34 魔の誘い
演奏会を終え、またウチに泊まるかどうか訊いてみたが、ディーは、
「ううん、今日は帰る」
と断り、自ら望んで自宅に帰る。
でもその前に、ぼくたちは翌日会う約束をする。
自分の家に帰って日記をつけてから家族で食卓を囲み、いつものように会話を弾ませながら食事をしている最中、ぼくは急に気持ちが悪くなってきて、あわててトイレに駆け込むことになる。すぐに胃が空っぽになるまで嘔吐する。その後は、まったく食欲が沸いてこない。
それで――
「気分が悪いからしばらく横になります」
と断り、二階に上がる。
部屋のベッドを眺めながら窓をわずかに開けて風を引き入れ、勉強机の椅子に坐る。そこでしばらくじっとしていると手の甲に水が当る。あれ、雨かな、と窓の外を見ると降ってはいない。それで、ぼくは自分が泣いていることに気づいてしまう。ぼくは泣いていたのだ。そう自覚するとさらに涙が溢れてきて、自らの意思では止まらなくなってしまう。身体も震えはじめて膝がガタガタと鳴る。胸が苦しくなる。さらにしばらくすると嗚咽する声が耳に聞こえてくる。啜り泣きだ。ぼくが啜り泣いていたのだ。
全然平気じゃなかったんだ!
ディーがいたから耐えられたんだ!
と、ぼくは悟る。
ディーは、これまでずっとひとりであれに耐えてきたんだ。そして、きちんと折り合いをつけてきたんだ。そう確信する。
だから――
ディーにはぼくなんかいらない!
ぼくなんか全然必要じゃない!
そんなふうに気がついてしまったのだ。
あのときディーはああ言ってくれたけれど、ぼくと出遭う前の三年間、彼女はひとりで何とかしている。有形無形の家族の支えはあったにせよ、ひとりで何とかして日常生活を送ってきたのだ。まったく平気ではなかったかもしれないけど、とにかくひとりで充分耐えてきたのだ。それが今日、あろうことかぼくがディーに潜む魔を呼び出してしまう。おそらく、これまで心の中で続けてきたに違いない会話を隠しようもなくぼくに聞かれたにもかかわらず、自分のことではなく、ぼくの方を癒してくれて……。
だから、わかった!
ディーは、ぼくに何も望んでいない。
た、彼女の傍らにじっとしていて欲しいという一点以外は……。
そう思うと悲しい。骨までも震えはじめる。
それで家でじっとしてしているのに耐えられなくなる。
だから――
「ちょっと出かけてきます」
と夜の街に彷徨い出す。
用水の緑道を進んで丘を登り、消防学校横の公園に至る。
まだそんなに遅くなかったが、人影は疎らだ。ゾウの形の滑り台を眺めながらベンチに坐る。
その日は十二月にしては夜になってもまだ暖かなはずだが、ぼくはブルブルと震えている。またもや目の中に涙が溜まる。吐き気がする。自分が壊れていくのを感じる。すると目の前に誰かが立っている気配がする。ディーの感じではない。顔を挙げると、たしかにそれはディーではない。そこに立っていたのは市川初枝だ。赤いコートを着て、紫のマフラーを首に巻いている。
「こんばんは」
ぼくが掠れた声で挨拶する。挨拶しなければいけないような気がしたからだ。
「夜なのに、どうしたの?」
ぼくが訊く。彼女はただ、こう答える。
「キミたちが土日の恋人たちなのは知っていたから、ちょっと心配になってね。さっき、キミの家に電話したんだ。キミは携帯を持たないから……。するとキミのお母さんが少し前に出かけたって教えてくれて……」
「ほっといてくれればいいよ!」
ぼくが叫ぶ。
「別になんともないから……。大丈夫だから……」
彼女がぼくの左横に腰かける。
「わたしは諦めない方が良かったかな? あのときキミたちは二人でひとつに見えた。だから、わたしは立ち去るしかなかった。でもキミを悲しますようなら、わたしはキミを彼女には渡さない!」
その言葉にぼくは首をまわし、自分の左隣に坐った市川初枝の顔をまじまじと見る。冗談をいっているようではないが、かといって今口に出したことを断固実行するとまでは決めかねていない、といった表情だ。
「物好きな……」
