30 奇跡の群れ
雨は翌日の月曜日、すでに空から降りてくる。けれどもそれはまだ冷たくなくて、でも夏の日の雨みたいにさっぱりもしていなくて、ムシムシして、結構気分が滅入らされる。その週が中間試験の日程に当っていたことも、気分に反映していたかもしれない。しかし週が進むに連れて空はだんだんと秋晴れの様相を呈してきて、ディーの予想が外れる方向に突き進む。すると不思議なもので、この先いったいどんな奇跡が起こるのだろうかと楽しい気分にさえなってくる。
そう、まだそのときには、ぼくはやがて自分を襲うであろう精神的ショックを微塵も感じていなかったのだ!
狐の嫁入りらしくて晴れているのに小雨のパラつく金曜日の朝、
「おはよう、恋する少年!」
通学途中に元気に声をかけてきたのは、いつものように市川初枝だ。
「おはよう」
ぼくが挨拶を返して付け加える。
「でもさ、キミだって一時期ぼくに恋してた『恋する少女』だったんじゃないの?」
「悲しいことを思い出させるな! キミはまったくデリカシーがないなぁ」
しかし、そういう彼女の横顔はニコニコしている。ディーの指摘のように確かに彼女は強い人なのかもしれない。
すると――
「あ、そうそう」
と急に思い出したように、
「昨日、キミたちを見かけたよ」
と市川初枝がぼくに告げる。
「あんなことをしてたんだな!」
「うぇーっ、恥ずかしい! 他の人には内緒にしてよ」
「好んで他人に告げたりしないが、秘密にしたいんなら仮面でもつければ?」
提案する。
「仮面ユニット・ディーとエフ、とかさ……」
「考えもしなかったよ」
「でもレクイエムなんだよね、あれは?」
「あっ、市川さんにはわかった?」
「わたしはキミのことを昔から知っているからね。なんとなくだけど、感じられたよ」
「ありがとう」
「彼女はきれいな歌声をしているね。ちゃんとレッスンすれば、将来は本物の歌姫(Diva)になれるかもしれない」
「あ、やっぱりそう思う。でも、まだまだ腹筋とかが足りないんだ」
「そうみたいだなぁ」
「でも、歌っていくうちに付いてくるだろうって楽観してる」
「継続は力なり、って……」
「そうそう」
「……とすると、キミは肩が立派になりそうだな」
「えっ、ムキムキしてきらた厭だなぁ」
「そうだね、確かにキミには似合わないな」
新城孝雄がいつものように自転車に乗って――ただし傘を差して――ぼくたち二人にチャチャを入れて通り過ぎていく。他の知り合いたちとも挨拶を交わす。その日がはじまり、そして緩慢に進行していく。午後二時過ぎには雨も完全に上がる。夜には星も見えたが、指令がその前に届く。届いたとたん、どうやらそれが今度の奇跡の発端になるのだろうと感じられる。そして、その直感は?
正しい。
『新宿か渋谷のハンドメイドショップで指定した銘柄の垢すりを買ってきて欲しい』
というのが、ぼくが母さんから受け取った指令だ。ディーの指令も似たようなもので、訊くと、
『○○社の魚型のカッター購入』
が指令だ。
ぼくの場合はハンドメイドショップ(有名店)とは指定されたが、その店舗は数店択一。ディーの方には店舗の指定さえない。そして店舗内でぼくが向かうのはバス・トイレのコーナーだ。ディーが向かうのは文房具売り場。よって二人が出遭えたのは、とりあえず奇跡と認定される。まぁ、そう認定してもギリギリ反則ではないような気がしたわけだ。世の中にはどんなに多くのヒントを与えてもらっても永遠に出遭うことのできない恋人たちがいる。ぼくたちが恋人同士か否かは別として、それぞれの心か身体のどこかに、まるでプラスとマイナスの電荷か、あるいはN極とS極の磁化のように引かれ合う部分があったのだろう。
「でも、どうして新宿のハンズに来たわけ?」
ぼくが問うと、
「だって電車で一本じゃない」
ディーが答える。ついで、
「近くの文具さんには売ってないことを知ってたし……。ふざけてるわよね!」
言いながら笑っている。
ハンドメイドショップの店舗内で出遭ったとき、ディーは買い物を済ませてエレベータを降りてくるところだ。ぼくは買い物のために上階に向かっている。そして二人とも相手に気づいて一件落着。
「あっ、背負えるようにしたのね、エレピ!」
ディーが合流し、二人でエレベータを上がっているとき彼女が言う。
「こんな混雑する場所に玩具のエレピを首から下げて出かけられると思う?」
「そだね!」
「素材は母さんが用意してくれたんだ。持ち帰ったエレピを見てピンときたらしいよ。本物のキーボード用のレザーならぬビニールケースを中古で手に入れてくれてさ。ただ、それにはストラップしかついていなかったから、旧いリュックサックを解体して背負いの部分を縫い付けたんだよ」
「ふうん。相変わらず器用ねぇ」
「でも上手くいかなかったら、母さんに泣きつくつもりでいたんだ」
「ほう!」
「少なくとも現時点において不良息子じゃないわけだから、それくらいはねだってもいいかと思ってね」
「甘えんぼねぇ」
そんなふうに、しばらく会話を楽しんでから、
