33 癒し

「ねぇ、キミがあの人たちを感じられるようになったのは、あれが潜んでから?」

「たぶん、そうだと思うわ」

 ディーが答えて顔を俯ける。

「でも、そのときの記憶がないから……」

「あっ、そうか? そうだよね」

 首肯いてから付け加える。

「でも、キミの痛みは感じられるよ」

「そうかな?」

「だってさ……」

「ううん。きっと無理よ。なぜなら、キミは男の子だし、赤ん坊を身籠ったことはないでしょう?」

「それは、まぁ、そうだけどさぁ」

「ところでキミってさ、全然わたしに触ってこようとしないよね。少なくとも、これまでは全然。せいぜい手を繋いだくらいで……。わたしって魅力ない?」

「それが?」

「だってさ、キミくらいの年頃の男の子って――もっと年上の子だって同じだけど――やりたくって仕方がないんじゃないかしら? もちろん女の子の方だって同じだけど……」

「そういうのは人それぞれだと思うよ」

「キミと出遭ってしばらくして安心してから、もしキミが望むなら、わたし、してあげてもいいって思うようになっていたんだよ。たぶん、わたしの方は感じられないとは思うけど……」

「ふうん。気づかってくれたんだ。ありがとう」

「それがキミのトラウマなのか?」

「わかる?」

「いつだったの?」

「去年……」

「無理に話さなくてもいいわよ」

「同じ台詞だね」

「もしかして赤ん坊がいるわけ?」

「いやたぶん、いないと思うよ。少なくとも、生まれてはいないはず……」

「襲われたんだ!」

「小学校の頃からずっと好きだったお姉さんがいてね。隣駅の近くの喫茶店でウェイトレスをしていた。たまたま家族で入って、ぼくの目に止まって、それからずっと惹かれてきた」

「ふむふむ」

「でも子供だから、そんなにお金は持っていない。だから滅多にお店には入れない。でもさ、やっと入れたときにはカフェオレを頼むんだ。それが普通に美味しいから……」

「ふうん」

「あと、自分でいうのもなんだけど、まだ精通前だったから、ただの憧れだったんだよ」

「なるほど」

「だから、キミがさっき指摘したことはまったく正しい。あの時点で出遭っていたとしても、ぼくはキミを可愛いお姉さんと思っただけさ。何かが屹(た)つなんてありえない。それにもし屹(た)っても、そこからは何も出なかったよ」

「そうだろうなぁ…」

「でも精神って身体の都合で動くから、やがてぼくはお姉さんを想像するようになったわけ」

「それで?」

「一年と少し前のことだったけど、あのときお姉さんがぼくを自宅に誘ったんだ。『ねぇ、ちょっと、お姉さんのウチに遊びに来ない?』って……。それで犬みたいに喜んで付いて行くと、そこが――同級じゃないけど――同窓の女生徒のウチだった」

「知ってたわけね?」

「同じ中学校の男友だちが彼女――妹の方だけど――のことが好きでさ、何度もその家の前の道のウロウロ歩きに付き合わされたからね」

「なるほど」

「で、あのとき家には妹の方も家族も誰もいなくって……。小雨が風で窓にパラパラと振りかかっていたのを憶えているよ」

「彼女の部屋で襲われたんだ」

「ぼくの方に期待が全然なかったわけじゃないんだ。それに確かに無理矢理だったけど、子供とはいえ、腕力はたぶんぼくの方が上のはず。だから押し退けることはできたんだ。けれども、そう思うより先に欲望の方がぼくを押し流していたのさ。それで、あの人が何にも付けさせてくれなかったし、それにぼくの方もそんな知識は欠如していたから、ぼくはそのまま放出したよ。あっという間に何度も何度も……。そんな感じだったから気も動転していて気づいたときには辺りが暗かったんでゾッとしてしまう。あの人は部屋にはいなくて――その部屋は二階だったんだけど――耳を澄ますと下からは食事中の家族団欒の声が聞こえてきてさ」

「うわぁ、ちょっとしたサスペンスね!」

「うん。急いで服を着て窓から一階の屋根を伝って降りて慌てて家に帰ったよ」

「運動神経はあるからね」

「いえいえ、家の構造があんなふうじゃなかったら玄関から逃げるしかなかったと思うな」

「後日譚は、ある?」

「その家は同じ学区内にあったわけだから、その後、お姉さんとは何回もすれ違ったけど、それ以来、とりわけぼくに興味を示すようなことはなかったな。それに、いつも相手が違う二人連れだったし、そのうちの何回かは、当時のぼくより年下の子供と手を繋いでいたし……」

