36 ディーの元カレ
それから結局、午後三時少し前に散会するまで、ぼくはディーと白崎ご夫妻との食事会の闖入者として振舞う。
その後、ディーと二人きりになると、
「すごい信頼を受けているんだね、キミは……」
ぼくが言い、
「わたしは慣れているからいいけど、キミには辛かったでしょう?」
とディーがぼくを気づかう。
「大丈夫! ぼくは平気だよ。もっとも、昨日の夜はちょっと危なかったんだけど……」
するとディーの顔付きが一瞬蒼白になる。けれども、すぐにいつもの表情を取り戻し、
「そうね、陶子さんにも紳士だっていわれていたし……。わたしが見くびっているのね」
そんなふうに言葉を続ける。
「いつからなの?」
ぼくが問うと、
「あれが起こって、最初一月ほど取り乱していて、その後症状がいくらか退いてから、ご主人に頼まれたわ」
ディーが答える。
「キミはちゃんと引き受けているじゃないか!」
ぼくが言う。
「贖罪の方法がわからないなんて誰にもいわれる筋合いもないよ」
「でも、わたしの中では違うのよ。白崎家――というより陶子さん――とのお付き合いは、彰彦の死から派生したひとつの不幸に対する対応……っていうか、わたしなりの協力だわ」
「自分に対して厳し過ぎない?」
「そうかもね? それに、わたしが近くにいると陶子さんの症状は良くならないかもしれないし……」
「そんなことはないと思うけど」
「うん、でもわたしにはわからない」
それから屈託のない大きな声で、
「あーあっ、わからないことが多過ぎるわ!」
と言い、その場で大きく伸びをする。
「情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」
「最初のはないわけね」
「まだ働いていないからね。でも対決してみようかな? キミもいるし、それに彰彦の方も、さっきキミを認識したし……」
「あそこにいたわけ?」
「まぁ、近くにね。……でも、それは偶然なのよ。彼を慕って後追い自殺した彼女のことが死んだ後の未練になって彰彦は天に還れないのよ」
ディーが言うその経緯は以前事件について調べたとき、事後情報として得ている。
「その彼女のお墓があの区画の近くにあって……」
「モテモテじゃん」
ちょっとムッとする。
「キミがその彼と恋に落ちただなんて、ぼくには事故だったとしか思えないよ」
「あら、はじめて嫉妬してくれるの?」
「そういうんじゃないけど……」
「キミだって、わたしを卒業したら、また誰かを好きになるわよ」
「見当がつかないよ」
「じゃあ、わたしがいま置かれている状況に耐え切れなくなって自殺してしまったら、キミは一生わたしを思い続ける気なの?」
「今はそうだけど……」
「え?」
「驚かないでよ! ひどいなぁ」
「ああ、ごめんなさい。でも、そんなことしてたら不幸なだけよ」
「ぼくの方は今キミと無理やり引き離されたら喪失感で何も手につかなくなるだろうって感じてるのに、キミの方はぼくを残して自殺することが想像できるんだ!」
口に出したら、さらにムッとする。
「さっき、キミはぼくのことを彼氏っていってくれたじゃないか」
「だって、それは本当だもの」
「うーん」
「今度はキミの方がそれを信じてくれないわけ? わたしはあなたのお姉さんじゃないのよ。もしかしたらこの先家族になるかもしれないけど、いまはまだ家族じゃない。キミが好きだから、わたしはキミと一緒にいるんだよ」
「だって、キミはぼくに何も望まないじゃないか! ただ傍にいてくれっていうばかりで……」
「だって、それがわたしの願いだから、そういってるまでじゃないの? わたしはキミからのお節介も施しも、そんなものはいらないわ!」
「それじゃぁ、ぼくに何もするなっていっているように聞こえるよ!」
「そんなことはないよ! キミはわたしのために歌詞を書いてくれた。わたしの目論見のために、わたしの中から曲を引き出してくれた。わたしは、そんなことまでは――キミの近くにわたしを置いてくれる以上のことを願うのは申しわけなくて――望まなかったけれど、キミは自主的にそうしてくれたわ。それなのに、今みたいなことを口にするなんて……」
けれどもディーは涙を見せない。
「でも喧嘩している場合じゃないわね。陽が暮れる前に行ってみましょうか?」
「わかった。キミの頼みを引き受けるよ」
雑司が谷霊園に戻ったときには午後四時近い。十二月の日没は早いから五時にはすっかり真っ暗になっているだろう。幽霊を信じているわけではないが、そんな時間に霊園内にいるのは普通にぞっとしない。
空が紅く染まり、大気がいっそう冷気を孕む中、霊園と外界を隔てる高速高架側の塀に程近い一本の桐の木の近くまで歩み寄り、ディーが、
「彰彦、出てらっしゃいよ!」
その木の方向に向かって声をかける。
「いるんでしょ。さぁ、出てらっしゃい!」
それからディーの一人舞台がはじまる。
