『洗哀』
シャワーははじめの提案通り呼弥から使ったので、当然先にベッドに入ったのも彼女だった。彼の言った「疲れている」は精神的疲労を指しているのに違いなかったが、そうでなくとも今日はもう横たわったら眠ってしまうほど疲れているだろうと思っていた。そんな予想に反して一切眠れそうにない。榊がシャワーから戻ってきて頭を乾かしている間も、布団をかぶってはいたが寝たふりでしかなかった。仕方ないから起き上がって彼と話をしようかとも考えたが、タイミングが掴めず結局消灯まで話しかけず仕舞いで、相手が寝てしまったのかよくわからない今、暗い部屋で目をつむったり、開いて何か穏やかになる方法を考えたりしている。やがて眠れない状況に堪え難くなって、布団をずらして起き上がった。
カーテンは閉められていて外の様子は見えない。手を伸ばせば開けることもできたがそこまで興味もないので、見つめっぱなしである。
布擦れの音がして榊が起き上がった気配がした。呼弥が振り返るより早く、眠れませんか、と問う声がする。振り返って応えると、彼は自分の使っている掛け布団をめくりながら「隣来ます?」と、極端に優しくも、または何か下心のありそうな様子もなく、どちらかといえばどうでもよさそうな表情で言った。応じなければ、とも思わなければ抵抗を感じることもなく、単純に、そうしてみようかと思わせる選択肢の示し方だった。少し彼の方へ身を傾けると、それを同意と捉えて相手は奥にずれ、手を差し延べる。呼弥は静かにベッドを降りてその手を取りに行きながら榊はこんな受け入れ方をよくすると思い返し、そういえば高校時代にも幾度かそんな所作を見たことがあったのに気付く。
布団に入るとごく自然に、彼に抱きしめられる形になった。そのぬくもりに彼女は自身でもびっくりするほど完全に身を委ねていて、信じられないくらいあっけなく眠りに落ちていった。
目が覚めると隣に榊はいなくて、窓側を探すともう一つの、はじめ呼弥が使っていたベッドに腰掛けてスマートフォンを弄っているのを見つけた。カーテンが開いて日の光が室内を充分に照らしている。呼弥が起きたことに気付いた彼は今九時だということを告げ、まだ寝ててもいいですよと言ったので、素直にまどろむことにして布団に包まる。
次に目覚めたときは昼になっていた。榊は荷物を纏めてベッドを整えていて、丁度起こそうと思っていたと話した。
「ちょっと出掛けませんか」そう笑った表情は彼にしては珍しく、屈託なく楽しげだ。
「……どこに、?」
「内緒です。お腹空いたでしょう」
実際、かなりの空腹感があったので肯定する。
昼食自体は、チェックアウトしたホテルに割合近い飲食店でとった。エスニックな雰囲気の店で、呼弥は炒飯を、榊はナンを注文したが、彼はフルコースに添えられたパンをちぎるような非常に綺麗な食べ方をしていて、好印象ではあったのだけれどどうしてか「変なひと、」と呟きたくなった。
内緒だと言ったくせに行き先についてはここで話してくれた。ここから電車で三十分もしないところに、緑化センターに併設された公園があるのだという。
「公園というよりも、花畑ですけどね。行ったことありますか?」
「ううん……ない、と思う」
「そんなメジャーなところでもありませんからね。どういう運営をしてるのかよくわかりませんけど、植物園というほど収集を行う施設でもなく、ただひたすら花畑です。幼い頃祖母と両親と行ったことがありますけど、子供には退屈でした」
それがどのくらいの年齢だったかはわからないが、その類の施設を榊が退屈というのはなんとなく違和感があった。博物館なんかも小学生で楽しんでいたような顔をしているし。何気なくそれを口にすると彼は笑って、随分知的な人間だと思われている、と言い、続けて確かに小学生のころから博物館は好きだと肯定した。
「残念ながらあそこには学術的なものが何もないんです。よくわからない花が説明もなく広がっているだけだった。それに親たちは何か難しい話をしていましたから」
ふうん、と、素っ気ない相槌を打つ。少し不安になる。呼弥はずっと笑みを浮かべずぼうっとしていて、無愛想とも取られかねない態度だった。ときどき心配になるけれども榊は気にしている様子はなく、こんな心配を繰り返しながらその、彼の許容するような姿勢に甘えているのだなとぼんやり考える。
