4-7:SCA
超娘達の為に作られた組織がSCA(Super Girl Competition Association)。
SCAにはその前身がある。
1番初めに超娘達の為に作られた組織はSRA(Super Girl Race Association)と言う物だった。
日本語で言うならば超娘競走協会、競技ではなく競走単体の組織として生まれたのが始めとなる。
SRAが最初に作られたのは西暦1620年、場所はイギリスだった。
規模が小さな集団で発足されたその組織だったが、超娘達の大きな活躍とそれを見た観客の盛り上がりから次第に大きく成長していく。
西暦1645年、集団に王朝が参加し、同時にトップとして立つ事になり急激に組織は巨大化して行く事になる。
その中で超娘達のストレス発散の為として行われた球技等の競走以外の競技を行う姿を見て、超娘達は競走だけに絞るのは勿体ないのではないか? そんな議題が立ち上り、結果協会は競走に限らぬあらゆる競技を行う為の組織へと変わる事になる。
西暦1652年、SRAはSCAへと変わり、競走以外に球技と体操の競技が加わる事になった。
とは言えど、やはり主体となるのは競走らしく、競走以外の競技を選ぶ超娘は珍しい存在であり、競走以外の協議の規模はそこまで大きくはならなかった。
どんな人であっても自身が自慢に思う存在であれば他にも自慢したくなると言うのは変わらない。
大々的に国外からの人を招待して自身がサポーターとなっている超娘達の姿を見せる事が多くなっていく。
西暦1685年、フランスに置いて実験的に競超場が作られイギリスの真似をして超娘の競走が始まる。
その人気は徐々に広がり盛り上がり、誰が先頭に立って運営するかの争い等を起こしながら最終的に西暦1700年にフランスにSCAが作られた。
これにより1つで無くなったSCAは大本であるイギリスをそのままに、イギリス以外に作られるSCA組織は頭文字に自国の名を入れた上で名乗る事になっていく。
つまりフランスに作られたSCAはFSCA(France Super Girl Competition Association)と言う名称になる。
2つ目の組織が出来てからはますます世界各地にこの流れは広がり盛り上がっていく。
各地で真似をした形の超娘の競走が行われるようになるが、ただSCA程しっかりとした規模でもルールが決まった物でもないどこか物足りない物が多かった。
結果人気が集まるのは本場と言われるイギリスとフランスのSCAが開催する競走だった。
だが周囲の国家も易々と手をこまねいているだけではなく、やれる事、上手く人気を集める方法を画策し、競走や球技だけで見せるのではなくその終わり、勝者や勝利チームによるパフォーマンスを行う様にした。
そこそこの人気は出た物のルールがその時その時で開催者等による変更が加えられると言う画一的なルールがない状態では、どうしても見る方もどうせと斜に構えた味方へとなりその人気が一定を超える事は無かった。
やはり組織は必要なのだ、それを認識させられ世界各地でSCAが作られその規模は拡大し続けて行く。
その結果、超娘達の立場は大きく上昇し、確立されていく。
同時にSCA自体も他国家が行っていた競技終了後のパフォーマンスに目を付け、勝者によるパフォーマンス義務が超娘に与えられる様になる。
パフォーマンスは超娘によって変わってくるが、純粋に映える、人気を熱を持たせる物が前提とされた。
その流れで1番多く取り入れられたのは歌とダンス、チーム競技の場合は演劇や歌劇、それ以外には身体能力の高さを生かした派手な動きを見せる曲芸の類や体操等も行われた。
ただ個人で行うのに1番面倒がなく簡単だったのは歌やダンスであり、基本的に何かしらの得意なパフォーマンスを持たない超娘は歌とダンスを行うのが基本となっていく。
個人競技であっても1番は1人だけだが、2番や3番と言ったそれに次ぐ順位の超娘がおり、参加人数自体が増えればその中で上位下位等という形で分けられる様にもなる。
その結果当初は個人競技であれば1番だけがパフォーマンスを魅せる形だったが、徐々に2番とペアになり、やがて3番までのトリオへと形を変えて行く。
現在に至れば競走に例を充てるならば競走のレースには格と言う物が存在し、その格が低いレースであればソロ、少し高くなればペア、そこそこ高くなった場合でトリオ、上位の格に至ればクインテットの5人組までがパフォーマンスを行う様になっている。
