37 魔との対決
その後の食事会では特に心配するようなことは起こらず、けれどもそのことがぼくの中でわずかな蟠(わだかま)りを形成している。
それとは別に、ちょっと不思議な感じがしたのは、ぼくの母さんも、それにディーのマママさんも、いつもより口数が少ないように思えたことだ。もちろん普通に会話はしていたし、ぼおっとして上の空といった素振りがあったわけでもないが……。勘ぐれば、それぞれの子供たちをそれぞれのやり方で心配して共鳴したと思えなくもないが、実際のところ、それが何を意味するのかはわからない。
家族同士の食事会で収穫があったといえば、ディーのお祖母さんの名前が静子(しずこ)さんと知れたことかもしれない。それがどうしたのさ、と問われると困ってしまうが、お祖母さんの雰囲気とその名前の一致が素敵だと感じ、それで少し嬉しくなったと表現すれば、わかってもらえるだろうか?
開けて月曜日に、それが起こる。
その年の冬は例年に比べれば寒さが穏やかで、その日の昼間は風が強かったけれど、特に冷え込むということはない。
ぼくが帰宅クラブして家に帰ると固定電話が鳴る。出ると、
「いいかげんにスマホか、せめて携帯にしたら? 秘密にしておきたいことだってあるのに……」
電話の声の主はディーだ。
「なんか用?」
「会いたいんだけど、来られる?」
「いいけど……」
時計を見ると午後四時過ぎ。
「でも、どうしたの?」
「善福寺公園で待ってるわ!」
電話が切れる。
「誰? あなたの用事?」
母さんが問うので、
「ちょっと出かけてきます。遅くなったら、ごめんなさい」
と答える。
我が家の夕食は通常午後七時から八時くらいに設定されている。それで、そう断りを入れたのだ。
「わかったわ。父さんは今日、どっちみち遅いし……」
母さんが指摘。
「気をつけて、いってらっしゃい」
首を捻りながら、ぼくは家を後にする。
夜に演奏会をするとも思えなかったが、一応エレピは持って出かける。どちらが速いか思案して、自転車ではなく、電車で公園に向かうことに決める。
京王井の頭線・吉祥寺駅に着いたのは午後五時前だ。商店街を抜け、宮本小路からは歩かずに善福寺公園まで走る。
ディーがいたのは、しかしその善福寺公園ではなく、その北西側の善福寺北緑地、段差が一段高くなった広場の方だ。ぼくに気づいて、それまで坐っていたベンチから立ち上がる。
「思ったより早かったわね」
ディーが言う。
「でも、ちょっと待たされたわ」
「どうしたのさ?」
ぼくが問うと、
「別にどうもしないよ。ただ、会いたかっただけ……」
優しく微笑みながら、そう答える。
そのときすでに、ぼくは薄々気づいていたのかもしれない。でもまだ、それが確信となって心の表面には現れてはいない。だから、びっくりしてしまったのだ。
二人してベンチに腰を下ろすとディーがぼくにしなだれかかってくる。肩の上に頭を乗せてきたのだ。緑地内を散策する人が皆無だったわけではないけれど、ぼくたちの近くには誰も人がいない。しばらくは、そのままゆっくりと時が流れる。実際のところ、ぼくはどう対応して良いかわからなかったので、ディーの温もりを感じながら、安心したように目を瞑っている。しばらくするとディーの細くて長いしなやかな指が、ぼくのコートの中に潜(もぐ)り込んでくる。タートルネックのシャツの上から腹筋を探ったり、ジーンズの腿の辺りを行ったり来たりする。そこまでは別にどうということはない。が、次にディーがジーンズのチャックを開け、その中に指を入れようとするものだから、ぼくはぎょっとして、その手を掴むと慌てて引き離す。
「いいじゃないの、ケチ!」
ディーが叫ぶ。
「他のお姉さんとは喜んでしたくせに、わたしには触らせもしないのね!」
「ねぇ、ちょっと待ってよ!」
「わたしはキミより年上だし、経験も豊富だから、任せておけばいいのよ」
「あの……」
「気分的に遊んでみたいときがあるのよ。それくらい憶えておきなさいな、小さな彼氏くん」
ディーのその言動に、ぼくは自分の言葉を失ってしまう。呆然とする。全然寒くなかったその冬の夜に、身体中から、すべての熱が引いていく。ぼくの身体が急速に冷凍されてしまう。そしてすぐ、ぼくが氷になる。ぼくの身体のすべての器官が白く凍りつく。まったく動くことができなくなる。いつの間にか溢れ出した涙が、ぼくの目蓋や眉毛の上でパリパリとした結晶を形作る。
