38 束の間の平穏

 その週はディーから毎晩電話がかかってきて、別にごく他愛無い話しかしていなかったので構わないといえば構わなかったが、確かに携帯の方がもっと自由に話せるのかなぁ、とも感じる。まぁ、そういうことなら、スカイプ=IP電話でも良かったわけだが、あのときの魔と違い、ディーは話題をその方向へは振らない。

 ところで母さんが先に電話を受けた場合、双受器を渡されるまでぼく宛の電話と判別し難いほど、ディーと母さんは長話を続ける。それで電話を変わってから、

「さっき何話してたのさ?」

 と問いかけると、いつも、

「内緒よ!」

 という返事。そうじゃない例外は、

「えーとね、お料理のお話!」

 だろうか。

 そうこうするうちに金曜日の夜になり、午後八時過ぎにかかってきたディーからの電話で、ぼくは、

「明日はどうするの? 雨みたいだけど……」

 と午後七時のニュースで得た最新情報を伝える。

 もっとも、その時点でポツリポツリと雨が降りはじめていて、少し前に二階の窓から覗いた空は雲が重く灰色の闇となり市街地に圧しかかっている。だから、わざわざ口に出していうまでもなかったかもしれない。

「そだね、こっちでも今降ってるし……」

 ディーも自宅で外の天候を確認したようだ。

「とんでもなく広いところとか、逆にすっごく狭くて騒がしい室内公園じゃない限り、演奏会は延期だね」

 実際的な口調だ。それで、

「じゃ、遊びに行こうか? キミのウチへ……」

 と、ぼくが水を向けると、

「えーっ、でもそれじゃ、面白くないわ」

 とディーが答える。

「じゃあ、前みたいに普通にデートはどう? 映画館でも行く?」

「うーん」

「どうなのさ?」

「街で偶然に会おう!」

「それでもいいけど、遭えなかったら寒いよ。……ヒントはくれるの?」

「すぐには思いつかないわ」

「また、買い物を頼もうか?」

「また、お買い物に行く?」

 電話の向こうとこちら側から異音同曲の声が聞こえる。

「あのねぇ」

「あのさぁ」

 それに対する応答も似たようなもので、

「でもまぁ、案外平気かもしれないね!」

 と、まったく珍しいことに、ぼくがそう口にすると、

「うん、きっとそうだよ!」

 ディーにも異存はないようだ。


「あんなこといって、本当に自信があるの?」

 出かける準備をして二階の自室から降りてくると階段の下――玄関の前――で母さんが問う。

「いったい何処に向かう気?」

 ちょっと興味津々のようだ。

「まだ決めてないけど」

 ぼくが答える。

「でも最終的にはウチに戻ってくると思うよ」

「そりゃぁ、そうでしょう? あなたの家なんだから……」

 呆れたように母さんが言う。そして、

「前貸しよ」

 と呟き、ぼくに紙幣を握らせる。

「ありがとう。じゃ、行ってきまーす!」

「行ってらっしゃい。風邪、罹(ひ)かないでね」

 玄関ドアを開けたとき家の中に舞い込んだ疾風は確かに頬を切るように冷たい。


 きっとそこにいるだろう、と予想して出かけた渋谷の方のハンドメイドショップで一時間近くウロウロしていたのにディーに会えなくて、ぼくはちょっと焦っている。

 そのハンドメイドショップ系列店の現在の本店は渋谷店だが、最初の店舗は一九七六年十一月開店の藤沢店(二〇〇六年十二月閉店)だ。だから、その可能性がないこともないが、ディーがそんなことまで調べてその方向に向かうとは、ぼくにはちょっと思えない。……とすると、仮にハンドメイドショップに拘るのであれば、ぼくたちが最初に出遭った場所に比較的近い第二号店の二子玉川店(現在はない。一九七七年十一月開店、再開発事業の進展にともない閉店。跡地の二子玉川ライズ内にロフトが出店)近傍の玉川ショッピングモール内かなとも思われたが、どうにも判断がつかない。

 そこで、いったん渋谷駅まで戻ろうと、まず複合文化施設の方に向かい、もう場所を移してしまったけれど、浅草に本店がある老舗のどじょう屋さんの支店がかつてあった辺りでセンター街に抜ける通りに進む。串焼屋さんやイタリア料理店が軒を連ね、その向かいには台湾料理店やうどん屋さんなんかが並ぶその通りを抜け道していると、

