第3話
結構大事になっていたはずのに、特に事件や事故としてネットニュースにも上がらなかったのは、やはり渦中の人があの一之瀬匡と二階堂卓だったからだろう。規制などかける必要もなく地方のニュースでも取り扱われなかったと思われる。下手をして、五大名家のうちの二つを敵に回すなんてことになれば、誰からの助けも得られないからだ。
島野は父親に言われたとおり、普通に登校をした。いつもの時間に家を出て、いつもの時間に電車に乗りバスに乗って高校へと向かう。JRの駅から高校までは歩いてもなんとかなる距離だが、昨日の今日で元気よく歩いて登校する気にはかれなかった。昇降口で何気なく下駄箱を確認すれば、大半の生徒は既に登校しているようだった。
「なんで高校の下駄箱は扉がつくんだろう?」
小中学校の下駄箱に扉なんて着いていなかったのに、高校になると下駄箱に扉がつくから、パッと見だけでは分からないが、中途半端に閉められた扉の中に、上履きが入っているかいないかぐらいは分かるようになってしまった自分が、ちょっとだけ嫌になってしまう。体格のいいアルファは、その体を支えるために足も大きい。制服に合わせて履いているローファーやスニーカーは下の段に入れるから、扉が少し浮いているのだ。県立高校ならではでのことで、まだ使えるから下駄箱の買い替えは当分なされないだろう。
もっとも、下駄箱に納まるサイズの場合は判別がつかないのが残念ではあるが、少なくとも同じクラスのほとんどのアルファはコレで判別がつくのでそれで良しとした。
「おはよう」
さすがに元気いっぱいに挨拶をして教室に入るのは気が引けるので、島野は少し抑えめの声で挨拶をした。もちろん特定の誰かにではない。確認した通りのアルファの生徒は登校していた。あとは数名のベータの生徒。誰も昨日のことを話してなどいない。親から口止めされたのだろう。何しろ見舞金という名の口止め料が支払われたのだ。この人数に対して現金をすぐさま用意して、菓子折とともに手渡せる手際の良さが恐ろしいと島野は思うのだ。
これから自分が仕える一之瀬家の、いや既に仕えているのだろう。昨日の件を素早く父親が一之瀬蘇芳に報告できたのは、他ならぬ息子である自分の判断の賜物なのだ。同じ高校に通うことで、既に自分は一之瀬匡に仕えていることになっているのだと思う。ただ、正式に言い渡されていないだけだ。
「なぁ、昨日は宿題出てなかったよな?」
そんなふうに声をかけながら自分の席に着いた。教室の風景は特に変わりはなく、開けられた窓から入る風が心地よい。
「宿題は出てないけど、英語が小テストだったろ?」
「え?まじ」
「言ってたよ。中間テストまで毎回小テストするって」
「1時間目英語じゃん」
「範囲どこ?」
「諦めろ。中学の復習から今の単元までだから」
「詰んだ……」
そんなたわいのない会話を交わすのはベータの生徒で、アルファの生徒は黙って本を読んだりスマホをいじったりしている。誰もが教室に入る際に挨拶をするのは、入口付近に一之瀬匡が座っているからだろう。そんなところに座っている一之瀬匡の前を、黙って通れる勇気など誰も持ち合わせてなどいないのだ。
島野の席は運がいいのか悪いのか、一之瀬匡の斜め後ろだった。男女混合名簿であっても、所詮この程度しか開きがないのだ。
予鈴が鳴り、教室が静かになると、廊下を歩く教師たちの足音がやけに大きく聞こえる。一年A組は一番端にあるから、階段を登る教師の足音に加え、ちょっとした会話も聞こえてくることもある。階段の位置のせいで、A組の前は授業に向かう教師が必ず通っていく。何気ない風を装っていても、視線が一之瀬匡に向けられていることは、島野にもよくわかった。けれど、一之瀬匡はそんなこと気にもとめないようで、静かに本を読んでいた。
「出席をとるぞ」
入ってくるなり担任は名簿を開き出席をとる。ホームルームにいることが学校に登校したことになるから、この時点で席に着いていなければ遅刻になる。昨日の事件で倒れたベータの生徒は病院で診察を受けたけれど、大事には至らなかった。そう聞いていたのに、一つ空白の席があった。連絡がありあったからなのか、担任はあえてその生徒の名前を呼ばなかった。
担任は昨日のことについては何も触れず、他のクラスに入らないよう。改めて注意を促しただけだった。それを聞きながら、島野は欠席をした生徒の名前を探った。
まだ顔と名前が完全に一致していないのだ。親の影響でアルファの顔と名前は素早く覚えるくせがついているけれど、ベータのしかも男子ともなるとずい分と記憶の中で後回しになっていた。
(ええと、俺の前は酒巻、その前が小林で一番前の席は……菊地?)
