第4話
母親の読み通り、菊地和真は夏休みにアルバイトをした。しかも市民プールの監視と言う地味なものだ。時給はほぼ最低賃金で、保護者の同意がないといけないため近年はバイトの応募が少ないらしい。市民プールにしては珍しいウォータースライダーがあり、市営だから入場料も安いので人気はある。やることはほとんど掃除だ。市営だから1時間ごとに休憩時間があり、その度にプールの中に落し物がないか潜って探したり、プールサイドに水を撒いたり、設置されたゴミ箱のゴミ袋を取り替える。
水着の上に日焼け防止のパーカーを着ている菊地の姿を撮影するために、島野は首からスマホをぶら下げて、カメラのレンズが前を向くように心がけた。露骨に貼り付けるのは良くないので、自分の来ているパーカーの内側に固定できるよう母親に細工してもらった。さすがにプールの中に入る時はパーカーを脱ぐから、スマホの安全は守られる。ただ、水着姿の菊地を撮影することは出来ない。
雇い主で依頼人である一之瀬匡は、菊地の水着姿を見たがる癖に、隠せとか、矛盾したことを言ってくるので頭が痛い。ただ、菊地は恥ずかしがり屋なのか、滅多にプールに入らないので、更衣室で、ほとんど盗撮まがいのことをしている自分を嫌悪してしまう島野であった。
「プールのバイト代は俺のものでいいの?」
振り込まれたバイト代を父親に見せた時、高校生にしてはなかなかな金額になっていたことに驚いた。夏休み中の短期ということもあり、休みはなかった。台風が直撃した日だけは休みだったけど、それ以外は全部バイトに出たから、なかなかいい金額になったのだ。
「そりゃあそうだろ?お前が働いたんだから」
父親は笑いながらそう言ったけれど、振り込まれた金額は渡された明細と良く、確認されていた。一之瀬家から小遣いと言う名目で支払われるお金もあるため、島野家では確定申告をしているらしかった。もっとも、そういうことをしているのは母親なので、菊地和真の監視で必要なものを買った場合はちゃんとレシートを持ってくるよう言われてしまった。分かりやすく言えば、島野家は一之瀬家専属のシークレットサービスの会社ということになる。だから社長が父親で、母親は経理、島野は見習い社員ということになるのだろう。
「報告業務などの事務処理はちゃんとこの部屋でするんだぞ」
どうやっても島野より帰宅時間の遅い父親は、島野が行う業務報告を出先で受け取って、それを普通に一之瀬蘇芳、すなわち一之瀬グループの代表社長に提出しているのだ。よく分からないが、父親は警備室に机があるそうだ。
「はい」
「高校生だから、突然友だちが遊びに来ることはないとは思うが、一之瀬家のこともある。お仕えしている先にご迷惑をかけてはならないと言うことを忘れるなよ」
「はい。わかりました」
要約すれば個人情報などがあるから、仕事の資料はこの部屋から基本出すな。ということらしい。
「成績は何とかなりそうだな」
二学期の成績表を見て父親が安堵の表情を見せた。これなら何とか一之瀬匡と同じA組で上がれるだろうということらしいが、島野はとあることを耳にしていたので早めに報告することにした。
「それなんだけどさぁ」
「なんだ?」
島野の成績表にはもう興味がなかったらしく、父親はモニターを見ていた。
「菊地くんね、クラス編成について学校に特別申請してるみたいなんだ」
「特別申請?」
「教室の席の位置も、匡様から離れるようにしてもらってるじゃん?」
「ああ」
「どうも来年はE組に希望を出してるみたいなんだよね」
「……誰に聞いた?」
「二者面談するじゃん。そんの時に立ち聞きした」
所詮は県立高校だ。二者面談や三者面談の際、次の番の生徒は廊下で待っているのが普通で、壁に背中をつけて頑張れば、教室内の会話が聞こえてしまうのだ。もちろん、菊地の次は島野ではなくて小林で、その次に酒巻がいるわけだから、島野がずいぷんと早く廊下に来ていることを小林は不審な目で見ていたものだ。だからといってベランダに行くことも出来ないので、A組が階段のすぐ脇にあることを生かして、階段から少しだけ顔を出して様子を伺っていたのだ。
だから、女子の小林からすれば島野は大変な不審者であったわけだ。島野は別に小林のスカートの中を覗こうとしていたわけではないのだけれど、階段から顔を出す様子はだいぶ怪しかったのだから仕方がないことだった。
「さすがに親のいる三者面談で立ち聞きは出来ないからさぁ」
「なるほど、よくやった。匡様に確認するまでもない。昌也、お前は菊地和真を監視しなくちゃならないんだからな。お前もE組への希望を出すんだ」
「もう出してる。二者面談で伝えてあるから。三学期の三者面談で確認されると思うよ」
