ヘリオライン

 大学はそろそろ単位決定の時期に入り、午後十一時の自室で呼弥は講義で使ったルーズリーフと向かっている。大学では高校までのように板書などある方が珍しいから、ノートの取り方を考えなければならないなとぐちゃぐちゃした鉛筆書きを眺めながら考えた。本当はもっと前から考えていたのだけれど、勉強の時間をとるのが難しかった。時間の上手な使い方も考えなければならない。前期で随分学んだ。

 能動的な思考に辟易してきた彼女は息を吐いて背もたれに背を預ける。俯くと伸びた髪が横顔を隠しにやってくるが、その量が多い。(梳きたい……)アップにするのをやめたので、気にならなかった髪の多さが改めて煩わしくなってきた。ついでに色くらいいれてみようか。周囲の誰もが染めていく中で一人黒髪のままでいるのは少々不安だった。———不安といえば、と、負の感情に巻き取られてゆく思考。(……榊)しずかに唇を噛んで自分の身を抱く。

 あれから丁度一ヶ月程度だが、彼と別れた翌々日からずっと感じてきた不安。その身も覚束なくなる程の恐怖は、これまで人に対してあんなに素直になったことがなかったことからだろう。いくらか、後悔していた。助けられたとも思いながら、彼のことはもうある程度信じてもいながら、単純にあの日の自分の弱さに怯えている。あの日まで好かれていても、あの日嫌われなかった確証はない。榊がずっとずっと大人で、好いてもいないのに呼弥を助けた可能性がないわけでもない。(…単純かな……)あの日、やはり、彼が呼弥を欺かなかったという保証も——、…話してくれたことに嘘はないと、おもいながら。


「………」


 左脇にある携帯に少し触れてみる。こんなとき、他の人物相手ならメールでも電話でもしてみて友好を確認するような癖がある。仮初めでもなんでもいいから、言葉を交わすことで不安を紛らわしていた。しかし榊相手にはどうにもそれができない。全くの本音で接した分、些細な相手の一言で傷付くようなそんな予感があった。たぶん、榊が本当はどんな人がなんていうことも問題ではない。話し方がわからない、その一点に尽きる。

 携帯を開くのはやめた。そもそも夜更けだ、常識的にはメールも発信も十分迷惑になり得る時間。だか、ら。


「っ…!」


 ———と、思考に終着点を見出だしたときに、マナーモードにした携帯が震えた。サブディスプレイに表示される、それが電話着信だということ。発信者を示す片仮名は、さかきゆづる、と確かに綴っていた。

 呼弥は長いこと逡巡した。本当は二秒くらいだったかもしれない。


『今晩は。』


 彼の一言目はそれで、続く「もしかして寝てました?」の言葉のうちに彼女の呼吸は徐々に楽になって行く。「ちが…う、違うよ、」私、かけようと思ってたんだよ、今。咄嗟にそんなことを言いそうになって声が躓くので、立て直すつもりで返す「こんばんは」。他の相手との通話の始まりがどんなか呼弥はそのとき思い出せなかったが、不思議なやりとりのように感じられて困惑してしまう。(ああ……、言わないんだ、こんばんはって、あんまり、)


『すみませんこんな夜更けに』

「いいよ、……どうしたの?」


 榊は少し沈黙し、穿つような声で、警戒していますね、と告げてきた。どきりとしてはじめは否定の言葉が飛び出そうになったが、どうしてかそれはゆるゆると胸に隠れていって、代わりに単純で凡庸な肯定の二音が受話器に向かう。彼は少し笑って、当然だろうといった言葉を差し出してきた。


「ごめん、」

『謝ることじゃないでしょう。動物的にも人間的にも極めて正当な反応です。信用に値しない相手なんですから』


 理屈っぽい。榊らしいといえばらしいのだが、誇張して描いたような“らしさ”そのままだからなんだか可笑しかった。別なところでも彼はこんな話し方をするのだろうかと思うと気の抜けた笑いがこぼれる。微かに届いた吐息が優しげな色をしていた。

 最近どうですか、という、急に自然な言葉を持ってこられて逆に「どう」とはどういうことか判断しかねたが、普段しているように対応してみる。「普通かな、」そう言って相手の様子を見て、楽しい話をするか相手の話に耳を傾けるのがいつものやり方だった。榊に限って相談や愚痴のわけもなく、やはりそんな様子もないので近頃あった事柄を喋ろうかとも思ったが、話題の選択に悩んでしまって言葉が切れる。取って代わる相手の話は、「僕も普通ですね」から始まった。大学に行って、友人に振り回されない時間は勉強をして、バイトに行って、帰宅する、といった内容を至極端的に退屈そうに。けれどそれで糸口が見つけられたから呼弥は安心する。「友達、どんな?」


『どんな、と言われると困りますね……。……よく一緒にいるのは、変ですよ』


 榊より?という言葉は飲み込んだ。「変って、なぁに、」笑みを交えた声音で応答する。説明が難しいのか榊は少し唸る。


『想定外のことを……するわけでもない、か、…なんというか、考え方が突飛ですね』

「頭いい人なんてみんなそんな気がする」

『ああ、頭いいですよ彼』

「……榊より?」


 ここで言ってしまっても遠回しに榊も変だと言っているようなものなのだが、彼はとくに追及せず、「ええ、かなり」と友人の評価を続けた。六月に話したときも変だという言葉を素直に受け止めていたから、自覚として頭にあるのかもしれない。それにしても、彼がここまで言うその友人とやらにはあまり会いたくない。

 再び間が空いたが、この時には話題を急く気持ちは随分落ち着いていた。そうだ、こんなふうにあの日話したのだと実感しながら、思いついた話を振る。「夏休みは帰ってくるの?」


『……ええ、まあ。盆だけになりますけど』

「お盆だけ? 勿体なくない?」


 バイト先に迷惑をかけるから、という返事に釈然としないものを感じ、触れないほうがよかっただろうかと少し悩んだ。が、その僅かなゆらぎを感じ取ったのか「正直いうとあまり気乗りしないんです」と榊は打ち明けてくれる。盆と正月、榊家の親戚は集まることを決めているらしいのだが、それが嫌なのだとか。本当だったらバイトを理由に不参加にしたいところだとすら言う。聞かないと思っていた榊の愚痴を聞いてしまったことに驚きながら、集まる場所は何処なのかを問うたりした。


「じゃあ、実家にずっといるわけじゃないんだね」

『そうですね。母が寂しがるので一度家には帰りますけど、殆ど県外です。会います?』


 突然の提案に脳が一時混乱する。何しろ直前の話題と全く同じ調子で少し違った話題になったものだから。いいよ、忙しいんでしょ、と口にしてから本当にその答えでよかっただろうかと思った。そうですか、と相手はさらりと流してしまったので以降にはこの話は出なかったが、勿体なかったような気もした。

 もう遅いから、と言って榊は再び深夜に電話をかけたことの詫びと、それから通話に付き合ったことに対する礼を述べた。次に別れの挨拶が来るだろうと予想出来たときにふと思い立つ。「あ! あのね、」


『はい?』

「私、電話来る前、私から連絡しようかなって思ってたんだ、だからあの、……びっくりしちゃった」


 ありがとう、という言葉も同時に浮かんだのだけれど彼女の口はそちらを選ばなかった。榊はちょっと間を置いて、それはすみませんでした、と口にする。

 愉快そうな声音で。

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