35 ひとつの事実
ほどではないが、歩道が狭いのに人通りが多いのも、その怖さを増長させる。その通りで、洋モノ食器屋店舗内の机にちょこんと座った結構巨大なシャムネコを発見したり、そことは違う場所で野良猫がさも忙しそうにそそくさと立ち去るさまを目撃したりしながら、高田馬場駅のところで山手線に沿って先に進みながら経路を新目白通りに換え、それから明治通りに左折し、学習院大学を左目にやり過ごして今度は目白通りを渡ると地名が雑司が谷に変わる。都電荒川線の鬼子母神駅のところから参道を辿り、至った法明寺鬼子母神堂で一休み。普通に歩いて約二時間の道のりだ。歩いているときは汗ばんでいたが、歩みを止めると一気に冬の寒さに晒される。
鬼子母神(きしもじん/きしもしん)もしくは梵名ハーリティーを音写した訶梨帝母(かりていも)は夜叉毘沙門天(クベーラ)に仕える武将般闍迦(パンチーカ)の妻で、五百人以上の子供の母親でありながら、かつては常に他人の子を捕えて食べてしまうという怖ろしい存在だ。その後、彼女が最も愛していた末子・愛奴児(ピンガーラ)をお釈迦さまに隠され子を失う母親の苦しみを知り、仏教に帰依したと伝えられる。その後は、子供と安産の守り神となる。
境内にあった水道で手を洗い――おお、冷たい!――缶ホットコーヒーで喉を潤すと、そこから少しだけ離れた目的地を目指す。
荒川線の線路沿いにしばらく進み、コープとうきょうのところで道を曲がり、雑司が谷霊園宗祖堂を左目に見ながら舗装路を北東に進んで右折。お花屋さんの辺りから園内に入る。いつもながら空気感が違う。都会にあって、ぐるりを見渡せば高速高架も高層ビルも視界に入るが、それがどうしたという大地からのパワーが感じられる。もっとも実際にはそんな霊力はどこにも存在していなくて、さまざまな縁(えにし)で結ばれた地上や空海の生命体が、その遺伝子指令をただ実行するために相互作用しているだけのことなのかもしれないが……。
と、そこで考えが変わる。
その大いなる潮流からはみ出し、感情という奇妙な情動に突き動かされ、さらには消え去って実在しない過去の出来事の記憶に囚われた人間たちの、それは諦めの叫び声だったのかもしれない、と。
まったく期待していないわけでははなかったけれど、ぼくは霊園内にディーを発見する。いつもよりは地味な色合いのコートに身を包んだディーの傍らには――喪服でこそなかったが――帽子やコートも含めて全身に黒色の衣装を纏った連れがいて、どうやらその連れの墓参りにディーが付き合わされているようだ。
いずれにせよ、邪魔をしては申しわけないと思い、その日の偶然は『奇跡』にはカウントしないで静かにその場を去ろうとする。けれども当然のようにぼくの気配に気づいていたディーが、しかしあまり気乗りがしないという顔つきで、その場所からぼくを手招きしる。それで、ぼくはディーのところに向かおうと決める。二人が立っていたすぐ近くまで歩み寄ると、
「友だちです」
とディーが四十代前半と見受けられる黒づくめの婦人に、ぼくを紹介する。
「……というより、いまでは彼氏なんですけど……」
「あっ、どうも、草間大作と申します」
ディーの紹介を受け、ぼくが婦人に挨拶する。婦人は何処か遠い目をして、
「白崎です。こんにちは」
と、ぼくに自己紹介し、ついでぼくの全身をまじまじと見渡してから、
「蕗子ちゃんの彼氏なのね?」
と驚いたように口にする。ついで、
「とてもお似合いだわ。どこか雰囲気も似てらっしゃるみたいだし……」
そんなふうに指摘されたので、ぼくは婦人に会釈を返す。
そのとき一瞬沈黙が訪れたが、次にまったく唐突に、
「わたしの息子はね、蕗子ちゃんに酷いことをしたんですよ」
白崎夫人が、ぼくに向かって語りはじめる。
「息子は蕗子ちゃんの身体を傷つけてしまったんですよ。他には誰も気がつかなかったかもしれないけれど、わたくしにはちゃんとわかりましたよ。元々は優しい、でも臆病な子供でした。幼い頃には、良く一緒に遊んでいたんですよ、蕗子ちゃんと。小学校の途中で――そんなに離れたところではなかったけれど――引っ越してしまったので、その後はあまり会うことはないと思っていましたのですけど、三年前に偶然出会ったらしいですわね。そして可哀想なことに蕗子ちゃんを傷つけてしまい、そして自分はさっさと死んでしまいました。学校の屋上から身を投げたんですよ。その割には破損の少ないきれいな死体でしたけれどね。でも、その身体から命はすっかりと抜け落ちていましたよ。息子が天に還ったのか、地に落ちたかは、わたくしにはわかりません。あのねぇ、草間さん。わたくしは最初、蕗子ちゃんをとっても呪っていましたのよ。殺してしまいたいほどに強く。だって、そうでしょう? 息子の彰彦(あきひこ)のすぐ近くにいたのにもかかわらず、どうして助けてくれなかったのかしらってね。けれども、その後すぐにわたくしは悟りました。霊安室で蕗子ちゃんに会ったとき、わたくしにはすべてがわかったのです。そして今度は息子の罪の方を呪いました。一人息子だったんですよ。だから現在わたくしたち夫婦には子供がいません。ご近所の皆様方からは、あの後、わたくしが少し気を落ち着かせた後、『まだまだ若いのですから、お子さんだって、きっとまたお出来になりますわ』と慰めていただきましたわ。