「あーっ!」

「いたーっ!」

 通りの反対側からディーがやってきて二人で叫声をあげる。

「もしかしてハンドメイドショップに向かってた?」

 ぼくが訊くと、

「じゃ、それで当たりだったんだぁ!」

 ディーが答える。

「遅いよ」

「キミが早過ぎるんだよ」

 互いに進んで合流する。

「で、キミはあそこに用はあるの?」

 そちらの方向に首をまわしながらディーに問うと、

「ショップ自体には用はないわ。まぁ、寄ってもいいけど……」

 ディーが答える。腕時計を見て急に思いついたように、

「ねっ、十二時にはまだだいぶ間があるけど、お昼にしない?」

「それは構わないけど、もしかして……」

 と、また後ろを振り返り、視線を十字路左側に向ける。

「あそこからは引っ越しちゃったけど、どぜう屋さん?」

「うわっ、今日はどうしたんだろう? めちゃっくちゃ、大当りだわ!」

「きみのご家族も好きなんだ?」

「どちらかというと、マママがね」

「ウチの方も母さんだよ。しばらく食べてないと、『ああ、食べたい! 食べたい!』ってぼやくいうくせに、でも実際に食べに行った後は、『ああ、もうしばらくいいや』だもん」

「まぁ、ちょっと忘れられないくらい、お味噌が甘いからねぇ」

 二人して笑う。それは、まるで幸せな幼い恋人同士のようだ。

「行く?」

「太るよ!」

「またぁ、そういうことをいう!」

「ゴメン、ゴメン」

 ということで客が込み合う土曜日の昼時間の前に京王井の頭線・渋谷駅南のテナントビル四階を目指す。最初は子供だけで入店するのに気後れしてしまったけれど、お店のおかみさんがぼくとディーのことをそれぞれ憶えていてくれて急に気が楽になる。