「昌也、二者面談があったのは十月だったと思うんだがな」
「うん、忘れてた」
「報告は漏れのないよう正確に」
「はい」
そう返事をしてから、島野は引き出しから素早く紙を取りだし父親の前に出した。
「これ、これ行っていいよね?日帰りスキーツアー」
「…………いつ、行くんだ?」
「冬休み。菊地くんと一緒に」
「……それは許可するしかない話だよなぁ」
「でしょお、夏休みにやったプールのバイト代で行くんだ」
「そういう事か、なら全面的に許可だな」
「スキー場だから、匡様がいても気づかないと思うんだけど」
「クリスマスパーティーがあるからなぁ……でも匡様は行かれるだろうな」
父親がガックリと肩を落とすのが分かって島野は少し笑ってしまった。父親は一之瀬蘇芳の護衛であるのだが、最近蘇芳様は息子の行事に参加するのが面白いらしい。主な理由は息子の運命の番かもしれない菊地和真を見るためだ。
「この報告、蘇芳様にするのは俺なんだよな……スキーツアーか、スキー場寒いよな」
痛いのや熱いのは耐性をつけるために訓練をしているはずなのに、何故か父親は寒いのが苦手らしい。別にスキーが出来ない訳では無いらしく、護衛のために動かないでいる時が寒くて仕方がないそうだ。まぁ、そんなことは島野には全く関係のないことた。なぜなら島野は監視対象の菊地和真と一緒に楽しくスキーをするのだから。
スキーツアーの行き先が近県であるため、バスの出発時刻は下り電車の始発とさほど変わらなかった。ただ、都内のバスターミナルが出発場所でなかったため、島野はついに菊地の家に泊まることになった。
それを報告した途端、一之瀬匡から電話がかかってきた。それはもう早かった。島野からの業務報告を速読てもしたのか?と思えるほどの勢いで、まさに送信してものの一分もかかってなどいなかった。
「はい。昌也です」
そう言って出てみるものの、相手は無言だった。登録しているから、確実に一之瀬匡からかかってきているはずだ。
「あの……匡様?」
とりあえずお伺いを立ててみれば、溜息にも似た息遣いが聞こえてきた。報告書を読んで何か言ってやらねば。と思ったものの、実際なんと言えばいいのか分からないのだろう。まだ番では無い。まだオメガでもない。特に親しいわけでもないクラスメイトのベータ男子だ。
「……に、入る……」
「はい?匡様、お声が遠くて聞き取れません」
まさかこんなことを言う日が高校生の今だなんて、島野は思ってもいなかった。
「パンフレットをみた」
「はい」
「施設に、温泉が併設されているな」
「はい。菊地くんが楽しみにしています」
「…………なっ……」
向こうから、濁音のようななんだか掠れた声が聞こえるのだが、やはり聞き取れない。もう一度同じことを言ってもいいものか、島野は悩んだ。何しろ相手は御年寄ではなく、電波状態の悪い地域に住んでいる訳でもない。どう考えても電波状況ではなく、相手の脳波の状況なのだが、とてもじゃないけどそんなことを口にする勇気はなかった。
「スキー場ですから、匡様がいらしてもバレないと思いますよ」
「そ、そうだな。父上にバレないように……」
「あ、それは無理です。俺の父親から報告が上がってますから」
「なんだと……いや、そうか、そうだったな」
一之瀬匡は何やら一人で納得をしているようで、島野に対して何かを発しているようでは無さそうだ。それならかけてこなければいいのに。なんて思ってしまったが、島野は律儀に耐えた。
「うっんっ」
突然大きな声がしたので、島野は思わずスマホを耳から遠ざけた。どうやら一之瀬匡が何かを思いついたらしい。
「その、だな……泊まるのだろう?」
「……、あ、はい。菊地くんの家からバスの停車場まで近いので」
「それなら、ちゃんと録画するんだぞ」
「……え?あ、はぁ…………え?何をです?」
一之瀬匡の言うことが全く見えなくて、島野は思わず聞き返してしまった。
「っうん、決まってるだろう。寝顔、だ」
「寝顔……ですか」
島野は少し悩んで返事をした。寝顔を録画するなんて、ちょっとやばい。いや、ちょっとでは無いかもしれない。完全な盗撮だ。でも、まぁ、録画なら気づかれにくいから大丈夫だと思ってしまう自分がいた。写真なんか撮ろうものなら、うっかりシャッター音がしたり、うっかりフラッシュをたいてしまうかもしれない。もちろん、そんなことをしたら寝ている菊地が起きてしまうに違いない。
「わかりました。ナイトモードで撮影してみます」
そんな返事をしてみたものの、島野の使っているスマホは、確か毎年秋口に新型が発売されていたはずだ。今年発売された機種からものすごくナイトモードの撮影が鮮明になっていた。これはもはや必要経費として機種変更をするべきではないだろうか?
