『潜愛』

 あらかた落ち着いてしまってからが大変で、なにしろあんまり酷い顔になっていたから恥ずかしくて顔を上げられず、自分の鞄からポケットティッシュを取り出す余裕もなく、彼がくれたものと手渡されたハンカチをなんとか使いながら必死で直した。ホテルから出る前に化粧をしていなくてよかったと心底思う。ハンカチを随分汚してしまったので買って返すと言ったのだが、洗ってくれればいいと榊は全く了承してくれなくて、持ってきた自分のハンカチを押し付けたりもした。さらに冷静になってからは何をしていたのだろうと可笑しくなるけれど、ハンカチは既に貰われてしまったのでこのおかしなやりとりは形をとって双方の手元に残ることになる。

 手を洗いたいだろうと言ってくれたので、水道を探すためにまた歩くことにした。榊が歩く右側に見えるゾーンにサルビアやパンジーが所狭しと並んでいて、小学生のとき児童会で花壇を作ったのを思い出す。花壇ほど綺麗によそ行きの顔をして咲き誇ってはいなかったけれども、人が踏み入ったことで自然にできてしまったらしい道も、疲れたように横たわる花々も、愛しく感じられる気がした。


「高校生になってからはあんなことする必要、なかったでしょうね」


 唐突に先程の話の続きをされて、指示語が何をさすのかしばらく考えてしまった。呼弥が思い出しているうちに、何か緊張感を孕んだ声音で「なかったです、」と静かに言い直す榊。何か自責の色を感じたのだが、それが詳細にはなんなのかわからず、加えて今はそれを拭わなければという義務を感じなかったので何も言わずに受け止めることにした。言われてみるまで気付かなかったが、確かに中学生のうちに好感を抱いていたなら高校時代にも引き続いて精神攻撃をする理由はないように思える。そこでふと、何故榊が同じ高校に進学したのかという疑問を思い出した。榊にしてはレベルが随分低かっただろうに。問うと、ああ、となんだか複雑な笑みをこぼして「半分は、」


「半分は本当に個人的な問題で、祖母への当て付けと自己決定の実現のためでした」


 祖母、とは幼い頃ここに来た人のことを言っているのだとなんとなく分かる。はじめにその単語を出したときも同じような、あまり嬉しそうな発音をしていないし、先程中学時代の話に出て来た亡くなった彼の祖母というのも同一人物のようで、良い感情も語らなかった。第二希望に据えていた難関校が、生前その人が奨めてきた学校だったらしい。人に勧められた道ではなく自分で描いたライフプランに沿いたかったから、教師の反対も聞き入れなかったとか、そんな話をしてくれる。「母が喜んだのが癪でしたけどね。あの人は僕に勉強させたくないんです」冷たい大人になってしまった人の他人を見限るような口調にも、それこそ中学生の拗ねたような口ぶりにも聞こえる。「榊は勉強、好きだもんね」「ええ」

 もう半分は、というところまで言葉にして、思案するような間があった。そのとき丁度水道が見えて、彼も一度話を切ってそちらを優先した。

 蛇口は彼が捻ってくれたので、高い位置から落とされる水が跳ねるのを避けようとしながらずっと握っていたハンカチと一緒に手を洗う。


「あなたの志望校を選んだのは、あなたの近くにいるためでした」


 一旦手を止めて脇に立っている彼を見上げる。


「大久保は、自分の暗い側面に関してはひた隠しだったじゃないですか」

「……うん」

「けれどあれだけのストレスと……恐怖感を、ひとりで抱えつづけたらいずれ破綻してしまう」

「、…」

「知っている人間が要ると思ったんです。ガス抜きの必要も、その側面が認められる必要もあった。そう思って」


 瞬間的に競り上がってくるものを感じて、思わずため息をはく。胸元が蕩けそうに暖かいのは、これはまた泣きそうだったのだと徐々に気付いて苦笑してしまった。榊はよく分かっている。平常時に真っ向から暗い感情の吐露を求められたところで呼弥は応じないのだ。そんなものないように振る舞ってついに話さなかっただろう。びたびたと、乱暴な音を立てて落ちていく水が心地良い。

 と、思うじゃないですか、と急に彼が笑った。笑ってはいたけれど、どこか弱々しくて普段の様子からは想像も出来ないような頼りない話し方に不安になる。実際そういうつもりでもあったが、これは言い訳だと口早に告げる彼の雰囲気は、しかしいつものペースを取り戻し始めている。


「迷惑な話でしょうけど、僕は単純にあなたを怯えさせたり泣かせたりするのも好きなんです」


 ……ああ、自責はここから来ているのだ。助けにきたことや呼弥を肯定したことが事実存在する前向きな愛からのものでも、反面誇れないような後ろ向きな好意も持っていた。今こんなに大切に扱ってくれるくせに、その対象をなぶるのも好きだなんて。

 変なひと、と呼弥は笑った。それ以上の言葉は思い浮かばなかったし、これさえ言えたら満足だった。瞬間の相手の表情は見逃したけれど、次に見たときはなんとも言えないような苦笑を浮かべて、急にその場にひざまずくのでなにかと慌てる。


「えっ、なにっ?」

「とても顔を上げられないなと思いまして」

「やっ…、やめてよ、なんか気持ち悪い」


 まだ呼弥の中ではとてもこちらから見下ろせるような雰囲気の相手ではない。高い地位の人間に頭を下げられたようなギャップを感じて心底慌ててしまうが、端から見れば年頃の男女が小さな水呑場の近くでしゃがみ込んでいるだけである。