「えーっ、それは逆恨みよ! いいじゃない、今のわたしに彼氏がいたって……。伝えたいんなら直接、彼にいえばいいのよ! 知ってるわよ、そんなこと……。相変わらず、勢いだけの人なのね。わたしの恥ずかしい話をすれば、あなただって恥ずかしい思いをすることになるわよ。せっかく、お母さまの陶子さんが来てらっしゃるのに、詩織(しおり)さんのお墓に釘付けになっていなくたっていいじゃない? え、そりゃ、人によっては動ける距離が制限されるってことは聞いてるけど、陶子さんの方さえ見なかったでしょう。それに、あなたは霊園内に全然縛られずに移動できるくせに……。わかるわよ、そんなこと! まっくぅ……。ええ、そうよ。いい機会だから、成仏させてあげるわよ。えっ、わたしには無理だって? そんなことないわよ! 彼と一緒だったら、きっと上手くできるわよ。えーっ、成仏したくないの? なんでぇ? ばっかじゃない! いつまでもこの世に残っていると地の底か、空の果てか、海の奥底に潜む悪魔みたいな精神集合体に取り込まれてしまうわよ。あなたなんか存在感薄いんだから、ちょっとでも関心を持たれたら、それこそ一巻の終わりね。ええ、それはもちろん、実際に見たことはないけど……。だけど、そうじゃないと辻褄が合わないし……」
そこで、いったん会話が途切れる。それからディーが諦めたように、
「でもまぁ、あなた自身が望まないんなら、無理強いはしないわ。じゃあね」
と元カレとの会話を終了。
次にディーは若干場所を移動し、彼女の元カレを慕って後追い自殺した女生徒のところに向かう。風が冷たく、空はすでに濃い黄昏色に染まっている。
「お久しぶりね、詩織さん。うん、そうね、まぁ、それはわかるけれど……。でももう決心して天に還った方がいいわよ。あの人の何所がいいのよ、なんて野暮なことはいわないけど……。まぁ、確かに心をくすぐられるところはあるのよねぇ。わたしだって良く知ってるのよ、彼のことは……。でも未練はよくないわ。あなたが天に還らないと、あなたのお父さまとお母さまの心の中で、あなたが思い出にならないから……。それがひとつの理由。あなただって、ご両親を苦しめ続けたくはないでしょう? それに、あなたと彼の間には、実際何の関係もなかったじゃないの! 知ってるのよ、わたしは……。わたしと付き合っているときに彰彦があなたと――それに、あんまりいいたくないけど他の人とも――浮気していたのはね。でも、あなたは彼の部屋で裸にまでなりながら、最後には怖くて彼を拒んだっていうじゃないの? 彰彦から聞いたわよ。えっ、でもそれが彼の優しさですって……。まぁ、そういう気持ちもわからないではないけど。でもねぇ、別の言葉ではそれを臆病ともいうのよ。……っていうか、だいたい普通に秘密にしておくんじゃないかしら? そのときのあなたの気持ちを本当に慮(おもんぱか)っていたのなら? でも明彦は問い詰められると、すぐにわたしにペラペラと打ち明けたのよ。なんか、それを聞いているこっちの方が情けなくなってしまったわ。……それでね、詩織さん、ちょっとかわいそうだとは思ったんだけど、今日は、あなたにそのことも伝えに来たのよ。えっ、自分だけずるいですって? そうでも、あなたにだって見えるでしょう? わたしの中に魔が潜んでいるのが……。いい訳はしないけれど、わたしにできるのは、これが精一杯。……え? そう! うんうん。そう、わかってくれたの! ありがとう! 大丈夫よ、怖くはないわ。それに、あなたのここに残りたいっていう気持ちの方が強ければ、わたしたちがどんなに後ろを押したって、あなたはここに残ることになる。そういうものなのよ。詳しいシステムとかメカニズムとかは、わたしには見当もつかないけど、どうやらそんなふうになっているようなの。だって、わたしがはじめてってわけじゃないんだもの……」
それから――
「え、そうなの? あーっ、聞こえてたんだぁー。ここまで……。わかったわ!」
ついで――
「おーい、伴奏をお願いするわ!」
やっと、ぼくの出番となる。
「リクエストは『虚空の音符』よ。前に公園でやったときの音が、ここまで聞こえてきたんですって……」
「OK! 準備完了です」
ぼくが答える。
「では、はじめます」
厳かにディーが彼女に告げ、ぼくたち二人の楽曲がその場で披露される。
虚空の音符
わずかな隙間まで、入り込むメロディー
わたしの皮膚温度を、快適に保つ
過ぎたことが無にならないなら
せめて罪を音で満たそう
掴むことができるのは虚空の音符だけ
湖の向こうで微笑んでいる影が、形をぼかし、揺れて……
しずかな谷間まで 染みてゆくメロディー
わたしの皮膚温度を、快適に保つ
飽きることが許されないなら
せめて傷を音で癒そう
捜すことができるのは虚空の音符だけ
大空の遥かで微笑んでいる影が、光を浴びて、揺れて……
道がいくつにも分かれ、わたしを戸惑わせる
迷い立ちしても、転んでも、見守っていてくれますか?