「ふうん、そういう趣味なんだ。で、残念?」

「さぁ、わからないよ」

「可哀想だったね」

「だけど単にそれだけだよ。キミに起こった出来事とは比べものにならない」

「そうでもないと思うよ。えーと、何故かというとね、客観的な事実として、わたしは彼を突き落としていないから……」

「えっ、そうなの?」

「うん。学校の屋上には、わたしと彼の他にも何人も生徒がいたのよ。彼の学校の……。その人たちが証言しているわ。わたしは彼を突き落とさなかったって……。屋上の手摺りの近くでわたしと口論していた彼が、不意に叫び声をあげると突然手摺から身を乗り出し、わたしが咄嗟に彼を抱えるようにして引き止めたにもかかわらず、わたしを突き飛ばして飛び降りたってね」

「それなら、どうして?」

「わたしの身体はそう動いたかもしれない。でも気持ちの方では突き落とそうとしていたかもしれないでしょう?」

「そんなことをいったら……」

「キリスト教になっちゃうって? 憎しみは、ただそれだけで人を殺すわ! そういうことよ」

「本当に好きだったんだね?」

「そうでもないよ。だって初めてでもなかったし、できちゃったのは事故だったし……」

「……?」

「ゴム製品が破れたのよ。彼がヘタだったのね」

「そうなの?」

「だから気づいたときには――ちょっと遅過ぎたかもしれないけど――すぐに手を打ったはずだったんだけど。運命のいたずらね」

「知ったときは吃驚した?」

「びっくりしない女の子なんていないわよ!」

「欲しかったわけ?」

「わたしは母性本能なんて本能が存在しないし、科学的にも証明されていないことは知ってるけど、それとは別の意味で命を奪うのは厭だったな。赤ん坊を授かったのは事故が原因だったとしても、行為に対する責任は引き受けるつもりでいたわ。それが正確ないい方かしら……。冷たく聞える?」

「冷静さと愛は矛盾しないよ。その辺りは好きになれない小説家が混同している点だね。でも蚊は潰すんでしょう?」

「危害を加えられた場合はね。あっ、でも、それだけじゃないか?」

「そういった矛盾の方は、あっても全然構わないと思うんだ。……っていうか、統一見解で行動するのは、まず無理だから。でも、あんまり支離滅裂なのは迷惑だからやめて欲しい」

「まぁ、そうね。……で、綺麗な人だったわけ?」

「普通に綺麗な人だったよ。キミが童顔で可愛いらしいみたいに……」

 溜息を吐く。

「でも完全な素顔は見てないからなぁ……。ヨランドだったかもしれない」

「ありがとう、褒めてくれて……。でもサンディー、っていうか、トビアスの目にはそう見えたんでしょうが、本物がそんなに酷かったとは思えないな」

「ぼくも同感! 本物のちっとも美人じゃないリーヌを永久に失ったトビアスはあの先不幸だったかもしれないけど、ヨランドの方は普通に幸せに暮らしたと思いたいな」

「やっぱりロマンチストだぁ、キミって……。ところでフランス語形のヨランド(Yolande)は、ペイン語の女性名ビオランテ(Violante)に相当するらしいわよ」

「わぁっ、ゴジラに繋がった!」

「ということは今日の夕ご飯はゴーヤ・チャンプルね」

「季節外れじゃない? でも、どうして?」

「こんな短歌があるのよ」

 そう言ってディーが短歌を詠う。

「痣の浮く溶岩の肌見せしめに御霊鎮むる獣の如く」


 ディーに潜んだ魔との対面には面食らったが、結局ナイトたるべきぼくの方が癒されるという奇妙な結末となってしまう。

 今現在、ディーは充分折り合いをつけているように、ぼくには思える。でも、いつその微妙なバランスが崩れてしまってもおかしくない。だから、ぼくたち二人があのとき取り戻した日常は、とても果敢無いものでしかない。だけど、それでもまだぼくはディーの傍らにいられたし、ディーもそれを望んだのだ。三歳も年下の子供でしかないぼくに、ディーがナイトの役を授けてくれ……。


 そのときまでに、ぼくたち二人は――環状七号線をすでに越え――神田川に沿って歩き、以前にディーと辿った駒沢線の一基と再開している(何処かの学校の野球グラウンドと思われる敷地に隣接する公園内の第八十四番)。

 そこで――

「どう?」

 ディーに水を向けると、

「やってみようか!」

 そんな返事が返ってくる。

 そして子供が二人遊ぶ砂場の向こうに向かい、

「はじめまして、わたしたちの演奏を聴いていただけませんか?」

 ぼくたち二人の移動演奏会が再開される。

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