っていた。


「愚息は無いだろ」


 ゆっくりと頭をあげて、目の前に出された茶封筒を受け取った。


「愚息だろ。あんな素敵なお嬢さん、返事をしないだなんて生意気な」

「あのなぁ、ぶっちゃけ高校の同級生だよ?しかもアルファだよ?」

「そのくらい知っている。なにが不満なんだ贅沢な。あのお嬢さん、匡様に捧げているからお前がベータであっても構わない。と言ってくれたんだぞ」

「は?え?……えっ?」


 なんだって、そんな話をあけすけに話すんだろう?理解が追いつかなくて島野は何度も瞬きを繰り返した。


「あのなぁ、アルファのお嬢さんがベータに組み敷かれるなんて屈辱以外の何物でもないんだ。それを、既に匡様に捧げているからベータのお前でも気にしない。って言ってくれたんだぞ。何贅沢言ってるんだお前は」


 脳天を殴られたぐらいの衝撃だった。そんなことを年頃の華世が言うだなんて思ってもみなかった。いや確かに、菊池くんには内緒。と言われはしたけれど。そこもここに繋がるなんて、島野は思ってもいなかったのだ。


「いや、贅沢は言ってない。匡様との事は前から知ってるから驚きはしない。菊地くんには内緒にするよう頼まれてるから……って、見合いの時に言う話?それって普通?」

「それが普通かどうかは俺にも判断しかねるが、アルファはプライドも高いから、自己申告してくれたんじゃないのか?ありがたいことじゃないか」

「そもそもなんで俺?匡様の為に働きたいのなら普通に匡様の会社に就職すればいいじゃん」

「匡様の会社に就職しても、匡様のおそばでは働けない。そのくらいわかるだろう?」

「じゃあさ、匡様、その一之瀬家に仕える家は他にもあるんだから、そっちにアピールしても良かったんじゃないの?」

「分かってないなお前は、だから愚息なんだ」


 父親がため息混じりにそんなことを言うから、島野は思わずムッとした。


「いいか、よく聞け。菊地和真に関する一連の出来事は、全て匡様の指示の元進められた。分かるか?若干十六歳の高校生が指揮を執って法整備をし、受け皿となる施設や職員の育成まで行ったんだぞ。それを間近で見ていれば信奉してしまうだろう。贅沢を言えばその先を見たいと願ってしまうものだ」

「だからなんで俺?」


 結局のところ、その疑問が解消されない。


「それはな、お前が一番匡様に近いところにいるからだ」

「なんで?俺はもう……」


 力なく首を左右に振る島野に、父親は茶封筒の中を見ろと急かした。仕方なく島野は茶封筒を開けて中を見る。指示書と書かれた見出しの下に、明日から島野昌也が赴く場所が書かれていた。


「は?えっ、なんで?」


 それを読んで思わず大きな声が出た。


「愚息よ。お前は匡様に仕えるために生まれてきたんだ。それが嫌ならこの家を出ていくしかないんだよ」

「嫌なわけなんかない。そばにいていいのなら、ずっといる。一生守らせてください」


 任を解かれたと思っていたから、次はどこに行くのだろうと思っていた。それなのにまた、そばにいていいと言うのだ。


「護衛だからな」

「分かってます。見つからないように務めます」


 書類を抱きしめ、島野は何度も頷いたのだった。そうして書類に書かれた場所にその日のうちに向かえば、見知った顔が待っていた。


「島野昌也です」


 名前を名乗り頭を下げれば、目の前の人物は目を細めて笑顔を見せた。


「匡様付きの秘書の田中です。こちらは匡様が奥様と住まわれる為に用意したマンションになります。昌也、あなたの任務は奥様の護衛です。心して仕えるように」

「もちろんです」


 深深と頭を下げた。だがしかし、あまりにも静かすぎて、島野はゆっくりと頭を上げながら辺りの様子を伺った。


「匡様はまだお戻りにはなっていません。それから、奥様はまだ施設の方にいらっしゃいます」

「はい、存じております」

「場所も?」

「はい」

「……ならこれを」


 そう言って田中が茶封筒を渡してきた。それを受け取り中を確認する。島野がこれから護衛を担当する奥様、つまるところ菊地和真についてのことが書かれているのかと思えば、その欄は『割愛』とだけ書かれ、今いるシェルターの場所と担当職員の名前が書かれていた。


「シェルターに隣接するショッピングモールの警備室のモニターで、シェルターの監視カメラの映像が観られます。パスワードは業務端末にメールで送ります」

「はい」

「どうぞ」

「は?」

「行きたかったら、今からでも行ってもらっていいんですよ?」

「今、から?」


 時計を見れば既に22時を回っていた。ショッピングモールは既に閉館している時刻だ。


「警備室は24時間開いていますから気にしないように……大切な奥様の護衛なんです。遠慮はいりません」

「わかりました」


 島野のはもう一度頭を下げると、控え室にある自分の机の引き出しにし茶封筒をしまった。もちろん鍵をかけるのは忘れない。時刻は22時をとうに過ぎてはいるが、護衛対象を確認するため、いや、島野の記憶だともうこの時間に菊地は寝ている。だから場所の確認だけでも、早急に行おうと思い目的地へと向かうのだった。

