【改訂版】岸壁の令嬢

瑞樹(小原瑞樹)

序章 ―満月の夜に―

プロローグ ―正義の罪人―

 潮騒の響く海上を、一陣の風が吹き抜けていく。


 風に揺られてさざめく波は、まるで人の心を映し出しているようだ。


 動揺、葛藤、困惑――。人の感情は実に些細なことで揺れ動く。凪を見せるのはほんの束の間。僅かな風が吹けば呆気なく凪は取り払われ、後には荒れ狂う大波だけが残される。




 心にはさざ波が立つ。





 私の心もまた、この波打つ海面のようにさざめいていた。けれども、それは日常の些末な出来事に端を発するものではない。心の深奥に秘めたる決意が、私の覚悟を試すかのように、心臓の鼓動を脈打たせていた。




 再び風が吹き抜ける。




 漆黒の海上に浮かぶ満月。夜半を照らすその光は、私がこれから成さんとする罪を暴き立てようとしているようだ。昔話ではよく言うではないか。お天道様が見ているから、悪いことをしてはいけないよと。昼は太陽、そして夜は白月が、地上を睥睨へいげいする番人として、罪業に手を染めようとする人間を思い留まらせる。


 だが、いかに清廉な光といえども、今宵の私を思い留まらせることはできないだろう。私はこの時を待ち望んでいたのだ。あの忌まわしい男に鉄槌を下す、その時を――。


 そう、あの男は関わる者全てを不幸にする。人から幸福という幸福を絞り取り、残滓ざんしとなった人々の上に自らの城を築こうとする。彼の王国には無数の花が咲いているが、その花がすでに干からびていることに彼は気づいてもいない。


 今こそあの男は思い知るべきだ。自らが養分を吸い取った花達が、どれほど色褪せ、朽ち果ててきたのかを。地面に伏し、日の光を浴びることもないまま生涯を終えることになったとしても、彼が気まぐれに与える蜜に縋るしかない、その惨めさを。






 私は木陰からその男の様子を窺っていた。彼は断崖に一人佇み、車椅子に腰かけて暗黒の海を眺めている。まるで玉座から民衆を見下ろすように、悠然と。その厚顔さを目にするだけで私は腸が煮えくり返りそうになったが、懸命に沸き立つ感情を堪えた。気取られてはならない。私の目的を果たすまでは、決して気取られてはならない――。


 私は音もなくその男に近づいて行った。潮騒が、地面を踏み締める私の足音を消してくれる。海も、この悪しき男を葬り去ろうとする私に味方してくれているのだろう。


 男の背後まで来たところで、私は車椅子の持ち手に手をかけた。そこでようやく私の存在に気づいたのか、男が私の方を振り返った。私の姿を見ても微塵も怯えはなく、母親に肩を叩かれた子どものようにあどけない表情を浮かべている。まったく、無知とは恐ろしいものだ。


 私は微笑みを浮かべてその男を見下ろした。次いで右手を持ち上げて顔の前にかざす。指先に光る《それ》を見た瞬間、ようやく私の目的を悟ったのか、彼の顔が微かに引き攣った気がした。


 次の瞬間、彼の身体は宙に投げ出されていた。両手を広げ、闇夜に誘われるその姿は、暁の空へと向かう鳥のようだ。


 だが、飛翔は長くは続かなかった。彼の身体は瞬く間に漆黒の海に吸い込まれ、やがて弔鐘を鳴らすような大きな水音がした。月明かりの下で波紋が広がり、後に残されたのは不気味なほどの静寂。


 私は断崖からその様子を見つめていたが、やがて海に背を向けると、静かにその場から立ち去って行った。さざめいていた心が次第に凪を取り戻し、口元には微笑みすら浮かぶ。


 そうだ、私は善行を成し遂げたのだ。お月様も、きっと私を見咎めはなさらないだろう。

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