32 見知らぬ他人
「男の子がロマンチスト過ぎることを認めるよ!」
道を隔てたその反対側から、ぼくは叫ぶ。その道を通り抜ける車が多くて、すぐに横断できなかったからだ。
「そうね、ここでわたしに出遭うことをキミが望んだのならね」
とディーが答える。
「キミはここにいる必要はなかったのに……」
と、ぼくが問う。
「でもそれだと、キミはわたしに遭えなかったよ」
「ぼくがここに来るってわかったの?」
「そんなの、わかるわけないじゃない!」
「でも、キミはここにいた」
ぼくは道を横切り、ディーの傍らに立つ。ディーが言う。
「そして、もし今日ここでキミと出遭えなかったら、今までどうにか続いていた二人の奇跡は終わってしまって、わたしとキミはそれぞれの場所に還ったはずだわ。バラバラになって……」
「でもキミはそれを望まなかった」
「わからないわ……」
それから二人で車道を渡り、川沿いの道に移動する。ディーはその中学校付近でのレクイエムを望まない。
「だって彼はあそこにはいないもの。死んだのはあそこだったけど、あの場所に執着しなかったのね」
ディーが続ける。
「でも、これ以上話していると、わたしの中から別の人格が出てきてしまうわ。きっと……」
「無理して話さなくてもいいよ」
「でも知りたいんでしょう?」
ディーの声が殺気立ってくる。
「わたしには記憶がないのよ。ディーとしてのわたしにも、結局同じことだけど、蕗子の方にもね。だから蕗子はディーになった。蕗子は彼を突き落とさなかったのかもしれない。逆に突き落としたのかもしれない。それがわからない。まったくわからない。ただ、わかっているのは記憶から抜け落ちたあのときの墜落のショックで、わたしの中の小さな命が息を引き取ったということ。彼にとって負担が大き過ぎた、あの命が……。彼は粋がっていたけど、結局のところ、気の小さな人だった。だから、彼にはその事実が引き受けられなかったのね。結局、それは端から見れば、単なる遊びと同じだった。不純異性交遊している他のみんなと……。わたしは彼に弄ばれた愚鈍で間抜けな女子中学生。ただ、それだけの存在。世間に良くいる普通の愚か者。だから、ねっ、動機はあるじゃない! わたしにあの人を突き落とす動機は……」
ぼくの身体を通り過ごし、どこか遠くを見つめながら、
「でもね、あの人自身のことはそんなに負担じゃないのよ。負担なのは、それがわからないってこと。いつかあのときのことを思い出せて、自分が実際に採った行動と心理が理解できれば、贖罪は可能だと思うわ。どんな贖罪になるのか、今は検討もつかないけれど。その覚悟はある。でも、わたしには抱えられないことが残ってしまった。わたしが抱えられないのは、この世界に生まれ出ることのなかった、わたしの中の小さな命。人間の形になる前に死んでしまった、わたしの子供……」
それから不意にぼくの目を見つめ、
「あなたなら良かったのに……。あのときの相手が……」
そして、すぐに目を逸らし、
「でも無理よね。あのときあなたは小学五年生。……やっぱりダメよね。普通はね。……そういう奇跡は起こらなかったんだわ」
すると不意に口調が変わる。
「おまえは、いま現在も、この子供を不幸にしているぞ!」
誰かが言う。それはディーでも、おそらくディーを生み出した乙卯蕗子でもない。
「その自覚はあるのかい?」
「わかっているわよ」
ディーが答える。
「でも今すぐには離れられない」
「おまえは、この子供も殺すのかい? 草間(くさま)大作が、おまえを怖がって逃げていこうとしたら?」
「わからないわ」
「おまえは以前、この子供には甘えないと宣言したはずだ」
「ええ、憶えています」
「いったいどうやって、そうするんだね?」
「方法はわかりません」
「それじゃあ、頑張りようはないわけだ。ふふふ……」
そこで、
「すみません」
ぼくが問いかける。
「あなたは、どなたなんですか? 説明してください」
すると――
「おまえは翼を持っているな」
と、その誰かがふいにぼくに言う。
「残念ながら折れてしまっているが……。その翼は天使のものだ。天からの美しい授かりもの。だが翼を持つものは天使ばかりではない」
空を見上げる。
「わしに降りたのは魔の翼だ。それは、あのときに降りたのだ。そしてその翼を、この女が折った。わしの力を弱めるために……」
「でも、そこまでやるので精一杯だった」
とディーが言葉を差し挟む。
「あのとき完全に翼を壊してしまえば、この女はディーにならずに済んだ。あるいは……」
と魔が続ける。
「折らずにそのままにしておけば、やがてはこの身体をすり抜け、時を経ずしてわしは天に還れはずだ」
ついで、もう一度空を見上げ、
「だが翼が折れているわしは天に還れない」
次に、その目を地表に降ろし、
「だから、この身体に残ることになった」
それから、ぼくに向かい、
「おまえの翼も誰かに折られたはずだ」
表情のない口調だ。
「それが誰かはわしには知りようもないが、そういうことだ。最初から折れた翼が天から降りることはない」
更に、ぼくにこう告げる。
「おまえ、草間大作のことは、わしも気に入っとるよ。まぁ、ディーほどじゃないがな!」
ぼくの頭をディーの手を借りてゴシゴシと撫でる。思わず、ぼくが身震いする。
魔が続ける。
「だから、おまえに免じて、今日のところは去ってやろう。おまえにディーに返してやる。だから二人でレクイエムを歌いたまえ! それがおまえたちの贖罪ならば……」
そしていきなりディーが白目を見せ、その場に倒れる。ぼくが咄嗟に彼女を支える。
しかし――
「ついにキミの前に出てきてしまったわね」
ディーは気を失ってはいない。
「あれが……」
ぼくを見つめて、しっかりした口調で、
「ごめんなさいね。怖かったでしょう!」
気づかいを込めてそう言う。
「わたしがディーになってから、もちろん存在は感じていたのよ。だけれ、これまで一度も出てこなかった。……っていうか、頭の中にいるだけで、この身体でしゃべることは一度もなかった。それが今日はじめて外に出てきてしまって……」
すかさず、ぼくは言う。
「だとするとキミの症状を悪化させたのは、ぼくだね。キミに謝らなくちゃならないのは、ぼくの方だ!」
「あんまり驚いていないのね」
「キミだって折り合いをつけているじゃないか?」
「でも、わたしは当事者よ。キミは赤の他人じゃない」
「あのさぁ……」
ぼくが言う。
「正直にいうと毒気を抜かれたんだよ。ぼくはキミの守護者たろうと思っていたのに、全然役に立たないことを悟ってしまったのだから……」
「そんなことないわよ」
「でも仮に助けになれたとしても、ほんのわずかだよ」
「今ここにいてくれるだけで、ありがたいわ」
ディーがぼくに、にっこりと微笑む。それから首を傾げ、
「しかし、あれもキミを気に入っていたのか? 知らなかったわ」
と呟く。
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