31 崩壊の足音
そうやって人為的作用が関与した『奇跡』はその後一月以上続き――その中には本当に偶然と思える『奇跡』も含まれていて――ぼくたち二人はまるで誰かから祝福されたかのように移動演奏会を繰り返し続けながら十二月を迎える。
その情報がもたらされる日まで、ぼくは自分の心を棚上げにしていたのだと思う。何事にも永遠がないことを頭でわかっていながら、そしてディーの口からこぼれ落ちるさまざまな言葉の断片から薄々感じ取っていながら、しかしできることならその事実をこのまま知らずに済ませたいと目を背けていたらしい。自分に期待された役割の重さに、気づかず飲み込まれてしまっていたということか?
息が凍りつくような冷え切った冬の月曜日の朝、いつもと違って暗く沈んだ表情を浮かべた市川初枝が、ぼくにその情報をもたらす。
「おはよう」
「おはよう」
と互いに挨拶を交わし、しばらく並んで歩いていると、それまで押し黙っていた市川初枝が意を決したように口を開く。
「わたしの口から告げるのは、とても気が退けるんだが……」
一旦言葉を飲み込むと、それまで聞いた事がないような闇を含んだ声で彼女が続ける。
「確証はないが、もしかしたら本当かもしれない事実を知った。新聞にも載った事件だし、場所も近辺だったから、その報道はキミも知っているはずだ。もっとも、それと彼女を結び付けて考えはしなかっただろうが……」
「何の話?」
「もう少し、黙って聞いて欲しい」
真剣な彼女の表情に、ぼくはコクリと首肯くしかない。
「わたしたちの中学とは区が違う別の学区の中学校で、それが起こった。事件といっても警察的な事件性はなく、屋上から飛び降りた男子生徒の行為は自殺と判定された。だが、現場には彼女もいた。他校の生徒だった彼女が、その男子生徒を突き落としたという噂も一時期舞った。その他にも、さまざまな噂が流れたらしい」
「それってディーのこと?」
「名前は出ていなかったが、わたしの父親が好きで買ってくる写真週刊誌を整理していたら、そこに彼女の顔があった。目の部分に横線が引かれていたのでどんな表情なのかはわからなかったが、わたしにはその輪郭が彼女に思えた」
「その事件のことをだんだんと思い出してきたけど、それって確か、いまから三年前のことだよね?」
「そう、三年前の写真週刊誌に載っていた」
ぼくを見つめる。
「どうしようかと迷ったが、キミには伝えることに決めた。記事を見つけてから二日悩んだ。昨日の夜に決心したんだ。もちろん、まったくわたしの勘違いかもしれない。事実がはっきりして事実無根、見当違いとわかったら殴ってくれてもいい」
大きな瞳でぼくを見つめる。
「でも、わたしはキミが心配なんだ。だから、余計なことだとは思ったが、話すことに決めた」
彼女の見せた真摯な表情に、ぼくは返す言葉を持たない。
「そして、これも迷ったんだが、見つけた雑誌を持ってきた。キミが必要というなら、いまこの場で渡す」
ぼくの目を真っすぐに見て、
「どうしたい?」
そう問いかけるものだから、
「わかった。もらうよ」
すぐに、ぼくはそう答えている。
ついで、手渡されたその薄い写真雑誌を素早く自分の鞄の中に仕舞う。たったいまページを開いて写真を見ることが躊躇われる。そしてその気持ちは市川初枝にも伝わったらしい。だから彼女に告げる。
「ありがとう、心配してくれて」
彼女の顔をじっと見つめる。
これまで気がつかなかったが――というか、そんな目で彼女を見たことがなかったからかもしれないが――市川初枝がいつのまにかきれいな中学生になっている。
ぼくは言う。
「一部、言葉を飲み込んでいたみたいだけど、ぼくはキミに悪意があるとはまったく思っていないよ。だから、その点は安心してくれていい」
次の瞬間、ぼくは彼女の涙を再び見ることになる。あのときと、このときの、これで二回目の涙だ。彼女とは子供の頃からの本当に長い付き合いだが、ぼくにはこんなふうに悲しげに涙する彼女を見た憶えがない。たとえ、どんなに辛い状況に追い込まれても、これまで彼女はそれを笑ってやり過ごしてきたからだ。そうか、そういえば、笑い涙を見たことは何回もあったな! ぼくはこの状況とは直接関係ないことを思い返している。自分の中で気持ちが混乱しているのが、はっきりとわかる。心の一部が壊れていくのが自覚できる。そのため、なかなか写真週刊誌を開くことができない。仮に今回の件が間違っていたとしても、いずれぼくはディーの抱えた問題に直面させられることになるだろう。その覚悟はできているつもりだったが、いざその状況に直面させられると、全然そうでないことに気づいてしまう。その事実によっても、ぼくは愕然とさせられる。自分の中にあると思っていた自信がユラユラとゆらいでいる。予期せぬ方向から押し寄せた強い波の流れに足許を掬われた感覚だ。
それで、ぼくは情けないことに市川初枝に助けを求めてしまう。
「放課後、図書室で一緒に写真を見て欲しい!」
と彼女に頼み込んだのだ。しかし彼女は、
「それはダメだ!」
と、きっぱりぼくを拒絶する。
そして――
「ここから先はキミが立ち向かわなければならない問題なのだから……」
と、ぼくを突き放す。
結局、彼女のその言葉を助けに放課後、ぼくは図書館でひとり、付箋の貼り付けられたそのページを開いたのだ。
結果は?
