28 ティータイム
翌日は朝七時前に起きて、
「あら、早いのね! おはよう」
と母さんに挨拶され、それに、
「ふわぁ、おはよう」
「おはようございます」
とディーと二人で挨拶を返し、母さんに用意してもらった簡単な朝食を食べ終わるとすぐに出掛ける準備をする。準備といっても、例のエレピはディーのウチだったから、たいした物品はない。特に必要なアイテムは、見やすいA6版の東京都地図一冊くらいだ。それを手の自由が訊くようにリュックサックに入れ、意気揚々とまで気分は盛り上がらなかったけれども、
「じゃ、行ってきまーす!」
「昨日は、お世話になりました!」
「気をつけて、いってらっしゃい」
母さんに見送られて家を後にする。父さんの方はというと、朝の四時半前に起床して、すでに遠くまで出掛けている。昨日寝る前に調べていた地図を覗き込んだときには埼玉県狭山市の西武新宿線が北東から南東に折れ曲がる辺りを見ていたので、おそらく狭山駅を基点にして、この前の散歩の続きをするつもりなのだろう。
京王線とJR線を乗り継ぎ、荻窪駅で降り、まだ誰もいないはずのディーの家に向かう。すると意に反してというか、案の定というか、玄関が見える通りまで来ると、マママさんが家の周りを掃き掃除している光景に出くわす。
「おはよう。お帰りなさい。そして、いらっしゃい!」
ぼくたちに向けて笑みを浮かべ、そう言った後、
「今日はあんまり暑くならないみたいだから、服装が難しいわね」
そんなことを付け加える。
「家にいないんじゃなかったの?」
「夜中の二時頃に帰ってきたのよ」
「本当に? ……で、おばあちゃんの方は?」
「まだよ。……たぶん、今日の夕方頃じゃないかしら?」
「あっそう! そっちは本当だったんだ。……で、どんな手を使ったのよ?」
「どんな手も使わないわよ」
「うそばっかし……」
「本当に偶然だったんでしょう。お友だちと出会えたのはね」
「信じらんない?」
「ね、キミはどう思う?」
「ぼくの見解は前に述べた通りだけど……」
「そんなこと、どっちだっていいじゃない」
きっぱりとした口調だ。
「これからまた出掛けるにしても、一旦は家の中に入って、お茶でも飲みなさい」
「わかったわ、じゃ……」
ぼくを促し、ディーが玄関ドアを開ける。
「お邪魔します」
「あなたは大作くんっていうそうね。これからもよろしく」
マママさんにそう言われたので、
「あ、はい。こちらこそよろしくお願いします」
ペコリと頭を下げる。
ついで――
「ところで、マママさんの名前も秘密なんですか?」
と尋ねると、
「そうね、その方がミステリアスですからね」
と、どこかで聞いたような台詞が繰り返される。
「でも苗字と違って名前の方はペンネームと同じだから、すぐにわかるわよ。知りたいと思えばね」
首を捻って短く思案してから、そう付け加える。玄関から台所に直行し、手を洗ってうがいをし、その間にマママさんに入れたもらったミルクティーをいただく。さすがに紅茶には詳しくないので静かに味わっていると、
「普通のイングリッシュ・ブレックファーストに……」
ディーが茶葉の種類を解説する。
「今日はニルギルが混ざっているわね」
「そう。ブレンドにブレンドしたのよ」
「……?」
「イングリッシュ・ブレックファーストていうのはモーニングティー向きにすでにブレンドされたお茶の名前なのよ」
紅茶の名称についてディーが補足してくれる。
「そういうのは詳しくないのね?」
「イギリスの小説はあまり読んでないからね。前に母さんと一緒にBBC版の『高慢と偏見』の一部は見たことあるけど……。あのとき母さんは『いや、あれは違う、あれは違う』って繰り返してたよ。『いや、世間がなんといっても、あれだけは違う!』ってね。後はお決まりのホームズの子供版と、最近では例のブッカー賞を受賞した日本生まれのイギリス人作家・カズコ・オオグロとニール・D・アルバトラスくらいかな。ニールは父さんが好きなんだけどね。『冥界への曳航』を読んだときには、ちょっと吐き気がしてきたよ。ファッティー・キッドならともかく、ニールで吐き気がしたのは、あの話くらいしか思いつかないな」
一息入れて、話を元に戻す。
「でも読んだ中ではオオグロ以外の誰も食事のシーンには拘っていないみたいだったから……。それにそのオオグロにしても慰めとしての食事っていう印象が強いし……」
「ふうん」
「たくさん読んでいるのね」
「いいえ、本物の本好きにはかないませんよ。読破した本の桁数と頭の構造と読むスピードが違いますから……」
「でも愉しみなんでしょう?」
「そういう意味では慰めかもしれません。いろいろなことに対する」
「幼い子には幼い子なりの、あなたの年齢ならばあなたの年齢なりのいろいろなことがあるわけね」
「ええ。それに、たとえ瑞から見ればそっくりのように見えても、それらのいろいろは人によって全部違うんです」