 島野にしては、できるだけ冷静に動いているつもりであったが、田中から見ればあまりにも丸わかりすぎて笑いを堪えるのがだいぶ辛そうではあった。


「失礼します」


 茶封筒の中に入館証が入っていたので、目的地についてから首から下げた。さすがにこの時間ともなれば来客用の駐車場は閉じられていて、唯一開いているゲートは警備室脇だけとなっていた。もちろん、その向こうにコテージがみえるのだが、そこの駐車場に見知った車は停まってはいなかった。


「……あ、ああ」


 警備室にいた制服姿の警備員が島野を見て驚きのあまり立ち上がった。一応はスーツを着ているから、外部の職員か何かかと思われたらしい。だが、島野の名札を見て直ぐに奥の扉を案内してくれた。どうやら名札のラインの色が重要らしかった。


 (閉館後に警備室に来るやつなんて滅多に居ないんだろうな)


 閉館後であっても防犯カメラは稼働しているから、モニターには無人のショッピングモールの館内が映し出されていた。出店している店の殆どは閉店作業を終えて従業員も帰宅しているようだった。作業している従業員がいるのはほとんどが飲食店のようで、概ね仕込み作業をしているのだろう。

 島野はそのモニターが並ぶ部屋からさらに置くの部屋へと移動した。扉についている電子キーは田中から送られてきたメールに解除番号が書かれており、それを確認して扉を開ける。


「よく来たな」


 無人だと思っていた部屋には先客がいた。もちろん、知らない人物では無い。島野と同じように一之瀬家に仕える護衛担当をしている野口だった。


「はい。島野昌也です。匡様の奥様菊地和真様の護衛を仰せつかりました」


 時間帯と場所を考慮して若干小さめの声で挨拶をする。場所柄防音は効いているだろうけれど、この狭い部屋で元気いっぱい挨拶するにはさすがに島野もそこまで若くはなかった。


「ゆっくり休めたかい?」

「はい」


 そんなことを言ってくるあたり、野口は全て知っているのだろう。もちろん、島野がずっと上げていた報告書も目を通していたに違いない。


「俺が一応リーダーになるんだが……」


 そう言いながら野口はモニターの表示を切り替える。


「シェルターで和真様の担当をしている職員はこいつ木村って言うんだ」

「木村……」


 こんな時間まで仕事をしているとはなかなか大変だろうとは思うが、シェルターの機能面から考えれば職員もシェルター内に住み込みで働いているのだろう。


「和真様が入られてから一週間はずっと引っ付いていたんだけどな」

「一週間……」


 ちょうど自分が休んでいた期間である。


「まぁ、慣れるまではサポートって事になってはいるんだ。ここの職員は和真様の事情は知らされているからなぁ」


 そう言いながら野口は自分の顎を撫でた。何やら思うところがあるらしい。


「なんにしても和真様はもう寝てるけどな」

「知ってます。22時までには布団に入りますから」


 九年間で知り得た情報は限りない。好きな物嫌いな物苦手な物、部屋着に高校時代の体操着を着用していることだって知っている。


「うん、和真様の護衛にお前以上の適任者はいないだろうな」


 そう言いながら野口はの隣の席を島野に勧めてきた。だから挨拶をしてそっと椅子に座る。


「職員が作った報告書はここで見ることができる。一応シェルターの職員は国家公務員で、全国のシェルターの情報を閲覧するには所轄の官庁に行かなくちゃならないんだが、担当している名家の関係者ならパスワードを入れればここで見ることができる」

「つまりここはウチと二階堂家ということですね」

「分かってるじゃないか」

「壁の色、ですよね」

「当たりだ」


 華世と来た時はあえて口にしなかったが、関係者ならすぐに分かることだった。ショッピングモールの壁面がツートンカラーに塗られているのだ。シェルターとショッピングモールが建てられた経緯を知っていれば、その色の持つ意味を知っていて当たり前の事だった。


「パスワードは知ってるよな?」

「はい。田中さんから」

「ならいい」


 野口はそう言ってペットボトルのコーヒーを飲んだ。多分安全面を考慮して、蓋のついた飲み物が推奨されるのだろう。それを見ながら島野は田中から教えられたパスワードを入れて木村が上げた報告書を読んだ。シェルターに運び込まれてからの菊地の詳細が書かれている。もちろんメディカルデータも合わせて確認した。