頭の中でゆっくりと名簿を確認する。目の前にある背中の女子生徒はアルファで、地方議員を父親にもつ酒巻華世だ。アルファ家系の血を濃く表した華やかな顔立ちの少女で、隣に一之瀬匡がいるのに怖気付く様子は微塵もない。その前の小林もたしか女子生徒であったが、ベータだったと記憶している。一番前の席で、本日欠席している生徒は菊地和真だ。確か昨日、腹痛を訴えていた。じっくりと見た訳では無いが、顔色はだいぶ悪かったと記憶している。吐き気や目眩などではなく、具体的に腹痛を訴え、全身から力が抜けている様子だった。
一番前の席だから、開けられていた扉からまともにアルファの威嚇のフェロモンを受けてしまったのだろうか?確かに昨日の時点で一番様子が良くなかった。腹痛が長引いて大事をとって欠席と言うこともある。だからといって、自己判断はしない。島野はスマホを片手で操作して、父親に報告をしたのだった。
「小テスト始めるぞ」
1時間目の英語は、本当に小テストから始まり、渡された小さなわら半紙を前に島野は苦い顔をした。英語はそこまで苦手では無い。どちらかと言えば喋る方が得意だ。もちろん聞き取りも概ね問題なくできる。だが、書くことが苦手なのだ。どうしても綴りにミスをしてしまうので、書いた後に口の中で小さく発音を繰り返すくせがついている。そのうち前の席の酒巻華世から苦情が来そうだとは思っている。
それでも何とか小テストをクリアすれば、その後は普通に教科書に沿った授業があり、本日の授業は教室移動もなく割と平和であった。
休み時間にスマホを確認したが、父親からは『了解した』ととても短い返信があっただけで、特に指示などは送られこなかった。
「また明日」
そんな挨拶をして教室を出る。すぐに階段があるから、教室を出て廊下を歩く距離は少ない。他の生徒に悟られないように、島野は極力一之瀬匡にだけ挨拶をするのをあえて避けていた。だから一応は気を使って前の扉ではなく、後ろの扉から出るようにはしている。そうしないと、一之瀬匡の前を無言で横切ることになるからだ。放課後になったからと言って、一之瀬匡が早々と教室を後にすることは無い。おそらく迎えの車との時間調整があるのだろう。
「色々大変なんだな」
その辺については完全に他人事だとして、島野はそのまま校門をくぐった。私鉄に乗る生徒はバス停に向かうけれど、大抵の生徒は自転車で帰るか、JRの駅へと向かう。朝は何となくだるくてバスに乗ったけれど、歩いて15分程度の距離だ。何となくな感じで作られた集団の中を、なんとなく歩けば、改めて自分はベータなのだと思うのだ。
「ああ、やっぱり家が一番落ち着く」
スマホを操作するのに後ろからの視線を気にしなくていいのがいい。夕飯も食べたし、これといって宿題も出てはいない。だが、一之瀬匡と同じクラスで3年間過ごすためには普段から勉強をすることを心がけなくてはならない。成績を落とせばクラス下がる。県立の高校だからクラス替えがされるのは学年が変わった時だけなので、年間のトータルが重要視されるというわけだ。
「風呂に入らないとなぁ」
部屋着も寝るのもトレーナーだから、替えのパンツを持って風呂場に行けばそれでいいわけで、明日は体育があるからボクサータイプにしようとタンスに手を伸ばすと、ドアをノックする音が聞こえた。
それに合わせて振り返ると、ドアはあかずに母親の声だけが聞こえてきた。
「昌也、お父さんが書斎で呼んでるわよ」
こんな時間に書斎に呼ばれるなんて初めてだ。
「分かった」
タンスに伸ばした手を引っ込めて、ドアに向かって歩き出す。ベータの一般家庭なのに父親に書斎があるのは、島野の家が一之瀬に仕えているからに他ならない。母親も一之瀬家で通いのお手伝いさんをやっているから、両親が一之瀬家に仕えていれば、自然とその子どもである島野も一之瀬に仕えることになるわけだ。
確か、小さい頃は母親に連れられて一之瀬に出入りをしていた。同い年の一之瀬匡の遊び相手をしていたのだ。子どもとはいえ、アルファとベータだ。体格からして違うわけで、ベータの子どもと遊ぶことで力加減を覚えるのだろう。
「昌也です」
ノックをして名乗れば、中から父親の声が聞こえた。そのまま入室をすれば、父親はパソコンのモニター越しに島野に話しかけてきた。
「昌也、お前の仕事が決まった」
「仕事?」
高校に入学したばかりだと言うのに、仕事が決まったとはこれ如何に?青天の霹靂とまでは行かなくても、十二分に驚くべき話だった。
「匡様から直々に仰せつかった」
