論証(2)
その名前を口にした途端、封印されていたはずの忌まわしい記憶が蘇ってきたように感じられた。亡霊は黒い霧となって再び屋敷に影を落とし、呆然として立ち尽くす人々の頬を冷たい手のひらで順に撫でていく。
「……どういうことでしょうか?」
誰かが呟いた。木場が視線をやると、他の使用人に埋もれるようにして立っている松田が、小さな肩をわなわなと震わせていた。
「佳純様は今から六年前にお亡くなりになっているのです。旦那様が下半身不随になられたのは五年前……。だのに、なぜ佳純様の指輪が車椅子から発見されたのですか?」
松田の疑問はもっともだった。昨日、指輪が佳純のものだと判明した時点で、木場達も真っ先にその点に疑問を抱いたのだ。
「それについては、霧香さんが話してくれました。あの指輪は婚約指輪で、自殺する三ヶ月ほど前に佳純さんへ贈られたものだそうです。佳純さんはそのことを、霧香さんにだけ話していました。
佳純さんが亡くなった後、霧香さんは真っ先に指輪のことを思い出したそうです。指輪は佳純さんの部屋の机の抽斗にしまわれていました。きっと捨てられなかったのでしょうね……。
霧香さんは指輪を発見して、父親に見つからないうちに持ち去りました。その後、指輪を贈り主に返還することにしたのです」
「贈り主……」
松田が呟いた。事情を知る彼には、この事件の真相がうっすらと見え始めたのだろう。
「霧香さんは、手紙に指輪を同封して贈り主の元へ届けました。当時の被害者は、まだ手紙のチェックまではしていませんでしたから、監視の目をすり抜けたのでしょう。指輪は贈り主の元に届けられ、三日前の夜までは彼の手元にあった。
ですが、今回の事件が起こったことで、警察の手に渡ることになった……。もうおわかりですね?」
「嘘……」
果林が絶句しながら呟いた。目を見開き、怯えた顔で犬のぬいぐるみを抱き締める。
「そう、この事件の犯人は、佳純さんの婚約者だった男です」木場は声を張り上げた。
「彼は佳純さんの復讐をするためにこの屋敷に戻ってきた。そして三日前の晩、被害者をあの崖から突き落としたのです」
「誰だ……。誰なんだよ! その婚約者の男ってのは!」
灰塚がソファーから立ち上がって叫んだ。誰もが息をするのも忘れ、その男の名が明かされるのを待っている。その中で松田だけが、悄然として絨毯に視線を落としていた。
「佳純さんの婚約の件は内密で、霧香さんと松田さん以外の人間は知りませんでした」木場は声のトーンを落として続けた。
「でも、彼は何度かこの屋敷に来たことがある。皆さんも会ったことがあるはずです。なぜなら彼は、五年前まで被害者の秘書をしていたんですからね」
そこでようやく男の正体に思い当たったのか、何人かの使用人がはっと息を呑んだ。事の真偽を確かめるように、恐る恐る顔を見合わせる。
「あなた、まさか……」
公子が震える声で呟いた。木場は表情を引き締めて頷くと、明瞭な声で言った。
「婚約者の名前は
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます