第74話 神様の匂い

 重い。ずっしりとした重みが腹部を圧迫して、呼吸が詰まってしまう。

 しかもこの重みは、ぐりぐりと腹部の上で円を描くように動いている。


 不快感はない。

 むしろやわらかさが気持ちいいとすら感じる。

 だけど、やっぱりその重みがどうしても気になってしまう。


「やっぱり」


 目を開けると、想像していた人物がそこにいた。

 珍しいじゃないか。いつも恐る恐ると、こちらに可能な限り苦しみがないように、絶妙な体重をかける君が、こんなに乱暴にまたがるなんて。


「なあ、シロ。俺なにか君が怒るようなことした?」


「……」


 無言でぐりぐりと体重をかけられる。

 執拗に、入念に、丁寧に、自分の体重を、ぬくもりを、やわらかさを、俺に刻み込むかのようだった。

 ようするに、尻をこすりつけられてるもんだから、さすがの俺も恥ずかしさが勝って、冷静に事情を聞くことができない。


「し、シロ……女の子なんだから……」


「だから、なんですか? 私よりモグラが好みなくせに」


 あ、怒ってる。

 儚げな様子も、こちらを気遣う様子もない。

 今の彼女は理由こそわからないが、初めて俺に見せる怒りという感情を隠そうともしていない。


 だからといって、この状況はなんなんだ。

 俺が押しのけることを諦めたのを理解したのか、俺にまたがったまま上半身を倒してきた。

 体やわらかいな……いろんな意味で……


「ソラが特別なんじゃないんですか?」


 失敬な。

 その発言を撤回する気は微塵もない。

 前も今も、いや、今だからこそ前以上に、ソラは俺の特別だ。

 それはこの先もきっと変わることはない。


「特別だよ? シロには悪いけど、ソラは一番だから」


 なんの一番なんだろうな。

 一番の相棒? 一番最初の仲間? 一番かわいいわんこ? 一番頼りになる神様?

 まあ、それらが混ざり合った意味だろう。今後も理由は増えていくかもしれない。


「そ、そんな言葉だけじゃ信用できません……いえ、信用しています。あなたのことを。ですが、不安なんです」


 なんだか珍しいシロを見ている気がするな。

 俺よりも若い少女でありながら、とても落ち着いて大人びている子。

 それが、俺がシロに抱いている印象だ。


 だけど、今は感情を露にして、表情がころころ変わっていく。

 ああ、そうか。アリシアに似ているんだ、感情が豊かな彼女に。

 ともかく、シロはソラのことをとても心配してくれている。

 彼女たちの関係はわからないけど、俺の大切な愛犬をこうも想ってくれる子がいることは、素直に喜ばしい。


「う~ん。どうしたら信じてくれる?」


「……わかりません。すみません欲深い女で……」


 腹の上に座りながらも、ぺたっと上半身を倒すものだから、俺とシロの顔は互いの息がかかるほどに近い。

 だから俺が落ち込む彼女にできるとしたら、これしかない。


「あっ……」


 淡い色をした髪をていねいになでていく。

 ……なんだこの髪、あまりにも触り心地がいいな。

 こんなのソラの毛並みに匹敵する心地よさじゃないか。


「そうやって、いろんな女をたぶらかしてきたんですね。悪い手です」


「まじか。俺の手、数少ない長所かと思ってたのに、気持ちよくないか?」


 俺の手が通用しないとなると、もはや俺の長所なんて魔力の暴走の治療くらいだぞ。


「気持ちいいから困るんです……ごめんなさい、かわいくないことばかり言って」


「シロはかわいいぞ? そこは本当に自信を持っていい」


 俺の世界にいたら、絶世の美少女として、テレビとかで紹介されてもおかしくない。

 だから安心してくれという意味もこめて、再びやさしく髪を手櫛で梳くようになでていく。


「あの……シロさん?」


 思わず敬語になってしまう。

 彼女は俺よりも小さな体を動かして、全身で抱きつくように力を込めていく。


「いけませんか?」


 いけません。

 と開きかけた口を、人差し指を一本立てた手でふさがれる。

 しーっ、と小さな声でつぶやく彼女の金色の瞳は、妖しくギラギラと光っていた。

 年下とは思えない妖艶な表情に、俺は思わず息を飲んだ。


「あなたを信じています」


 抱きしめられたまま、彼女は体をこすりつけるように、前後に動く。

 やわらかい。それでいて適度な重みにつぶされて、変幻自在に形が変わっていく。


 まずい。まずい、まずい!