 間違いなく菊地はオメガになっていて、一之瀬匡と遭遇してフェロモンの値を上げていた。その後は穏やかに過ごしているようなので、概ね問題は無いのだろう。


「和真様の専属はお前だけだからな」

「え?」


 島野は驚いて野口を見た。


「聞いてないのか?俺たちは一之瀬匡様和真様の護衛のチームなんだよ。運転手だったり秘書だったりするだろ?お前は基本和真様の護衛、田中は元々秘書、高橋は運転手で吉高も秘書兼任だからからな」

「は、あ」


 言われてようやく理解した。リーダーである野口は一之瀬匡の護衛なのだ。チーム内で色々と役割があって、新入りの島野が菊地の護衛担当という訳だ。もちろん、場合によっては運転手をすることもあるのだろう。しかしながら、専属と言うと顔を見せることになる。挨拶だってすることになるだろうから、その時菊地は島野のことをどんな目で見るだろうか?聞かれたら、正直に全て話す覚悟はあるのだ。


「って、本当に出てきちゃったよ」


 仮眠を取ってモニターを見てみれば、菊地は一人でシェルター内を歩き回っていた。案外怖いもの知らずなところがあるので、興味を持つとそのまま行動に移してしまうのだ。そんな菊地をずっと見続けてきた島野からすれば、菊地が何かやらかしそうでヒヤヒヤするのだ。

 菊地は何故かシェルターの敷地から出て、コテージの駐車場に来ていた。何かブツブツ呟いているようだが、離れたところで菊地を見守る島野の耳には届かない。おそらく停められている車について感想を述べているのだろう。免許証を持っていない菊地ではあるが、そこそこ車には興味があるらしく、それなりに知識は持っていた。ただ本当に話題になった車とか目立つ車しか覚えていないのも確かなので、いわゆる大衆車に対しては漠然とした知識しかないのが可愛いところでもある。


「もう、シェルターから直接コテージに続く道があるのに」


 島野から見れば、駐車場内をフラフラ歩く菊地が危なっかしくて仕方がなかった。しかしながら、いくら護衛とはいえ、まだ何も起こっていないのに前に出るわけには行かないのだ。とりあえず静観するしかないため、島野は物陰から菊地のことを見守った。

 が、予想通りと言えばいいのか、トラブルはあちらの方からやってきてくれたらしい。島野は気づいていたのだが、やはり菊地は気づいていなかったようで、運転手が乗っている車の後ろで立ち止まってしまった。もちろん車輪止めがあるからそれは安全ではあるのだけれど、コテージに車でやってくるのはアルファである。そうなれば、必然的に相手のオメガがいるわけで、駐車場を待ち合わせの場所に使う可能性はそれなりにある。


「ああ、やっぱり」


 島野の予想通りにトラブルが菊地の方へと近づいてしまった。昨日まで職員の木村と共に行動していたから、菊地はシェルターにいる他のオメガと面識など無いのだろう。平日なら仕事や学校に行っていることの方が多いだろうから、あちらも菊地のことは知らないはずだ。

 よく聞き取れないけれど、菊地より後にシェルターからでてきたオメガは、菊地のことをバカにしているようだった。オメガらしい少し高い声が島野の耳には耳障りだった。監視カメラは声までは拾わないので、映像はそのまま保存されるからよしとしよう。しかし、音声はどうにもならない。

 そうこうしているうちに、車から降りてきたアルファが菊地の腕を掴んでしまった。だがしかし、どのタイミングで止めに入ればいいのか島野にはまだ判断がつかなかった。暴力を振るわれそうな雰囲気では無いし、顔は近いがアルファの方は比較的穏やかな声を出している。


『昌也、相手がわかった』

「はい」


 インカムから野口の声がした。どうやら駐車場の監視カメラの映像から菊地に対峙しているアルファの素性が判明したらしい。オメガの方はシェルターに在籍している時点で把握済みなため、特に問題視はしていなかったようだ。


『こちらから連絡を入れるから、昌也はそのままで』

「了解しました」


 菊地と短いやり取りをしたと思ったら、アルファがオメガのことを車に押し込んで去ってしまった。もちろん後に残された菊地は一人駐車場に立ってはいるのだが、そのままという指示が出されたため島野は離れた場所から菊地を見守る。

 菊地は何を考えているのか、走り去った車の方をのんびりと眺めていた。おそらく相手の名前も聞いてはいないだろう。誰もいない駐車場で一人佇む菊地を見て、島野は一人やきもきするのだった。


「あ、動いた」


 実際は大した時間ではなかったのだが、島野の体感ではものすごい時間がかかったように思えた。ようやく動き出した菊地は、目的地でもあるコテージの中に入っていった。本来ならものの一分程度でつく距離なのに、なんと時間のかかったことか。島野は物陰から出て、ゆっくりと菊地が入っていったコテージに近づいた。

 自動ドアが磨りガラスのため中の様子は伺えないが、どうやら菊地はちゃんと入れたようだ。


『昌也、中には吉高がいるから戻ってこい』

「はい」


 コテージには登録されたアルファしか入れないから、島野はここまでということらしかった。

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