でも、わたくしにも主人にも、もうそんな気力は残っていなかったんです。きっとまた似たような子供が生まれる。そんなふうに二人は思ってしまったんです。幼馴染みの女の子を平気で傷つけるような、そんな出来損ないの子供がまた生まれて来るって……。そう思ったら、もう駄目なんですよ。希望がどこにも見えないんです。だから、お墓参りをするしかないんです。今では罪も消えて安らかに眠っている、そう信じてあげて、お墓参りをするしかないんです。ねぇ、草間さん。蕗子ちゃんは、本当は厭だったんだと思いますよ。わたくしが無理やり彰彦のお墓参りに誘ったときにはね。でも蕗子ちゃんは、『お供します』って、お返事してくれたわ。わたくしが彰彦もきっと喜ぶだろうからってお願いすると厭な顔ひとつせずに、そう応えてくれたんです。ねぇ、草間さん。あなたは決して蕗子ちゃんを傷つけては駄目よ。彰彦のように酷いことをしてはいけません。もしそんなことをしたら、わたくしがあなたを殺しに行きますからね。どこに隠れていてもきっと見つけ出して、必ずあなたを殺しますわ。でもね、草間さん。たぶん、あなたはわたくしの息子とは違う人のようですから、おそらく、そんなことは起こらないと信じていますけれど……。それでもね、わたくしがあなたを殺しに行くかもしれないことは肝に銘じておいてくださいね」
その後、白崎婦人とディーとぼくの三人で池袋駅近くの喫茶店に入り、それぞれの飲み物を頼んで喉を潤す。当たり障りのないごく普通の会話が続き、婦人は先ほどの独白中にぼくに見せたような遠い目は浮かべず、ごく普通の表情を見せながら終始穏やかに微笑んでいる。そこでしばらく時間を潰していると、ぼくたちの席の前に手にコートを掛けた厚手の背広姿の中年男性が現れる。その人が醸し出す雰囲気から、ぼくはそれが白崎夫人の連れ合いだと気づく。
「いつもすみませんねぇ、蕗子さん」
ディーに向かい、中年男性が感謝の言葉を述べる。
身だしなみに乱れはないが、現れた白崎氏には婦人と同じように日常に倦み疲れた人特有の雰囲気が漂っていて、ぼくの気持ちを寒々とさせる。しかし、その気配は夫人のものよりは薄くて、こちらの感覚を麻痺させるところまでいかない。もしかすると白崎氏(夫)の方には、その倦み疲れた日常の中でこなさなければならない、ペルソナとしての自分を維持させるに充分な仕事があったからかもしれない。
「それで、こちらの方は?」
ぼくの方をチラと見て、白崎氏がディーに問いかける。すると、
「蕗子ちゃんのいい人なのよ」
白崎夫人がご主人に返答する。その一瞬、白崎氏の顔に絶望的な色が浮かぶが、ぼくは気づかない振りをする。
「お墓参りをしているとき、偶然同じ区画にいらしてね、蕗子ちゃんがそわそわしているのに気がついたので、お呼びしたんですよ」
「それはどうも……。白崎です。どうぞ、よろしく」
握手を求められたので、それを受ける。
「草間大作です」
ぼくも自己紹介する。白崎氏の握手は、とても力の込められたものだ。
それから白崎氏はディーとぼくを交互に見て、
「しかし、そういうことなら、蕗子さんをお引止めするのは申し訳ないな。家内の方はわたしが引き受けるので、あなたたちはお二人で出かけられて結構ですよ」
「あら、でも、わたくしはもう少し蕗子ちゃんたちとご一緒したいわ」
「でも陶子。ただでさえ蕗子さんにはご無理してもらっているんだから……」
すると、
「わたしの方は構いませんけど……」
とディーが口を挟む。
「でも彼の方は解放してあげてくださいませんか?」
「きみも誰かの墓参りに来たのかね?」
「いえ、そういうわけでは……」
「きみは幼い顔をしているね。もしかすると、まだ中学生かね?」
そして、どうして良いかわからないという困ったような表情をして見せる。
「きみを見ていると、申し訳ないが、悪いことを思い出してしまいそうなんだ」
「草間さんは、もう立派な紳士ですわ。蕗子ちゃんが選んだ人なのですから……」
そして、ぼくの方を向き、
「わたくし、彼ともう少しお話がしたいわ」
すると白崎氏は何かを悟ったように、
「そうだな、蕗子さんが選んだのなら、二度と悲しいことは起きないかもしれんな」
ぼくに向き直り、
「さっきは子ども扱いして済まなかったね。悪気はなかったんだ。しかし、わたしたち家族のことに、きみまで巻き込みたくない」
そんなふうに語る。すると、
「なんですか、あなた、まるでわたくしたちが悪いことでもしているみたいに……」
婦人が微笑みながら夫の言動を非難する。
瞬間、会話が途切れたところで、ウェイトレスが白崎氏に注文を求める。白崎氏は悩んだ末にシングルモルト・ウィスキーをオーダーする。さらにしばらく考え込んでから、
「ふむ。では草間さんが同意して下さるなら、四人で昼食ということにしたいが、どうv
ディーを盗み見ると断った方が良いという顔つきをしていたが、ぼくは同意することに決める。
「ぼくでよろしければ喜んでご一緒します」
背伸びをしても仕方がないので、『わたくし』とはいわない。けれども、こんなふうには付け加えてみる。
「これも何かの縁(えにし)かもしれませんから……」
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