「その、退屈な場所にこれから行くの?」
「ええ」
退屈、という言葉が似合わない。
店を出て電車に乗って、目的地まで向かう。電車に乗った時点で、そういえば交通費から昼食代まで昨日から払ってもらってばかりだと気付いたが、話題に上げてみると「それ、考えてて楽しいですか?」というどうしようもない台詞で流されてしまった。だから呼弥も気にするのをやめる。
降りた場所には街らしいきらびやかな影はなく、見えるのは穏やかな印象の団地や高級そうな住宅街くらいだった。それらは各々固まって自然に囲まれており、駅だけが妙に近代的だ。国道を逸れて、林に囲まれた道に入るとすぐに足元がアスファルトでもコンクリートでもない、木を細かくして敷いたような舗装に変わる。なだらかな上り坂を歩いてゆくと階段があり、上った先で視界が開けた。辿ってきた道はそのままゆるやかなカーブを作って再び林の中に入って行くが、左右にも道はのびており、右手には芝生とセンターの施設らしきものが、左手には遊園地の入場門のような丸太で作られた柵と小屋がある。目的の場所は左手のそれらしく、榊が受付を済ませるためにそちらへ向かう。ついて行きながら呼弥は言葉を失っていた。
柵の向こう側に明るい暖色の絨毯が見えた。すべて花のようだ。「ただひたすら花畑です」と話した榊の言葉通りの景色である。こんな場所が存在したのだということに驚いて、行きましょう、という声を聞きこぼすところだった。
入場門を抜けると完全に開放的な世界になってしまった。右にも左にも前にも花がひろがっていて、タンポポやカタバミのような雑草から園芸植物まで、区分けはされているものの好きなように葉を伸ばしていた。今思うと随分変な場所だと榊が呟く。「園芸植物なんて淘汰されてしまいそうなものなのに」
「すごい、」口にしてみるとなんだか自分の存在が覚束なくなりそうで思わず彼の袖を引っ張った。
相手は微笑む。「晴れてよかった。そろそろ梅雨ですからね」
天気の話題が出たので自然と目線が空に行ったが、ほとんど雲もなく真っ青で、心なしか広く見えた。なんとなく地平線、というよりも水平線が、見える気がした。
綺麗だ。
胸がぎゅうと締め付けられる感じがして、なんだか泣きそうになっていた。
ゆったりと花畑の間を歩くだけの時間は途方もないほど満ち足りた感覚がした。平日の昼なので人も少なく、いても幼い子供を連れた家族だとか老夫婦で、——どうしてか人目が気にならない。物心ついてから現在までそんな場所はなかった。呼吸をするのに安らぎを感じる。
大分歩いた先の、特に広い黄色い花の咲き乱れるところで休憩した。基本的にここの花畑には足を踏み入れていいらしく、小さな子供達は花に巻かれて蝶と一緒に母親と遊んでいる。下り坂になった花畑の、道から少し降りたところで隣り合って腰掛けて、そんな様子だとか、向こうの木々、遠くに見える町らしき景色を眺める。
あたたかい。ぽつりと呟けば、そうですねと返ってくる。歩いている間は殆ど言葉を交わさなかったし、交わしてもこんなありきたりで意味のなさそうなものばかりだったけれど、話題は探さなくてもいいのだと思った。思いついたことを気の向いたときに話すので充分だと。
そんななんでもないような自然な入り方で、榊が話し出す。
「はじめは、あなたのこと嫌いでした」
「……」
「あなたがいうように。出会ったのは中二でしたよね」
「うん」
「文化委員で。底無しに仕事引き受ける癖に、全く辛そうじゃないので……それだけ暇なのだろうなと」
「……あはは」
「人当たりもびっくりするほどいいので、悩みなんてないのだと思ってました」
人から直接嫌悪感について説明をされたことはなかったし、そもそも嫌いなどと面と向かって言われることも殆どなかったので、ショックを受けてもいいはずだった。けれども気持ちはそこまで重くない。話がこれで終わりじゃないからか、榊の話し方が優しいからか、それにしたってまともにこんな話を聞けるなんて、彼女にとっては嘘のようだ。
彼は、そのとき彼自身に余裕がなかったことを語り、だから呼弥に嫉妬したし、欠陥を見つけたと思うと喜んで謗りに行ったのだろうと言った。それからどんな心境の変化があったかは詳しく説明しなかったけれども、中学を卒業する頃には既に好意を持っていたのだと話していた。