島野のは頭の中で新機種の値段を考えていた。確か最上位モデルを買うと大学卒の初任給に匹敵していたと思う。だがしかし、他ならぬ一之瀬匡様の願いを叶えるためなのだ。最高画質で録画しなくては失礼に当たるではないか。いや違う。最高画質で録画しなくてはミッション失敗になってしまう。そう思うともう島野はいても立ってもいられなかった。
一之瀬匡との通話が終わるや否や、島野は書斎を飛び出した。まだ父親は帰ってきていないから、この手の交渉は母親にするしかないだろう。
「母さん、母さんいる?」
いや、いることは分かってる。わかっているのだが、家の中のどこにいるのか聞いているのだ。
「何よもう、騒々しいわね」
探すまでもなく母親は台所にいた。夕飯の支度をしながらテレビを見ているのだ。好きな俳優がキャスターを始めたからと言って、春からずっと夕方はこのニュース番組を見ている。島野の声でキャスターの声が聞こえにくいのか、人差し指を口に当てられてしまった。
ここは機嫌を損ねるわけにはいかないので、素直に口を閉じた。そうしてニュース原稿を読み終わるのを待ち、画面がCMに切り替わったところで島野は口を開いた。
「あのね母さん、スマホ買い換えて」
「何よ。春に新しくしたばかりじゃないの」
「ダメなんだ。匡様の依頼をこなすのにこのスマホじゃなくて無理なんだよ」
「匡様の依頼?何よそれ、今更じゃないの」
「冬休みに菊地くんとスキーに行くだろ?」
「そうね」
「その時菊地くんちに泊まるじゃん」
「そうだったわね」
「匡様が菊地くんの寝顔を録画しろって言うんだ」
ここまで話したところでCMタイムが終わってしまった。母親は胡散臭いという顔をしながらも、もうテレビ画面に顔を向けている。お仕えしている一之瀬家のご子息からの以来の内容よりも、お気に入りの俳優の方が重要らしい。
「わかるわぁその気持ち」
母親はテレビ画面を見ながら話をする。
「好きな子の寝顔なら何時間でも見てられるわよぉ。寝言なんか言ってくれたら最高じゃない。それはいいスマホで録画しなくちゃ匡様に失礼だわ。運命の番の初めての寝顔が鮮明に録画されていないだなんてダメよ」
「う、うん」
「お父さんに言って明日の放課後直ぐに機種変更よ。これはもう必要経費だわ」
「うん、わかった」
島野がそう返事をして、父親には許可が降りたからと説明しよう。と意気込んで振り返ると、いつからいたのか台所の入口に父親が立っていた。
島野と目が合うと、父親は黙って頷いてくれた。どうやら全てを察しての無言らしい。手招きをされたのでそのまま書斎に戻り、明日の夕方機種変更をする予約が取れた。
おかげで島野は最新機種を使い高画質でナイトモードを駆使して菊地の寝顔を録画することが出来た。さすがにスキー場に併設された温泉では録画することはしなかった。なぜだかよく分からないけれど、菊地と島野が温泉施設に入っていくと誰もいなかったからだ。まるで貸切のようだったけれど、帰り際ツアーバスに乗り込む際、しっかりと父親の姿が確認出来たので、島野は何食わぬ顔でバスの中で過ごす羽目になったのだった。
もちろん、スキーも温泉も楽しんだ菊地は、帰りのバスで熟睡していた。だから遠慮なく写真を撮り録画をした島野であった。
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