39 最終楽章
まったく予感がないわけではない。
虫の知らせか、その日、家に帰って落ち着いた後でお風呂に入ってしばらくすると、ぼくは少し熱っぽくなる。それで早めにベッドに入ったのだけれど、なかなか寝付けない。父さんはその日の午後から翌日にかけて趣味の文芸サークルの仲間たちと泊りがけの小旅行に出かけていて家の中にはいない。父さんが家にいてくれれば多少は心強かったかもしれないけれど、でも彼女を見つけ出すことができるのは、ぼくだ。
おそらく、そのことが試されたのだ!
電話は深夜の二時過ぎに掛かって来る。
深夜や明け方に鳴る電話の記憶は母さんの方の祖父の死と、父さんの方の祖母の死で経験がある。だからウツラウツラはしていたが眠り込んではいなかったぼくは、はっ! としてベッドから跳ね起きると転げるように階段を降りて一階リクライニングルームの固定電話に向かい、すぐさま双受器をとる。
「もしもし……」
「ごめんなさい、こんな時間に……」
乙卯羽衣子さんが言う。
「まさかとは思うけど、娘がお邪魔していないかしら?」
憔悴した声音だ。
「蕗子さん、いなくなったんですか?」
「そうなんです。何故か胸騒ぎがして、仕事の区切りに部屋を覗いてみると、ベッドに姿がなくて……」
「それで、こちらに向かっていると?」
しかしこの時間、電車は動いていない。とすると自転車か? タクシーか?
「ええ。もしかしたらと思って……」
気配がしたので振り返ると母さんがそこにいる。それで、
「蕗子さんがいなくなったらしい。ぼくは捜しに出かけるから、母さんはここで待機していて!」
と告げる。
「もしかしたら連絡が入るかもしれないから……」
「わかったわ」
母さんが首肯く。ついで、ぼくが、
「プリペイドを貸して……」
と届け物のバイシクル便のときに使うことが多いプリペイド式携帯電話を要求すると、
「これを持って行きなさい」
母さんが愛用の型番のスマホをぼくに手渡す。
「ありがとう。借ります」
受け取ったスマホをいったんテーブルの上に置くと双受器に向かい、
「これから捜しに出ます。心当たりはありませんか?」
ディーの母親に尋ねる。
「ないわね。全然……」
そういう返答が返ってきたが、それは実のところ余計な情報をぼくに与えて混乱させないための方便だったかもしれない。
「わかりました。この後、こちらの電話は切ります。次にかけるときは……」
母さんがすでに紙に記していた番号をぼくの目の前に翳したので、
「……にお願いします」
それを読んで伝える。
「ちょっと代わって」
母さんが言うので、
「はい!」
と双受器を渡し、服を着替えるために、母さんのスマホを持って二階に上がる。一瞬、振り返ると母さんは深刻な表情を浮かべて、ディーの母親と会話している。
タクシーを引き回しても仕方がないと思い、また機動力も考慮し、ぼくは自転車で出かけることに決める。風は身を切るように冷たく、すぐに身体中が冷え切ってしまったが、ここで負けるわけには行かない。ぼくは全力でディーを捜しまわる。まず最初に二回目に出会ったあそこと、そこからそれほど離れていない例の中学校近辺を確認してから、最初にディーと出遭った例の場所に向かう。が、いない! 周辺も隈なく捜す。それだけで一時間以上もかかってしまう。後はどこだろう? ハンドメイドショップはありえない。水族園もありえない。とすると? 朔太郎の鉄塔か、二ヶ領用水しかないな!
そして、ぼくは後者にかける。
そのとき自転車を走らせていたのが用賀だったので、ぼくは国道二四六号線を南下し、玉川ショッピングモールを右目に二子橋を経由するルートを採る。深夜でも大型トラックが行き交う騒がしい国道だ。さらに多摩堤通りを西進し、用水側道では自転車を降りて走って現場へ向かう。息を荒(あら)らげながら、やっとの思いでそこに辿り着いたが、いない! 次は? 次は? 次は? ここから近いところならば当然、生田緑地だ。しかし、そうではないような気がする。では何処だ?