 こんなことが続いたら、俺の鉄の理性だって脆くひび割れる。

 なにが、彼女をここまでさせている?

 今日のシロはどこかおかしい。


「あっ……」


 ああ、くそっ。終始、年下の女の子に手玉に取られてしまった。

 そりゃあ、この子も驚くだろうさ。

 顔を真っ赤にして、恥ずかしさのあまり震える男のなんと情けない姿か。


「ふふっ……その姿は私だけのものですね」


 顔のすぐそばで、吐息をかけられながら、そんなことをつぶやかれる。

 それで満足したのか、彼女はそのまま俺を抱きしめると目を閉じた。

 ――これまでと違い、今日は寝つけるかが不安だ。


    ◇


 主様と出会ってから、良いことばかりが起こっておる。

 気の置けぬ友ができるなど想像したこともなかった。

 ましてや、そのうちの一人があの恐ろしい神狼様とは、考えたこともない珍事じゃ。


 そもそもからして、妾と友のように、家族のように、理想の男女のように接してくれる。そんなオスに会えたこと自体が夢物語のようで、つまり妾は今の生活が気に入っておる。

 傲慢に命じられ、それにただ従うだけの関係ではなく、冗談を言い合える仲のオスとメスか……

 まったく、面白いこともあるものじゃ。


 そして、妾のもとを去った妹との再会と和解。

 二度と会えぬと思っておったのじゃが、昔のような関係を築けておる。

 本当に、良いことばかりじゃ。


 なのじゃが……その妹が少し問題でもある。

 ちょっとばかり、主様との距離が近くないかのう?

 妾はまだいい。姉じゃし我慢もしよう。


 じゃが、神狼様がそろそろ爆発するのではないかと、日々不安なのも事実。

 昔の神狼様であれば、出会って即噛み砕かれてもおかしくない。

 あの方もまた、主様との出会いで変わった者の一人なのじゃな……


 ――さて、そういうわけで、妾は妹であるテルラに釘を刺しにきた。

 アルラウネたちも、たまたまアルラウネの長に会いに来ていたアラクネの長もおるが、ここは姉として忠告しておくべきじゃ。


「ということで、節度をわきまえろと言っておる」


「え~、だって主様やさしいんだもん。あんな人、何百年生きてても二度と会えないよ?」


「お主は、神狼様の恐ろしさを知らぬから、そのようなことが言えるのじゃ」


 やはり甘やかしすぎたか。

 どう説得したものかと考えておると、渦中の二人の匂いが近づいてきた。

 ……さすがに、当人たちの前では話しにくいし、また別の機会に説得するか。


「主様と神狼様の匂いだね」


「それとアリシアもじゃな。いいか、くれぐれも節度を持つのじゃぞ」


「は~い。主様~」


 絶対理解しとらんぞこいつ。

 せめて、神狼様の目の前では、あまりなれなれしくしないでほしいものなのじゃが……


「あれ……? 神狼様いないよ?」


 たしかに、テルラの言うとおりじゃ。

 近づいてくるのは、主様とアリシアのみ。

 神狼様は匂いこそするものの、どこにもその姿はなかった。


 ……まさか。


「やあ、シルビアもこっちにきてたんだ」


「うむ……のう、主様。ぶしつけなことを言うが、ちょっと主様の匂いを確かめさせてもらえるか?」


「え? いいけど、俺臭い?」


「いや、違う。違うのじゃが……」


 主様の許可を得て、匂いを嗅ぐ。

 神狼様……すでに爆発しておったか。


「あれ~? 神狼様の匂いがしたんだけどなあ」


「ん? それなら、ここにくる前にソラを抱きしめて頭をなでてたからじゃない?」


「えっ、それ普通なの? おかしくない? いいな~、いいなあ。う~ん、でも我慢しておく……」


 偉いぞテルラ。それでいい。

 そして、妾は知っておる。そのくらいなら、もはや日常茶飯事であり、そのくらいでは、主様に神狼様の匂いがこうもべったりとつかない。


 つまり、ただでさえ過剰な日常のスキンシップを超えるほどに、密着し、匂いをすりつけるような真似をしたのじゃ。あのお方は……


「匂い付けをすでにしておったということか……」


 アリシアと違って、妾たちがおらぬ場所で、人知れず行動に移るのじゃから恐ろしい。

 本気で主様を好いておるのじゃなあ……

 ともかく、その爆発が妹に向かなかっただけよしと、妾は半ば無理やり自分を納得させることにした。

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