ぼくには判断がつかない。そうとしか返答できない。
たしかに写真に写された人物はディーにも見える。しかし写真自体が小さくて、それに荒過ぎる。だからそれは、もちろん違う誰かやその他の人にも見える。生徒手帳にあるようなポーズの写真だったので、事件が起こったときに撮られたものではないようにも思えたが、それだって判別が付けられない。だから、その日はそういうことにして何も考えずに家に帰る。家に帰って、あれこれと対策を考え、翌日以降行動を起こす。
まず各新聞社の年鑑を調べ、事件報道を明確化する。これは結果的に市川初枝の要約の正確さを確認する作業となる。ついで雑誌社や各新聞社に連絡を入れて当時の事情を教えて貰おうと試みるが、予想通り、何の成果も得られない。情報ソースを明かす取材者はいない。各社とも普通にそう返答する。それに、こちらは単なる子供だ。声変わりはすでに済ませていたけれど、それで大人の声に聞こえるものでもない。自分のちっぽけさ加減を幾度も認識させられる。そして、そんなぼくの狼狽した様子に母さんはたぶん気づいていたと思う。が、何も言ってはこない。学校で会う市川初枝とも、そのことを話題にすることはない。
彼女のぼくに対する気遣いはヒシヒシと感じていたのだけれど……。
負のスパイラルがまわっている。どこまでも螺旋状(ヘリックス)に……。
そんなことはわかっている。
が、わかるだけではどうにもならない。
そうこうするうちに過去の自分の――ディーの事件が本当だとすれば、その苦悩とは比較にもならないが――厭な思い出が蘇ってきて、さらに気分を落ち込ませる。
ぼくはこれまで自分がもっと冷静な人間だと自分で自分を認識している。その思いが、まったく吹き飛んでしまったようだ。ついで自分に関するいろいろなことがずるずると崩れていき、金曜日の夜になるまで翌日が土曜日だと気づきもしない。
あのとき自分が感じていた気持ちは気持ちとして、ぼくはその日、とてもディーに会いたいと思う。今回は特に奇跡の要素がなかったのでケースに入れたエレピを背負うと当てもなく家を出る。
「気をつけてよ!」
さすがに心配したのか、出がけに母さんがぼくに声を掛ける。
「うん、気をつける」
とぼくが答える。午前九時過ぎのことだ。
何となく歩きながら、そうだな、初心に戻って例の神学院の近くにでも行ってみようかと考える。そう考えながら歩いていると、習慣とは怖ろしいもので、自分の通う中学校に向かう道を辿っていることに気がついてしまう。そのとき不意に例の写真週刊誌の記事にあった某中学校は、学区こそ違うが、距離的には自分の学校からそう遠くない所在地に建っていることに思い至る。市川初枝がいった通りに……。そして件(くだん)の男子生徒の自殺があった日は、年度こそ違うが、ぼくが学校からの帰宅途中、市川初枝とともにディーに出遭った最初の奇跡の日であることにも気づいてしまう。頭がフル回転していれば、すぐにでもそれと知れた事実だろう。
だから、そうか!
あのときに既に運命づけられていたのか!
と、ぼくは思う。
ディーはおそらくその中学校に向かう途中だったのだろう。彼女には向かうべき目的がある。ぼくが今の中学校に通っているのは偶然だ。が、そういういい方をすれば、ディーは別の道を選んでも良かったといえる。別の駅で電車かバスを降り、目的地に向かっていれば、その日ぼくと出遭うことはありえない。だからこそ、あれは本当に『奇跡』だったのだ。
そこまで考えると、ぼくには受け入れられるような気が、わずかだがしてくる。それで確信を込めて、その中学校に向かう。
十数分後、中学校の運動場フェンス前に佇んでいたディーを発見したぼくは嬉しくて悲しくて泣きたくなる。
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