するとそのとき、ぼくの耳にあのときの会話が蘇る。
「ここから見ても結構大きいわね」
「そだね!」
枡形山頂上公園の展望台で木々に邪魔されながら見下ろした多摩水道橋が目の裏に浮かぶ。それですぐさま、ぼくは橋に向かう。
そして、そして、そして――
ぼくはまったく有り得ないところに揺らぎ立つディーを発見してしまう。
なんと彼女は川面からゆうに百メートル以上の高さがある多摩水道橋橋梁上の東アーチの天辺に立っていたのだ!
それも葬式を思わせるような全身黒づくめの格好で!
ディーの立つそこではかなり風圧が高いらしく前後左右に身体をフラフラと揺らめかしている。
ぼくは瞬時呆然とし、ついで慌てて自転車から飛び降りると、すぐさまアーチを昇りはじめる。高床式の倉庫でいえば鼡返しに相当するアーチへの侵入&登攀を阻止する棘の群れを避け、上部へ向かう。目の下では多摩川が黒く大きなうねりを見せて粛々と、すべての存在や時間を飲み込んでしまうかのように流れている。その光景は、ぼくの頬を激しく引き攣らせたが、ここで観念するわけにはいかない。
「遅かったな、草間大作!」
ディーの立っているアーチ頂上まであと十数歩のところ――そして、風に会話が邪魔されない位置――までぼくが辿り着くと魔が言い放つ。
「二時間近くかかったな? ホレ、見るが良い。この女の体力はもう限界だ。天が突風を許せば、たちどころに舞い落ちるぞ!」
「つべこべいわずに、ディーから出て行け!」
「フン。それは構わんが、結果は同じだ。この女は落ちて凍えて溺れて死に、その代わりに、わしが天に還るのだ。それに、フフン、こんなところで目覚めたら、たちまちこの女は目を晦まし、川に落ちるぞ! わしとして目覚めずに落ちた方が、この女のためだと思うがな!」
ディーの身体が大きく揺らぐ。
ぼくが息を飲み込む。
次の瞬間、一陣の突風が訪れて、ディーの身体がゆうに数メートルも宙に舞い上がり、ついで重力と風力の織り成す流体力学の法則に従い、落下をはじめる。
風の巻き起こす轟音が、ぼくの耳をゴウゴウと聾す。
次の瞬間を待つまでもなく、ぼくは躊躇うことなく、ディー目がけて橋を飛び降りる。
すると――
「キミはバカだ!」
声が聞こえる。
「仕方ないな。おれが翼を治(なお)してやるよ。生きた人間たちにはできないことだからな……」
それは風の轟音がぼくに聞かせた幻聴だったのかもしれない。
「未練の結末がこれかよ! 笑わせやがる。だが、おれがこの世に残されたのは、このためだったのかもしれないな? 申し訳ないが、きみは死ぬよ。この行為によって、やがて……。が、本望なんだよな。羨ましい。きみが憎いよ。OK!」
強く背中を叩かれる。
「じゃっ、彼女をよろしく!」
翼が蘇る。 ぼくが飛ぶ!
そのときディーは真っ逆さまに背中から落下していて、その位置はすでに川面寸前だ。ディーの目は見開かれていて、本当にびっくりした表情でぼくの翼を確認している。ディーが手を延ばし、ぼくも手を延ばし、手を延ばし、手を延ばし、そしてそれらが互いに触れ合った次の瞬間、ぼくが彼女を全身で抱える。そして翼をはためかせながら向こう岸の堤まで飛んで行く。まるでディーを運ぶ優しい風であるかのように……。
ディーに衝撃を与えないようにゆっくりと着地し、ディーの身の安全を確認し、安心して両目から涙を溢れさせているディーを見、ぼく自身も涙を流していることに気づき、ついで全身から急速に力が抜け落ちていって、ついにぼくははその場に崩折れてしまう。
かなりの時間が経ってから耳元で泣き叫ぶディーかあるいは乙卯蕗子の声が聞こえた……ような気がする。
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