第5話


 公にはしてはいないけれど、島野昌也が一之瀬家に使えていることは一部の教職員には周知されていた。だから島野が菊地と一緒に二年生からE組になったところで勘ぐってくるようなことはされなかった。


「俺さ、親の仕事の関係でE組に行かなくちゃならなくなったんだ」

「へぇ、なんかすごいね」


 目を瞬かせて菊地が言ってくるから、島野は若干の罪悪感を持ちつつも、嘘は言っていないのだと自分に言い聞かせた。実際E組には言わずと知れた名家三ノ輪家のオメガである由希斗がいて、菊地に優しく接している。その三ノ輪と親しげ?に話をしているから、周りは島野は三ノ輪の関係でE組に移ったのだと誤解してくれた。


「二人が来てくれて僕としては嬉しい限りだよ。菊地くん島野くん」


 始業式の最中に三ノ輪は、二人になんの躊躇いもなく抱きついてきた。オメガの生徒が多いE組は、この手の行事の時は体育館の後ろの方に集められている。しかも並んでなんかいなかった。アルファのフェロモンが苦手な生徒もいるため、扉近くに集団でいるだけだ。


「三ノ輪くん、結構力あるんだね」

「そりゃあ、変なアルファに押し倒されたら大変だから、護身術ぐらい習ってるんだよ」

「すごいなぁ、俺運動は学校の体育ぐらいだよ」


 菊地はそんなことを言いながら、三ノ輪の腕を触らせてもらっていた。実際三ノ輪が習っているのは合気道で、名家のオメガは大抵習っているものだった。華道や茶道、舞踊などと一緒に習うから、名家のオメガは誰もが姿勢正しく美しい立ち姿をしていた。


「うっ、三ノ輪くんの方が腕が太い」


 何故か突然袖をまくって二人で腕の太さを比べていた。そんな些細な戯れさえ、一之瀬匡にとっては羨ましいことになる。だからもちろん島野はコレを録画しているし、三ノ輪は分かってやっているのだ。だから島野がポケットから少し覗かせているスマホのカメラに向かってわざとらしい笑顔を向ける。島野はそれを少し引きつった笑顔で見るだけだった。


「やっぱり綺麗に撮れてるなぁ」


 部活動をしていなくて、委員会活動もしていなければ、高校生の放課後は『暇』の一言でかたずいてしまう。だからといってアルバイトをしたいとか、そんなことを菊地が思わなくてよかった。心底そう思うのだ。もっとも、放課後は島野の守備範囲外だから、万が一菊地がアルバイトをしたとしても島野が同じ店でアルバイトをすることはない。きっと、父親の部下とか言う人たちがするのだろう。母親は、一之瀬家のお手伝いさんなんて言っているけれど、実は高校近くのスーパーで働いているのを知っている。そのスーパーは一之瀬家の系列店だ。つまり何かしらの調査をしているのだろう。島野家の経理担当の母親が、書斎のパソコンを使って忙しそうに報告書を作成していたからだ。

 つまりは、島野と向かい合わせでパソコンのモニターを見つめていると言うわけだ。母親は島野と違い、ボイスレコーダーをしきりに聞き返している。


「ああ、ここだわ」


 ボイスレコーダーの時間を確認して、そこの音声を貼り付けているらしかった。文字に起こすだけではなく、音声も添付するのは、その声色にどのような感情が隠されているのかを確認するためだ。何度も繰り返し聞こえてくる女性の声は、好奇心と嘲りが混じり合ったような、他人事だからどうでもいいけど結末は知りたい。そんな感情を感じてしまった。


「なによその顔」


 ふと顔を上げた母親に言われてしまった。


「世間はこんなもんよ。ベータのコミュニティにアルファが来れば擦り寄るけれど、オメガが来れば見下すのよ」

「オメガよりベータの方が優秀だってこと?」

「大多数のベータがそう思っていることは確かね。接点がないから聞きかじった知識だけで判断してるのよ。オメガに発情期があると言うだけで見下してるのよ。ほんとバカよね。ベータなんて年中発情期じゃない」

「年中発情期」


 それを聞いて島野は思わず今はいない父親の席を見た。書斎において、父親の席はすなわち上司の席なのだが、今はなんだかちょっと違う目を向けてしまう。


「なに言ってるのよ。ベータは年中発情期だからあんたが生まれたんでしょ」

「あ、うん」


 一之瀬匡と島野昌也が同い年なのは偶然ではなく必然として処理された結果に過ぎない。島野の父親と母親が仕える一之瀬蘇芳が運命の番と見事番った時、島野の父親と母親も席を入れたのだ。そうして一之瀬蘇芳の番陽葵ひなたに妊娠の兆候が現れた時、島野の母親は見事昌也を妊娠したのである。それはまさしくベータが年中発情期であることの証明でもあった。


「月並みなことだけど、人生をかけて仕える人がいるなんて幸せなことよ」

「…………」

「まだ昌也には難しいことだろうけど、世界が変わることに立ち会えるのよ」

「世界が変わる?」

「そうよ、匡様は世界を変える偉業を成し遂げるの。私たちはそれを支える立場にいるわ」

「…………」

「まだ教えられないけれど、この国の常識が変わるのよ」

「うん、わかった」


 この時はまだ漠然とした話として聞いていたけれど、島野は後の修学旅行で三ノ輪にあっさりと内容を教えられてしまった。一之瀬匡は運命の番を手に入れるためにオメガを守るための法律、オメガ保護法を作っているのだ、と。