茶色い封筒を渡されて、島野は緊張しながら中身を確認した。業務命令とでも言えばいいのか、事細かなことが書かれていて、島野は内心うんざりした。
「通学のルートが変わるから朝が早くなるぞ」
父親にそう言われたので、そんなことがどこに書かれているのかよく読めば、確かに通学に私鉄の駅から出ているバスに乗るよう指示があった。八時頃に高校の校門前に停るバスだ。私鉄の駅を出る時間を見れば今JRの駅に到着する時間より三十分以上早い時間が書かれていた。
「六時過ぎには家でなくちゃじゃん」
「そうだな」
「え?5時起き?部活の朝練より早いじゃん」
「朝練じゃない。仕事だ。朝活か?」
「それ笑う要素どこにもねぇから」
島野は渡された書類を読んで深いため息をついた。そこには菊地和真に関する事が書かれていて、島野の任務は菊地和真の監視だった。とは言っても、登校から下校までだから一日の拘束時間は短い。まだ学生であるからなのだが、島野の自宅は都内にあり、わざわざ一之瀬匡に合わせて隣接する県立高校に入学したのだ。JRを利用すれば四、五十分程度で済むのに、私鉄の駅を利用するとなると遠回りをするわけで、その分時間がかかる。菊地和真の乗るバスに合わせるためには早起きをしなくてはならないと言うわけだ。
「明日から早いぞ。夜更かしなんかするなよ」
父親は笑ってそう言うけれど、今から渡された資料を熟読しなくてはならないから、どうしたって寝るのは遅くなる。それなのに夜更かしするなとか、なんともむちゃくちゃな事を言うものだ。
「それから、これは業務用の端末だ」
渡されたのは日本のメーカーが出したスマホだった。島野が高校入学の祝いに買ってもらったアメリカのメーカーのものと違い、防水防塵が付いていて、本体は軽くて丈夫な作りになっている。確か風呂防水機能も付いていたと記憶している。
「撮影は、この間買ってやったスマホを使いなさい。画質がいいからな」
「……うん」
「こっちの業務用端末は人目に触れないよう気をつけるんだぞ」
「はい……わかりました」
充電用のケーブルが違うからと、あとからケーブルも渡されて、島野はとりあえず自室に戻った。すると、部屋には母親がいて島野の制服のポケットから定期を取り出していた。
「母さんなにしてんの?」
「何って、定期の回収よ」
「なんで?」
「なんで、って……昌也、あんた明日から私鉄とバスで通学するんでしょ?」
「そう、だけど……」
なんで、知ってるんだ。なんて、くだらない質問をしてしまうところだった。母親は昼間一之瀬家にお手伝いさんとして通っているのだ。つまり島野が今しがた手渡された封筒の中身なんてとっくに知っているという訳だ。
「通学定期、私鉄のやつ。それとこっちがバスの」
「ありがとう」
「バスの定期は高いんだから。無くしたら小遣いで買いなさいよ」
「えぇ」
思わず不満を口にしたけれど、確かにバスの定期代は高かった。もっとも半年分なのだから高いのは仕方がない。だが、夏休みがあるのに半年分とはどういうことか。
「夏休みも学校に行くかもしれないし、高校生だものアルバイトするかもしれないでしょ?」
「もうしてるじゃん」
「あんたじゃないわよ。菊地くんよ」
母親に言われて理解した。監視対象である菊地和真が地元で何らかのアルバイトをした場合、島野もそこに行かなくてはならないのだ。だから夏休み注意も通学定期が必要という訳だ。
「明日から頑張りなさい。まさか本当に仕事が与えられるとは思ってもみなかったけど。父さんの子だもの、あんたならできるわ」
「何それ、適当くさい」
「何言ってるのよ。大人になってからするより気が楽でしょ?昼間だけなんだし、高校卒業したら番かもしれないんだから」
「……そうか、番になったら監視じゃなくて護衛になるのか」
「そうよ。学校のついでってことなんだから気楽にやんなさい」
そう言って母親は島野の背中を叩いて部屋を出ていった。母親の言うことは極端ではあるが、なんだか気が楽にはなった。それはそうと、忘れないうちに渡された業務端末を充電しながら連絡先を確認すれば、登録されているのは父親だけだった。
「あとはおいおいって、ことか」
島野は自分のスマホのアラーム時間を修正した。明日から仕事を兼ねた高校生活がスタートする。
「とりあえず風呂入ろ」
ようやく島野は当初の目的を思い出し、タンスからボクサータイプの下着を取りだし風呂へと向かうのだった。
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