「でも、お二人がお友だちだとは知らなかったわ」

「ええ、少し前から家族ぐるみのお付き合いなんです」

 乙に澄ましてディーが答える。

 やはり冷たい雨の影響なのか、お昼が近づいても店舗内は押し合い圧し合いという状態にまで混雑しない。

「あ~ッ、お腹いっぱい! キミのお母さまと一緒で、わたしも、これでしばらくいいや」

「そだね!」

 二人で美味しく泥鰌鍋をいただいた後でディーが感想を述べ、ぼくが同意する。

「やっぱ、寒いよね」

「十二月だからねぇ」

 大きい方のぼくの傘で相合傘しながら渋谷の街をうろつく。

「ゲーセンでも行く?」

「キミとは、そういうとこ行ったことないね。まぁ、仕方ないけど……」

「でも、どっか入らないと凍えるよ」

「『手』がみたいな……」

「手って?」

「画も工芸品も、たくさんあるところよ」

「あっ、そうか! わかった、じゃあ、まず駅だね」

 東京メトロ半蔵門線で九段下駅まで行き、そこで東西線に乗り換え竹橋駅で下りようとすると、

「あっ、気が変わった!」

「えっ?」

 ディーが言い、ぼくのコートの背を引っ張り、乗車口からぼくを引き離す。

「どうしたいのさ?」

「まぁまぁまぁまあ……」

 結局、西葛西駅で降り、ありがたいことにターミナルに停車していて、しかもすぐに発車したバスに乗って目的地に向かう。

 葛西臨海水族園に到着したときには午後の一時半近くだ。

 ここは東京都が運営する水族館で、開園は一九八九年。同様に東京都に運営される園には、恩賜上野動物園、多摩動物公園、井の頭自然文化園などがある。

 エントランスに入ってからエスカレーターで二階に降り、まず大洋の航海者の水槽で、アカシュモクザメ、スミツキザメ、ツマグロ、ウシバナトビエイ、ついで太平洋の二つの水槽で、オールドワイフ、サザングローブフィッシュ、シャイナーサーフパーチ、ナーサリーフィッシュ、ヒカリキンメダイ、ブルーデビル、ベスチャンチョ、ホンソメワケベラ、メガネモチノウオ、レモンバタフライフィッシュ、ついでインド洋の水槽で、イシナマコ、オオクモヒトデ、キンギョハナダイ、ゴールデンバタフライフィッシュ、ソハールサージャンフィッシュ、ヒメコンベ、ヘコアユ、ホンソメワケベラ(さっきもいたぞ!)、ミナミハコフグ、リーフィシードラゴン、ついで大西海の水槽で、アマモ、グースフィッシュ、シルバーボーギ、ターボット、バスケットスター、プレイス、ペスコチェロ、ランプサッカー、レッドフィンガーズ、ロアデルジェ、ついでカリブ海の水槽で、クィーンエンゼルフィッシュ、ジャックナイフフィッシュ、スパニッシュホグフィッシュ、ハイノット、バターハムレット、パンデッドバタフライフィッシュ、ブルークロミス、ブルータング、フレンチグラント、ロックビューティー、ついで深海の生物の水槽で、スポッテッドラットフィッシュ、オキナエビスガイ、キンメダイ、ジャイアントアイソポッド、タチウオ、トゲクモヒトデ、トリノアシ、パラオオウムガイ、マトウダイ、ムツ、ついで北極・南極の海の水槽で、ブルヘッドソトセン、アークティックアイソポッド、アークティックコッド、アカキタトサカ、アンタークティックリンペット、イボダンゴ、オレンジフッテッドシーキューカンバー、キタクシノハクモヒトデ、グリブトノートュスアンタルティクス、ダスキーノトセン、ついで渚の生物の水槽で、アカエイ、イソガニ、イトマキヒトデ、キタマクラ、クサフグ、クロダイ、コノシロ、ニシキベラ、ネコザメ、ネンブツダイ、ヒザラガイ、ボラ、マダイ、マダコ、マハゼ、ムラサキウニ、ついでペンギンの生態の区画で、イワトビペンギン、フンボルトペンギン、ついで海藻の林の水槽で、ガリバルディ、カリフォルニアシーキューカンバー、ケルプバス、ジャイアントグリーンアネモネ、ストライプトサーフパーチ、バーミリオンロックフィッシ、バットスター、フィッシュイーティングアネモネ、ブルーロックフィッシュ、レッドターバンスネイル、ついで東京の海・伊豆七島の海の水槽で、ウメイロモドキ、キンギョハナダイ、キンチャクダイ、クマノミ、クロホシイシモチ、ケヤリムシ、タマカエルウオ、テングダイ、ホンソメワケベラ、レンテンヤッコ、ついで東京湾の生物の水槽で、イシガレイ、コウイカ、タコノマクラ、トビハゼ、ヒトデ、ホウボウ、ボラ、マアジ、マイワシ、マナマコ、さらに、それらの東京湾関連の水槽を上から覗けるキャットウォーク(?)から覗き込み、さらにそこに置かれた、ヨウジウオ、ツノモエビ、タツノオトシゴ、ホンヤドカリ、マナマコ、メリベウミウシ、アユの幼魚、アラムシロ、ニホンイサザアミ、シラタエビ、クルメサヨリなどの各種水槽を観察し、同じ場所だが干潟の浄化作用を助ける生物の水槽類で、アサリ、ミズヒキゴカイ、エドハゼを見て、その後、実験水槽で、ミズクラゲの成体ポリプや幼体エフィラ、サザエ、コシダカガンガラ、そしてウミホタルの発光実験を楽しみ、最後に海鳥の生態の区画で、エトピリカ、ウミガラス、クロソイ、イエローアイロックフィッシュ、フサギンポを鑑賞すると、すっかり二人ともくたびれてしまう。

 昼食はすでに摂っていたので、金魚満載のレストラン・シーウインドはスルーして二階に上がり、ギフトショップ・アクアマリンを冷やかす。いつこの水族園を訪れても圧倒されるマグロの大群――ただし、その大水槽の前では必ずといって良いくらい『美味しそう!』という囁きが聞かれる――やハンマーシェイプのシュモクザメ、前後に遊覧するコウイカはなかったが同色系のタコなどが、これでもかと感じるほど可愛くヌイグルミ化されて売られている。