「うそみたい」正直な感想だったが、笑みも零れる。
「そうですよね。あなたを虐める材料を探すうちに、好いところがかなりの意味を持っていった気がします」
「変なの、」呟いてから昼のことを思い出して言い直す。「変なひと。」
「変じゃないと思ったことあります?」
「だって榊って、模範だと思ってた。正しいから私の悪いとこが目につくんだって……、……思ってたみたいだね」
意識の中で、榊を心から褒めたことはなかったから、話しながら初めて自分の気持ちの構造を理解した。彼が怖かったのだ。絶対的な人間性を持つのだとなぜか信じていて、だから恐れて、けれどそればかりでは行き場がなくなると無意識に知っていたから嫌うという方向に逃れた。よくよく考えるとはじめは怯えながら接していたなと思い出す。途中で我慢ならなくなって、退けるようになったのだ。
私も嫌いだった、と、口にする。それは彼女にしてみれば特に、とても大変なことだったから音を連ねるときも細心の注意をはらったし、口にしてしまってからは、そのときだけは本当に怖くなった。けれど相手は「僕のことが嫌いなあなたのことは嫌いじゃないですよ」などと冗談めかしたので、すぐに気持ちは楽になる。互いに笑みを交わしたあと、榊が少しだけ真面目な様子になって口を開いた。
「僕はあなたを随分傷付けました。そのほぼ全てがあなたが恐れる言葉を選んだに過ぎなくて、本当にあなたの性質を表す言葉なんてろくにありません」
「そうかな……裏があるのも本当だったよ」
「それは、普通の人間ならあたりまえですよ。大人になっていくにつれて誰もがそれを当然のこととして認めてゆく。自分に対しても、他人に対しても。何かを嫌だと思ったり誰かを嫌いになることはごく自然なことですし、制することは出来ません。ほっといたってあなたは多分、充分他人に優しい」
だからこそマイナスの感情に戸惑うのかもしれないけれど、というようなことを挟んで、続ける。
「それに、恐らくあなたが思っている以上に周囲の人達はあなたを愛しています。好意を持つ相手に対して人間って甘いんですよ。あなたが少し愚痴を零したり、頼み事を断ったところで嫌いになることはないです」
「……そうかな……」
膝を抱いて顔を埋める。何よりも欲しい事実だった。誰かにそう言って貰いたかった。榊は本当に、呼弥の求める言葉をよく知っている。——けれどどうしてか、気分が悪い。
彼を疑っているわけではないはずだった。ただ、
「わたし、そんな、好かれるようなひとかな……」
彼の語る人物像と自身の印象に、溝がある。
風に揺れる花と無邪気に笑う子供と、……水平線。
呼吸は楽だった。自分が覚束ない感覚ももうない。けれど人の間に入っていくのは。あそこで息をするのは。
この呼気が、厭われないだろうか。
風が舞って、タンポポの綿毛が飛んでいく。少し強い風だった。
違ったら駄目なんですか? と、彼はそう呟いた。
「大多数に好かれる人間じゃなくても、あなたが苦しみながら選んできた生き方が、駄目だとは思いませんけどね……。」
花が揺れている。(…泣きそう)
波打つ。なにか、青いものがみえる。
「この場所を訪れるような安らぎをあなたに見出だしている人たちが少なからずいることを僕は知っています。現に、あなたがあなたを好きになれないことをもどかしく思って、こうして言葉を重ねる僕がいますよね。あなたの生き方を肯定的に思う人間のひとりです。……随分苦しめましたけど、それでもあなたは他人に手を差し延べ続けて、微笑み続けた」
「まっ、て、よう……」
榊の袖を強く掴む。悲鳴のような制止の声を上げた呼弥に対して、彼はひどく穏やかな声で、なんですか、と問い掛けてきた。どんな言葉も間違いなく聞き届けてくれそうな、かけがえのない音をしていた。
泣いちゃう、と続けると相手は声を立てて笑って、泣いてください、と答えた。
たまには泣いてくれないと心配します。そう言ったのを呼弥はもう殆ど聞き取れなかった。目元が熱を持って、頭の中に濁流が流れ込んできたようになって、耳はしばらく機能しないほど、次から次へと涙が溢れてくる。これがどういった涙かははっきりと分からなかったけれども、多分彼女は、はじめてこんなふうに泣いた。
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