ぼくが答える。そして不意に自分のものが屹(た)ちはじめていることに気がついて吃驚する。不思議に思う。すると彼女が左側からフウワリとぼくの身体を抱きしめる。頬に髪を摺り寄せる。漠然と、とても危険な状況だと、ぼくが他人事のように感じている。が、ここが夜だが冬の公園でまだ良かったとも思っている。市川初枝は家にぼくを訪ねたかもしれない。最近になって数は減ったが、友だちとして一緒に夜を過ごしたことが何度もある。すぐ近所に住んでいたし、幼稚園前には一緒のお風呂にも入っている。勉強をしたり、クラスの出し物の工作を共に拵えたり……。あの頃は二人ともまだ本当の子供。が、時が経ち、彼女はぼくに恋心を抱く自分に気づき、そしてぼくは彼女がきれいになったと感じている。ぼくはディーを自分のものにすることはできない。ディーが、ぼくを傍らに置いてくれるだけだ。市川初枝を、ぼくは恋人にしたいのだろうか? 何故だろう? ぼくのものは固くなっている。ディーといるときに、そうなることは一度もなかったというのに……。もちろん、ぼくは二人がそういう関係だとは思っていない。が、もしそうだとすると、いったいぼくたちはどういう関係なのだ? ダメだ! ダメだ、ダメだ、ダメだ! またしても頭が混乱してくる。自分がバラバラになっていくような状態が見える。自分がいくつもの別の他人に分裂してゆき、それが誰ひとり元の自分には戻らないような……。
すると不意に頭の中に画が浮かぶ。
ベッドで嗚咽しているぼくがいる。そこに市川初枝がやってくる。そんな状況が見えたのだ。しばらく二人で会話をし、彼女がぼくを慰める。そしてすぐさま市川初枝が生まれたままの姿に変わり、会話とは別の方法で更にぼくを慰めようとベッドの中に入ってくる。やがてぼくが彼女の中に押し入って、そしてそのまま激しく睦みあい、ついには果てて……。
と、そこまで想像してみて、どうもおかしいぞ、という気がぼくにする。
そして思い至ったのだ!
これは――常識的には考え難いという明確な自覚はあったが――魔が仕掛けた罠だと悟る。
すると、ぼくの身体の熱が瞬時にして退いていく。
すると、それと呼応するかのように、
「あーっ、満足した!」
市川初枝が少し名残惜しそうに、ぼくから身を離す。
「いっぺんやってみたかったんだ。こういう役」
「……?」
「キミも持ち直したようだし、良かった、良かった!」
ありがとう、市川さん。
すぐには言葉が発せられなかったので、ぼくはまず心の中でそう唱え、ついで、ようやく言葉で言う。
「ありがとう、市川さん」
ぼくが彼女に感謝する。が、市川初枝はぼくのことをしげしげと見つめながら、
「でも市川さんなわけね……。ま、仕方ないか」
と溜息を吐く。
ついで――
「これからウチに来ない? 今日、親も弟も留守なんだ。キミがさっき思っていたことができるよ。残念ながら、お相手はわたしだけどね」
そんなことをいうものだから、
「ぼくが何を考えてたか、わかったわけ?」
聞いてみる。
すると――
「だってさ、さっき、キミはわたしを友だちじゃなくて女の子として見ていたもの。違う?」
もちろん否定できない。それに、おそらくそれ以外のことにも気づいてたのだろう。
だから――
「ぼくとしたいわけ?」
と素直に尋ねる。
「うん、すごく興味はある!」
「物好きな……」
「今のところ他の誰かとしたいとは思わないけど、キミとは試してみたい」
「もしかして市川さんって経験済み?」
「それに関しては答えが複雑になるから、今は言わない!」
「えっ? あるんだ! ちょっとびっくり……」
ぼくが目を丸くして彼女を見ると、市川初枝はニコニコと微笑みながら、
「内緒です」
と答えを返す。
それから――
「少し寒くなってきたわね。帰ろうか?」
そう水を向けられたので、
「お茶をしない? ぼくが奢るから……」
感謝の気持ちを込めて提案する。
「いいわ。じゃ行きましょう」
そして、ぼくたち二人は肩を並べて坂を下り、近くの繁華街に向かう。
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