「どれか欲しい?」

 ぼくがディーに問うと、

「今日はもう散財したからねぇ」

 そんな返事が返ってくる。

「でもキミがわたしにどうしてもプレゼントしたいんだったら、ピンクのシュモクザメを貰うわ」

 とディーが宣(のたま)うので、ぼくは母さんに感謝しながらディーにピンクのシュモクザメをプレゼントする。

「キミは要らないの? 買ってあげるわよ!」

「いや、次にする」

 ついで、ぬいぐるみ自体が目立つようにラッピングされたそのラッピング形状を目の当たりにし、

「これを抱いて、バスに乗って、電車に乗って、道を歩いて、家に帰るのか、わたしは?」

 とディーが少々複雑な表情を浮かべるので、

「ところで今三時半だから、ギリギリ『手』の方にも間に合うかもしれないよ?」

 と、ぼくが指摘すると、

「さらにピンクのシュモクザメを抱えて近代美術館をまわるわけぇ……。頭が痛くなってきたわ!」

「いいじゃない、可愛いし……」

「ありがとう。……でも美術館は遠慮するわ。次にする」

 それから急に閃いたらくし、

「あっ、なーんだ! ナイトのキミに、これを持ってもらえばいいわけだ!」

 そう言うとピンクのシュモクザメのぬいぐるみ(ラッピング済)を、

「はい、これ!」

 と、ぼくに手渡す。

「えーっ、でも、ぼくが持ってると似合わないよ」

「そんなことないんじゃない? かわいーわよ!」

 ニコニコしながらディーが答える。それから、

「えっと、もう一回、あれとあれとあれが見たい!」

 とディーが望むので、ぼくたちは水族園を再周回。それが終わり、

「じゃ、そろそろ帰ろうか?」

「じゃ、そろそろ帰ろうか?」

 と意見が一致したところで、

「ところで今日はどうしてもキミをウチに連れて来いってマママにねだられてるのよ」

 と、ディーが告げる。

「都合、悪い?」

「悪くはないけど、ウチに連絡しなきゃね。母さんは、きっとぼくがキミを連れて帰ると思ってるから……」

「まぁ、わたしはどっちでもいいんだけど……」

 ディーの携帯を借り、ぼくが自宅に連絡すると、

「あっそう。そういう話なら、行ってらっしゃい。ウチは構わないわよ。どうせ今日は父さんもいないし……」

 あっさりと母さんが同意するので、ちょっと拍子抜けしてしまう。

「ねぇ。キミのマママさんとウチの母さん、どこか似てない?」

 不意にそう思えたので考えもなく口にすると、

「うーん、よくわからないなぁ」

 とディーが首を捻る。またその答えを聞くと、ぼくの方も、

「まぁでも、ちょっとそう思っただけだから……」

 と本当にそうなのかどうか、もうわからなくなってしまう。

 結局、少し寄り道して午後七時過ぎにディーのお宅にお邪魔する。

「あら、いらっしゃいな」

「また、来てしまいました」

「今日も泊まってく?」

「なんか、ちょっと怖いので遠慮しときます」

「そう、残念ね」

 そう言ってマママさんが緩やかに微笑む。

「お父さまとお母さまは、お変わりなく?」

「先週、会ったばかりじゃないの?」

「でも、風邪罹(ひ)く場合だってあるでしょう?」

「ええ、両方とも健在です。それぞれ散歩が趣味なところが良いのかもしれません」

「そうねぇ、動くのは健康管理には一番かもしれないわね」

 夕食はけっこう手間のかかるビーフシチュー――ただし、野菜の具も大量――で、ディーによると、久しぶりの肉料理メニューということだ。

「いいのよ。ちょっと時間ができたんだから……。それに、こないだの精進料理みたいなのじゃ、足りないでしょう?」

 さらに伺ってみると、静子お祖母さんも――量は摂らないけれども――マママさんのそのメニューが好物だとわかる。

「羽衣子(ういこ)に食事を任せるときは、なんでも喜んでいただきますわ」

 その言葉から想像できるように実際、静子お祖母さんがご飯を担当することも多いらしい。

「もちろん、わたしだってするけどね」

 と慌ててディーも付け加える。

 そういえば、ディーの家族は女性だけの三人だ。

 その日は、それからしばらく団欒後、あっさりとぼくは家路に着く。

 その数時間後、ついに最後の夜が訪れる。

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