「どうする?」
「どうしようか?」
「ここまで来たんだから新宿御苑にでも行こうか?」
「OKでーす!」
すぐに話がまとまって、ぼくたちは都立新宿高等学校を右目に見るコースで新宿御苑の新宿門に向かう。ほどなく到着。後のことはディーに任せる。
「あの木立の方に行きましょう」
しばらくしてから、ディーが告げる。
来月には菊花壇の展示会があったが、その日はアートギャラリーの常設展示以外、特に催し物の予定はないようだ。
そして――
「はじめまして、わたしたちの演奏を聴いていただけませんか?」
その日の移動演奏会が幕を開ける。
「専用機じゃないけど、移動用の車かなんか欲しいわね!」
「何、贅沢いってんのさ! 腹筋つけるんでしょ?」
「だって、もう疲れたぁーっ」
「まぁ、それはそうだけどね」
新宿御苑の後はまたいつものテリトリーに戻り、移動演奏会を続ける。午後三時を過ぎて疲れがピークとなったとき、ディーが弱音を吐く。だから、というわけでもなかったが、それでその日の演奏会は終了することにして、家から持ってきた歌詞ノートをディーに渡す。歌詞はひとつだけ増えている。今回は何とか完成できたが、勢いだけでは次の歌詞の完成は難しいかもしれないと感じている。
からっぽの指先
絡み合って伸びた三本の細い樹(き)が
螺旋の先で蛇の口を開く
石を貫いて、しかし砕けはせずに
身体(からだ)中に目を生(は)やしながら……
あなたに見えないのは、わたしの中の永遠のあなた
わたしに見えないのは、あなたの中の敬虔なわたし
愛し合って死んだ三頭(とう)の黒い蛾が
破線の先で黴(かび)た羽を散らす
壁を刳り貫いて、しかし崩しはせずに
身体(からだ)中に画を満たしながら……
あなたに問えないのは、わたしの中の物質のあなた
わたしに問えないのは、あなたの中の精神なわたし
時が階段状に雲間から降りてきて
そのまま地を突き抜けて去って行ってしまう……
風に舞って飛んだ三篇の旧(ふる)い詩が
帆船の先で壊れ文字を零(こぼ)す
潮(しお)をかき混ぜて、しかし繋(つな)げはせずに
身体(からだ)中の魔を色に解(ほど)きながら……
あなたに言えないのは、わたしの中の連続のあなた
わたしに言えないのは、あなたの中の細(こま)切れなわたし
夢が階段状に雲間から降りてきて
そのまま美を引き連れて去って行ってしまう……
夢が階段状に雲間から降りてきて
そのまま身を打ち壊し去って行ってしまう……
「悲しいわね」
「そうかな?」
「キミは未来を予感しているのかな?」
「そうなの?」
「わからないわ」
「で、曲の方は?」
「キミのウチに遊びに行こうかな?」
「関係あるの?」
「それまでにメロディーができると思うから」
「来るのは構わないけど、ごはん食べてく?」
「その予定はないけど……。曲作るのに、時間がかかるかなぁ?」
「主旋律だけくれれば、後はぼくの方で案を作っておくよ」
「キミが手を入れると完成度が上がるから、ありがたいわ」
「そうかな? ぼくは単にキミを補完してるだけだよ。すべての曲はキミのものだよ。歌声も含めてね」
「そういうことなら、すべての歌詞はキミのものだよ」
「そうかな? だって、一番最初のはヤツは明らかに違うじゃない」
「ううん、キミがいたから浮かんだのよ。わたしの心に……。たぶん、それまではどこにもなかったと思う」
「そうなの?」
「断言はできないけどね……」
「あら、いらっしゃい。……っていうか、お帰りなさい」
ウチに帰ると母さんがいる。ディーに向かい、
「また泊まってく?」
と問いかける。すると、
「いいえ、今日は夕ご飯前に帰ります」
ディーが答える。
「そう、残念ね」
「ピアノ、使うからね」
ぼくが言う。
「どうぞ、邪魔はしないわ」
そして母さんが二階に上がる。時刻から判断して洗濯物を取り込みに向かったのだろう。
「どう、浮かんだ?」
「いくつか混ざってるんで選んでくれない?」
「どうやって?」
「123のどれかにしてよ!」
「じゃ、3にする」
「じゃ、歌うわ!」
ついでディーが口にしたのは水晶のような旋律だ。二番の次の展開部では、それが透き通った四月の宝石のように変わる。三番で同じ旋律に戻ったとき、それがすっかり透明になる。ぼくは伴奏をつけるのも忘れて、ただその歌声に聞き惚れる。
そして――
「うわぁ、ディーが進化した!」
終わった途端にぼくが叫ぶ。ぼくの正直な感想だ。しかしディーは、
「たまたまよ」
と素っ気ない。けれども、その表情はいつになく明るい。
「次はキミの番だからね」
「うん、わかった」
ぼくが答えると、
「本当に今日は帰るわ」
と告げ、階段のところで二階に向かって、
「お邪魔しました!」
と母さんに挨拶し、我が家を去る。
「あら、もう帰っちゃったの? 残念ねぇ」
その後一階に下りてきた母さんが本当に残念そうにそう呟く。
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