「その通りね。……そして、それをある方向から見たものを集約&強調するのが、わたしの仕事」
「愉しみですか?」
「職業にする前はね。仕事を貰えるようになってしばらくの間は、かなりきつかったわ」
瞬きをする。
「でも最近では少しだけ名前が売れたおかげで、ほんのちょびっとだけど書きたいものを書かせてもらえるようになってね。自分の書きたいふうに……」
「またそんなこと言って……。いっつもプロデューサーさんとかと喧嘩してるくせに……」
「そんなことないわよ。四つは向こうの云うことを聴いて一つだけ意地を通すのよ」
ぼくの顔を見つめ、
「そうじゃないと書き続けるのが辛くなるから……」
と弱音を漏らす。
「そんなものなんですか?」
「さあて、どうでしょう? それこそ人によっていろいろだわ。……でもね、いわれたことをそのままに無個性に仕事を続けていると、いつか自分がやりたかったはずのことを忘れてしまうのよ。前に中小企業のいわゆる技術者さんたち、それに退職した元技術者さんたちを取材していたときのことなんだけど、引退後、どうしていいかわからない、って悩んでいる人が多いってことに気づかされたの。さすがに全員ではなかったけどね。つまり会社で仕事をしている間は、与えられた、もしくは自分で行おうと思った新技術の開発なんかが会社における自分の仕事でしょう。でも人間って、それ以前にきっと自分がやりたかったことがあるはずなのよ。それが、いつのまにか当面の仕事へとすりかわってしまう。もちろん、その仕事の中にも愉しみや慰めは見つかるでしょう。でも、それはやっぱり本質的には違うものなのよね。だから退職してその仕事から離れたとき、自分を見失ってしまう。そんな事態に陥るんじゃないかしら? そりゃあ、引退したら土いじりをしたいだとか、漠然と思っている人もいるでしょうけど、でも実はそれが自分にとって愉しみでも慰めでもないことに気づかされてしまうわけね。そして、その人たちにそれが起こるのは不幸なことだけど、他人にはどうしてあげることもできない。まぁ、たいていの人たちは、そのうちに趣味の文芸サークルとか人形教室とかに入って仲間を見つけ、自分がすでに忘れてしまった方のことはそのままに、別の何かやりたいこと新発見することになるわけだけど」
「でも中には何にもやりたくない人だっていると思うわ」
「それはそうかもしれないけど、でも本当に何もやりたくない人が、そんない沢山いるとは思えないわ」
「うーん、たしかに。何も見ず、何も考えないことが愉しい楽しい人って想像し難いですね」
そんな会話でお茶の時間を終え、ディーの部屋で、
「着替えるから向こうを向いて……」
「だったら部屋に入れなきゃいいじゃないか?」
とか会話しながらエレピを磨き、最初の目的地を決めて家を出る。出掛ける前にディーが、
「あ、忘れた!」
と言い、服に合わせたネックレスを取りに部屋に戻っている間、マママさんがぼくに向かい、
「わたしは、あの子が立ち直るって間違いなく信じているけど、でも直接手は貸せないの。見ていてあげることしかできないの。黙って、じっとね。そして、あなたにもそれ以外のことは望めないわ。あの子をじっと見ていてくれること以外は……。あれは、あの子自身が乗り越えなくてはならないことだから……」
と少しだけ悲しげな眼差しでぼくを見つめながら言い、
「でも、もしもできるのならば、可能であるならば、ほんの少しでいいから、あの子の助けになってあげてくれないかしら? あの子がそれを望んだときに……」
ぼくの肩に細くて節が目立つ両手を乗せて、そう告げる。
「親って弱いものなのよ。ときとしてね」
そう付け加える。
「ごめんね、ヘンなことお願いして……」
「いえ、全然ヘンなことじゃないです」
と、ぼくが答える。
「でもぼくは、ぼく自身の問題としてそのことを考えてみようと思っているんです」
「……というと?」
「その人の何かについて、他人にどうこうできるはずがないことは、ぼくにも理解できます。他人に治されるのは洗脳と同じですから……。だから、たとえぼくが彼女を助けることになったとしても、ぼくは自分の考えを彼女に押し付けたりはしません。もっとも、そんなことはできるとも思いませんが……。彼女をぼくのものにしたいんじゃないんです。彼女には、彼女そのものでいて欲しいんです。できるのならばいつまでも……」
「ふうん。大人なのね」
マママさんが呟く。
「でもそれは、とても難しいことだわ」
そして改めてびっくりしたように付け加える。
「奇跡って、もしかしたら本当に起こるものなのかもしれないわね。仮にそれが引き起こされるときに、いくらかの人為的要素が混じっていたとしても……」
マママさんがそう言葉を紡ぎ、ぼくの肩から手を離す。
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