「なんだ、つまらない!」
そんなぼくの様子を見てディーが冷ややかにいい放つ。
「いいわ……。遊ばせてくれないんだったら、もう帰る!」
さらに追い討ちをかけるように言い放つ。
ついで彼女が立ち上がろうとする。おそらく颯爽と立ち上がって踵を返して去ってゆくつもりだったのだろう。どこまでも冷淡に……。
が、次の瞬間、彼女は脚を絡ませて転んでいる。それから立ち上がろうとしては転び、転んではまた立ち上がる。それで、ぼくはやっと悟る。感じていた疑念の正体がはっきり掴める。けれども情けないことに、ぼくはまだ自分の身体を動かすことができない。氷が溶融しないのだ。やがて、ぼくの耳に声が届く。それはディー自身の悲痛な叫び声。
「お願い、やめて!」
彼女が言う。
「彼を攻撃対象にしないで……」
どうにか身体の、声の制御を取り戻すと、ディーが続ける。
「わたしが欲しいなら、あなたにあげるわ! だから彼には手を出さないで……」
その言葉に、ぼくを襲った呪縛が解ける。
頭をふらつかせながらもその場に留まっていたディーの両手首を掴んで下に引いてシャンとさせ、瞳の中の魔に向かって叫ぶ。
「出て行け! たった今、彼女の中から出て行け!」
「おまえは弱いぞ、草間大作。この女の方がずっと強い!」
ディーの口から魔が言葉を返す。
「だが、この女は自ら己の弱点を作った。それがおまえだ。おまえはディーを救えない。更に蕗子を救うことなど夢物語だ。早く去れ! この女から立ち去って行くのは、おまえの方だ。この女ひとりならば、いずれはわしを毀すことができるかもしれぬ。が、おまえがいる間は、この女に、それは無理だ。さぁ、どうする? おまえはこの女が好きなんだろう? この女をこの女自身として自由に生を全うさせたいのだろう? ならば去れ! 離れよ! この女の元から永遠に去るのだ!」
その言葉の直後、ぼくは悲痛な想いを込めて、ディーに取り付いた魔の横顔を張る。
次の瞬間、魔は去り、ディーが戻ってくる。目付きが変わったので、それがわかる。
戻ってきたディーの左頬は赤く腫れている。ぼくの目から再び涙が溢れ出す。しばらくは二人とも言葉を発することができない。
そして――
ぼくたちは手を繋ぎ、夜の道をとぼとぼと吉祥寺駅に向かって歩く。繁華街の喧騒がぼくたち二人を大きく包み、街灯や各種イルミネーションが眩しいながらも優しくぼくたち二人の頬を照らす。無言でJR線に乗り、荻窪駅で降り、ディーのウチを目指す。その頃には二人とも、もうどうして良いかわからないという気持ちではなくなっている。すでに結論は出たのだ。ぼくたちはただの恋人ではない。二人でひとつなのだ。分かつことはできないのだ。それなのにディーは自宅の明かりを確認すると、ぼくにこう告げる。
「わたしを、キミの傍らに置いてくれなくてもいいのよ! もう充分、わたしは幸せだったから……」
だから、ぼくもこう応える。
「ぼくは、ぼくの意思でキミの傍らにいるんだ。それは、ぼくの勝手だ!」
「また起こるわよ、きっと。さらに何回でも……」
「大丈夫! 可哀想なのは魔の方さ。ぼくが何度でも追い払ってやる。でも……」
とディーの左頬に、ぼくは自分の右掌をそっとあてがって言う。
「まだ腫れてるみたいだね。痛かったでしょう? ごめんね」
ディーの瞳を涙が覆う。
「ううん、いいのよ。キミの気持ちを感じたから……。ありがとう」
それから悲しげな笑みを浮かべ、ぼくに向き直り、
「キミは強くなったよ。きっと少し前のキミだったら、あんなことはできなかったと思う」
ぼくは、わずかに首を傾げて同様に微笑み返しながら、ディーに首肯く。
そしてディーが、
「今日はありがとう」
ぼくに別れの言葉を告げる。
「もう平気、大丈夫!」
そしてマママさんと静子お祖母さんの待つ自分の家へ帰っていく。
ぼくは彼女の姿が玄関の中に消えるまで、その姿をじっと見送る。
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