 立って、と促すが返事をしてくれなくて困ってしまった。しかし間もなく視線だけこちらに寄越したかと思うと、「手、洗えました?」といたずらめいた声音で問うて、呼弥が答える間もなく立ち上がる。行きましょうか、と何度か聞いた言葉。それまでが困らせるための意地悪だったかのようで文句は少し零してみたものの、上手に流してくれただけであの挙動に嘘などないのだろうと歩きながら思う。



 そのあとはどうでもいい、退屈な話を繰り返した。退屈だけどもとても重要な感じのする愉快な話。例えば幼い頃の思い出話だとか、中高の笑えない話もしたし、この公園の運営状況を邪推してみたり、もしかしたら他の友人と話すのとさして変わらない内容だったのかもしれないが、素直にものを言えるからなのか、楽しい。気付いたら声を立てて笑いもしていて、随分元気になったものだと皮肉るように考えていたらそういったことを相手も言うからまた笑ってしまう。

 公園を出たのは四時くらいだった。駅までの道を辿りながら夕食にも誘われて、これも受けた。何の無理もなくもう少し話がしたくてそういう返答をしたのは久しぶりだと思う。次いでかけられた何が食べたいかという問いに思案して、ファミレスは嫌、とだけ言うと「嫌いそうですしね」と返された。もういいかげん慣れてもよさそうなものだが言い当てられたことに驚いてしまう。試しにどうしてそう思うのかと聞いてみると、反動形成、と呟く声がする。


「って、言ってわかります?」

「聞いたことある気がするけど意味まで知らない」


 知っててくださいよ、と悪戯っぽい笑みを浮かべたので中学か高校で学習した話なんだろう。「保健?」科目を確認する。「と、倫理です。防衛機制の一種ですよ」説明をしてくれたが何のことだか結局分からなかった。こちらが理解していないのを知ってかしらずか、正直覚えていてもそんなに使う局面のある知識じゃないのだという評価を口にする榊。身も蓋も無い。

 要は本音を隠す必要を感じたときに反動的に逆のことをしすぎることらしい。駅前のファミレスの前を通れば大体友人と談笑してたし、人に振る舞う手作りの菓子には果物を使ったものが多い、という指摘を受けて確かにファミレスはそんなに好きではないのに行き先として提案しがちな気がした。


「そんなとこまで見てたの?」

「あなたがファミレスに居すぎなんです。お菓子については僕の見すぎですけど」


 いつ見られていたというんだろう。中高合わせた六年間、一度も同じクラスになったことはないはずだ。情報収集に関する抜目のなさには相変わらず呆れてしまう。

 どういった店に行きたいか当てることも出来るのだろうかと考えたが、昼に既に答えが出ているようなものだった。多分そういった嗜好も把握済みなのだろう。お任せで店を選んで貰うと電車に乗って降りた先の、呼弥が一度訪れて好印象だったカフェレストランへと連れて行かれた。流石にこの店に入ったことがあることまで榊は知らなかったものの、好きそうだと思っていたと話すので本当に不思議だ。

 ここでは自分の食べた分の代金は払わせて貰った。小銭を数えながらこの二日で彼はいくら使ったのかと不安になったので、帰路の話題に上らせてみる。はじめはなんでもなさそうな笑みを浮かべて行きの電車の中で口にしたのと同じことを言ったのだけれど、詳細に攻める方法をとって向こうからの交通手段を問うと、立ち止まって呼弥をじっと見つめた。それからまた歩み出したがなにやら不穏な笑みを浮かべている。


「タクシーで」

「え?」

「タクシーで来ました。夜行バスにも乗れない時刻だったので」


 冗談だろう、と言いたいところだが、まさにそれだ。電車や新幹線も動かなければ、夜行バスも既に発っている時刻。他に交通手段があるとしたら自家用車かタクシーで、一般入試を受験し県外へ引っ越した榊に自動車学校に通う暇があったはずもなく、つまりタクシー一択になってしまう。金額を考えると眩暈がする。それをそのまま彼に負担させるのを考えても倒れそうだ。

 交通費を半分払う、と申し出るが一蹴された。曰く「そんな学生がポンと出せる金額じゃない」だそうだが、この人も学生ではなかっただろうか。食い下がってみるけれど全く応じる気配を見せず、縋り付くように頼み込んでみても駄目だった。

 貯金があったんだと彼は話し出す。


「小遣いの使い道を見つけられない子供だったので、結構貯まっていて。もし今後、どうしても金銭的な手助けが必要になったら使おうと思いついてとっておいたものなので、いいんです」

「でも、」

「バイクに貢ぐ人もいればなにかのグッズに投入する人もいるじゃないですか。対象が違うだけですよ」


 最終的に相手は昔から男性は女性にお金の心配をさせるなと言うじゃないかと言い出すので思わず「じゃあ最初から話さないでよ」と文句をつけた。これで今後、こういった類の話を避けられたらそれはそれで困るのに、呼弥もわりと無茶苦茶なことを言っている。考えても楽しくなかったでしょう、とくすくす笑う榊は非常に楽しそうだった。意地が悪い。


「榊はサイテー。」


 思いつきで呟いて相手の様子を伺うために視線を隣へやる。同じような眼差しを返してきた彼が懐かしそうに受け止める言葉を言うから、安心して明日のことを考えることが出来た。

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