パフォーマンスは歌単体、ダンス単体、歌とダンス併用、超娘ならではの身体能力を生かした演出を込めた組体操や曲芸等となっている。
故に超娘は最低限必要とされるパフォーマンスを一定以上まで高める必要があり、学園等でそれらの教育も通常学習の中に組み込まれている。
パフォーマンスに何が選ばれるかは勝者となった超娘が1番得意とするジャンルが選ばれ、2番以降の超娘はそれに習る事になる。
西暦1800年頃には大きな国家ないし、その国家の植民地下であれば国に1つのSCAが作られ、西暦1950年頃になれば中規模程度までの国であればSCAが存在するまでになっていった。
西暦2000年を超える頃には小さすぎる国以外ではほぼSCAと言う組織が存在し、どんな国であっても超娘の確保が急務となっていく。
日本に初めてSCAが作られたのは西暦1885年、前身にイギリスと似た形で競走に特化した日本超娘競争協会と言う物が作られた後に、世界の流れに乗る為に変わり作られたのは始めとなる。
JSCA、日本超娘競技協会、日本全ての超娘達による競技の運営と維持をする事になり、初期はやはり競走のみだったそれから、少しずつ野球、サッカー、バスケ、バレー、テニス等と広げて行った。
SCAが運営する中で1番規模が大きく大事とされる物が学園運営となっている。
超娘達の為の学園、基本的に国家の助力を得たうえでSCAが責任をもって運営維持を行っている。
SCAを名乗る場合に必ず守るべき誓約としてこの学園運営については記載されている位にSCAにとってこの学園運営は大事とされている。
日本がJSCAと名乗り、急ぎ場と箱を用意して最初に作られたのが西暦1888年に作られた日本東京超娘学園だ。
日本東京超娘学園だが、初期の名前がこれで、後に東京以外にも学園が作られると同時に名も変更される。
日本東京超娘学園から日本東部東京超娘学園と東部という名称が付けられる様になった。
それは西暦1890年に2つ目の学園が大阪に作られたのがきっかけとなる。
名を日本西部大阪超娘学園とされ、同時に東京の学園も日本東部東京超娘学園へと変わった形だ。
その後は翌年の西暦1891年に日本北部札幌超娘学園と日本南部沖縄超娘学園が誕生した。
日本の4大超娘学園、これは世界においてもそこそこ名が知られ有名になっていく。
その理由は国の大きさに合わせて数が多いと言う事からだ。
アメリカの大国であっても学園は6つ程、中国で8つ程しか学園は存在しない、日本規模の国であれば基本的に1つのみが殆どとなっている。
これは日本が国の大きさの割に人や超娘が多い事も原因の1つだろう。
超娘の数が絶対的な強さと豊かさに繋がる訳では無いが、可能性は高くなる。
日本は小さな島国だと世界に認識されながらも、その超娘の数を大きく確保出来ている事から侮られる事は殆どなくなっている。
そして日本もこれが超娘のお陰である事を理解しているからだろう、超娘達の為に学園の規模や内情を豊かに困らない様にと常に最上を目指しながら運営している。
これは競技に置ける超娘達が獲得できる賞金にも反映され、世界の中でもトップ3に入るレベルで競技に置ける賞金は多くなっている。
競技以外にも引退後にも活躍できる場面を数多く用意しており、引退したからと言って国から離れる様な事を無くすために努力は欠かしていない。
こういう裏事情もあり、選手時代は自国で活動しながらも引退後は日本へ等と言う海外の超娘達も少なくない。
日本のこの流れを見て大国は学園の数を増やしたり福祉厚生を充実させる事が多くなり始めている。
そうすれば超娘が自分達から自国に流れてくると言う事がデーターではっきりと示されているのだ、やらない理由がないだろう。
力がある国がますます有利に強く豊へと変わって行く。
西暦2030年の現在、トップはフランスかイギリスで争い、3番手がアメリカ、4番手あたりを日本と他の大国が争っている状態となっている。
3番手と4番手あたりはそこまで大きく差はないが、フランスやイギリス当たりはどうしても頭1つ分くらいは抜けている状態であり、それでも超娘達の競技においては絶対的な有利があると言う程ではない。
国の豊かさ等が大きいというだけであり、純粋な実力差自体は少し上程度に収まっている。
SCAは各国で協力し合いながらも競い合い、良い関係を築きながら今もなお拡大し続けている。
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