 しかしながら、そんな重大なことを知ったところで島野がすることに変わりはなかった。朝は五時に起きて私鉄とバスを乗り継ぎ、バスでは途中で乗り込む菊地と合流してそこから監視兼護衛が始まって、高校にいる間はずっと一緒に過ごす。E組は通称オメガクラスなんて言われているけれど、これは単にA組に優秀なアルファが多いから、危険回避のために学校がオメガの生徒を成績順を無視して集めただけだ。発情期の関係で授業を欠席するけれど、実際接してみれば、オメガの生徒たちは覚えがよかった。中学あたりから始まった発情期のせいで、授業の遅れを取り戻すために集中して勉強をすることに慣れているのだろう。

 だからその分、E組にいるベータの生徒のダメっぷりが目立ってしまうのだ。もともと成績順にクラスが割り振られているのだ。ベータで成績が下位のものがこのE組にいることになる。つまり、オメガと言うだけでこのE組にいる生徒の方が成績が優秀だったりするわけだ。もちろんそれは三ノ輪にも当てはまることであるから、E組にいるベータの生徒は『オメガのくせに」なんて間違っても口にできないのである。

 そんな中、アルファのフェロモンを嗅ぐと気分が悪くなる菊地と、家庭の事情でとあるオメガの護衛をしなくてはならない島野がE組に在籍することにより、E組の平均点が爆上がりしたのだ。もともとはA組に在籍していた二人である。テストの順位が張り出されれば、しっかりと上位に名前があるのである。


「菊地くん、さっきの授業のとこなんだけど」


 そう言って菊地に声をかけててきたのは同じクラスのベータの女子生徒だ。A組にいたままの菊地には声なんてかけられなかっただろうけど、同じ教室にいるからこそ平然と声をかけてくるのだ。A組にいたのでは優秀なアルファに隠れて気づかなかっただろうけど、頭が良くて優しくて、中肉中背の体格は悪くない。顔立ちはアルファの中にいたら平凡に見えただろうけれど、公務員の両親の元真面目に育ちました。と言うのがにじみ出る誠実そうな顔立ちをしているのだ。


「さっきの授業?どこかな?」


 真面目で優しい菊地は嫌な顔一つせずに言われた箇所を丁寧に解説している。一応は県内有数の進学校であるから、勉強が本気でわからない。なんてレベルの生徒はいないのだ。ただ、学年が上がるごとに高度になっていく授業内容についていけない時があるのだ。


「ここのところなんだけど、どうしてこの公式になったの?」


 可愛らしく前髪をヘアピンで留めておでこを出している。教科書とシャーペン片手に菊地のことを小首を傾げて見つめる様はなんとも可愛らしかった。


「俺だって成績上位者なのに」


 島野が席に座ったままそんなことをつぶやくと、背後から声がして、そのまま机に潰された。


「じゃあ、僕に勉強教えてよ」


 背後から島野を潰したのは三ノ輪で、殆どの生徒は島野の護衛対象のオメガだと思っている。それが原因で誰も島野に声をかけてこないのだけれど、だからこそ、三ノ輪はわざとやっているのだ。


「え、っと、由希斗様は分かってますよね?」

「えぇ、僕もなんでこの公式が当てはまるのかわかんないなぁ」


 しまい忘れた島野の教科書をを開いて、先程の授業にでてきた例題を指さした。そこには島野が当てはめるべき公式を書き込んであった。さっき習ったばかりだから、教えろというのなら教えられなくはない。なんなら、誰かに教えることで更に強固に自分の記憶になるものだ。


「由希斗様、ちゃんとノートを取ってないんでしょう?」


 目の前に出てきた三ノ輪のノートには、例題の公式は書かれていたけれど、当てはめる公式とその解説が書かれていなかった。その下に書かれた問題はちゃんと解かれていると言うのに。


「そ、だから写させてね」

「問題が解けているのに?本当はわかってるんでしょ?」

「もう、意地悪言わないでよ」


 三ノ輪は島野に乗っかったまま、ノートを写しだした。そんな体勢をしたところで別に重たいとは思わないのだけれど、島野はちゃんと分かっていた。これは三ノ輪の小さな嫌がらせなのだ。なぜなら、島野の制服の胸ポケットにはスマホが入っていて、絶賛録画中なのだ。

 しかも、夏休みからその録画はそのまま一之瀬匡のパソコンに飛ばされるようになった。つまりこうやって島野の体が机に押しつぶされていると、胸ポケットに入れられたスマホのカメラは、機能として死んでいる状態になるのだ。


「島野くんは優しいなぁ」


 そう言って三ノ輪が島野の上からどいた時、既に菊地のそばに女子生徒はいなかった。困ったような顔をして、菊地が島野に近づいてくる。


「やっぱり島野くんも教科書に書き込んでる」


 嬉しそうに教科書を指さして言ってくるものだから、島野は何とか体を起こしてその笑顔を録画するのだった。ただ、それが上手く撮れているかどうかは島野には分からないのだけれど。

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