かすかな想いまで 包み込むメロディー
わたしの皮膚温度を、快適に保つ
叫ぶことが選ばれないなら
せめてキミを音で飾ろう
包むことができるのは虚空の音符だけ
生垣(いけがき)の外(はず)れで微笑んでいる影が、困ったように、揺れて……
曲の終盤に差しかかるにつれ、ディーが空を見上げて視線をどんどん上に上げていくから、ぼくには目に見えずかつ耳にも聞こえなかった彼女が、天に還る決心をしたことがわかる。
空には星が現れはじめている。
「ありがとう。でも選んだのは、詩織さん、あなたの方よ。わたしに感謝なんていらないわ。では、さようなら……。永遠に……」
それから、やっぱりぼくには見えないかつての恋人のいるはずの方向に向き直り、
「あなたはどうするの、彰彦さん?」
と問いかける。
「あなたの未練の方は、あなたへの未練を断ち切って天に還っていったわよ。え、何? えっー、うそ、おっしゃい。あなたには陶子さんに対する思いなんてないじゃない。わたしが何回、陶子さんとここを訪れているのか知らないわけじゃないでしょう。そうよ、あなたのことは何でもわかるのよ。三年前、わたしはあなたの恋人だったんですからね。まさか、忘れていないわよね! あなたのことは実際、いろんな欠点も含めて好きだったわ。当事はね……。だから、あなたのことなんて、すべて、何でも、全面的に、お見通しよ!」
けれどもディーの元カレは、そのとき彼女に同意しなかったようだ。
そのうち霊園の管理人さんたちが数人現れ、ぼくたちは事務所まで補導……というか、連行されてしまう。遠くから聞こえた楽曲自体は素晴らしかったと慰められるが……。ディーのそれに先立つ行動は目撃されなかったようで、一先ずぼくがほっと胸を撫ぜ下ろす。その後、しかし規則は規則だと注意を受ける。それでしかるべき帳面に名前を記載され、それぞれの保護者に電話で本人たちであることを確認され、やっとぼくたち二人が解放される。
その後、ディーがマママさんから連絡を受け、ぼくの両親が同意するなら、両家族で会食をしないかと持ちかけられる。ぼくが両親に連絡すると、二人とも面白そうだと同意してくれる。場所は原宿駅近くの南国酒家に決まる。……というか、マママさんが二家族会食の件を持ち出したのは、その日その場所で予定されていた演出家や役者さんとの顔見せと打ち合わせ予定が急にキャンセルになってしまったからだとわかる。
約束の場所に向かう途中、
「今日は、食事に関しては贅沢だね」
と、ぼくが言うと、
「やだなぁ、太っちゃうよ。あそこのフカヒレスープとかメチャ美味しいんだもの。きっと止まらずに食べ続けるわ」
「でも、キミの元カレに曲を聴かせられなくなっちゃったね。あの場所での次の楽器演奏は無理だよなぁ……」
するとディーはとても逞しげな表情を浮かべ、自信を込めてぼくに告げる。
「大丈夫よ、最初に断ればいいんだから……。五分でいいですから曲を捧げさせてくださいっていえば、きっと管理人さんたちだって、見て見ぬ振りをしてくれると思うよ」
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