黒斑をうつ
——あ、
嫌だ、と、彼女は思った。
どうして卒業式ってこれからも会うだろう相手と別れるだけの行事なのにこんなに泣くのだろう。どうしてこんなに悲しいのに空は青くて、どこかすがすがしい気持ちもあるんだろう。そんなことを言ったのは、答辞を述べた
卒業生がやってくる。一つ年上のあの列の中にも、呼弥の知り合いは十分いる。学校が用意した簡単な、すこしお金のかかっていそうなコサージュを胸につけて、卒業証書を手に、親を引き連れて正門を出て行こうとする最後の制服姿。(きっとこれが大人になっていくということなのでしょう、)ああ、嫌だ。とても直感的な感情だったけれど、彼女は、呼弥は、思った。多分それは素直には別れを惜しむ感情であったのだけれども、そのときの呼弥にはあってはならない感情にしか思えなくて、できれば身を隠してしまいたい衝動にかられている。
「こんちゃん!」
「大久保、またな」
「どっかで見かけたら声かけてー!」
「ハイこれ、じゃ、バイバイ」
「あー、呼弥ちゃん! 送る会の実行委員お疲れー! アレよかったよー!」(寝てたくせに……)
女子は手紙を渡してきて、男子は無責任な言葉をかけてくる。それに一つ一つ丁寧に、暗黙のルールを守りながら応答していく。手紙もきちんと用意していたし、返事に関して何も困ったことはなかった。唯一つ不安なことといえば、自分が今笑えているかどうか、だった。
「清々したでしょう。」
こういう日に限って、狙ったように彼は呼弥の元へ来て聞きたくもないことを吹き込んでくる。正確に言えば、知りたくもないことを、暴きにくる。
もう榊に自分の暗部を見透かされ抉られることにはある程度慣れてしまったというか、慣れてはいないのだがこの頃は一種の諦観を持っていた。この人は、自分につきまとうための悪魔か、断罪者か、そういったものなのではないかというふうに呼弥の中で諦めがつき始めていた。だから出来るだけ会いたくなかったし、出来れば話しかけてほしくはない。今日は特に、いつもに増して退けたいと思っていた。これまでは自分の知っている欠点について言及されてきたが、今日のこれは、ついさっき初めて自分で認識を始めたそれこそ生傷のようなもので。
「清々、」
「煩い先輩がいなくなって、今日みたいな接待の真似事もしばらくはしなくて済みますからね」
そう思ったんでしょう? 問いかける声は嫌になるほど整然として、陰湿さなど全く載せられていない、しかし純粋に鋭利な色をしている。この人はどうしてこんなに冷静に、的確に、そしてどこか悦に入るようにこちらの奥底の暗い部分を突いてくるのだろう。どうして、言葉というかたちにしてしまうのだろう。
清々。せいせい、した。
見送る側の卒業式なんて、与えられた役目を終えて、泣いて、すっきりして、その後はただ自由なだけなのだ。だから空がこんなに青くて綺麗で、私は——すがすがしい。(
(非道い、そんなの、やだ)
気がつけば心中で吐いた言葉は口から零れていた。ひどい、そんなの、やだ。「酷いって、それは貴女のことでしょう」「違う、私、……そんなの嫌だ」
呼弥は、あの先輩達が決して嫌いではない。煩わしく思うことは正直に言えばあったのだけれどそれでも、決して嫌いではなかった。だから卒業式にこんな感情は認めてはいけない、否、認めたくはなかった。ただ単純に、そんな温かみのないものは、今はどうしても排斥していたかった。「それはつまり、自分の汚いところを認めたくないということですよね」もう少し謙虚だと思っていたんですけど、と呆れるような声音。「貴女がその感情を認めたくないのは、先輩方のためですか? 違いますね。貴女は自分が綺麗な存在だと思いたいだけです」思考を先回って先回って、あの日呼弥を暴いた同級生は同じように追い打ちを掛けてくる。それに呼応するように今度は思考の方が飛躍的な問いと答えを立てては崩そうとする。なんといっても、彼女にはもうそんな状態の自分自身があまりにも汚らしく感じられた。
どうせ、汚い。私はどうせ、汚い。望むような、求められるような、優しさも温みもそもそも持ち合わせてなどいない。
(だから、なに)
だから何。誰も、誰一人としてこの張りぼての温かさを拒んだりしなかったじゃないか。求めこそすれ、一時的に受け入れて貰えないことがあったにしろ、結局は誰もが「優しくて頼りになる大久保呼弥」を否定しなかった。呼弥のことなどお構いなしに、多分それは、都合がいいから。
「……ほっといて、」
「…なんて?」
「ほっといてよ。私がどんな思いしながら生活してるかなんて何も知らないくせに」
ああ、回り込む背の高い相手。表情を窺うように少しかしげた首は、男子のくせに綺麗な髪を夕日にきらめかせる。「知ってますよ。」彼の後ろの窓が赤々としてまぶしくて、影となった彼自身の表情から視線だけが刺さるように呼弥に届いた。(まぶしい。……眩しい、大嫌い)
「しらないよ、あなたなんかに分かるわけない」
「ええ、わかりませんね。どうしてそんなみっともない生き方ができるんですか?」
「だから、わかるわけないって、言ってるでしょ…! いつもいつも、煩い、」
榊の唇が笑みを象った。実際は呼弥は俯いていたからその様子は見なかったが、そういう気配を感じたし、後に顔を見上げたときにも彼は愉しそうに表情を歪めていたからおそらく間違いではない。
「………離してもらえます?」
言われてはじめて気付く自分の手の中の感触。榊の腕にすがるように制服の袖を引っ張っていたのはたぶん、激しい喧嘩の前触れに一方がもう一方の胸倉を掴むようなことと同じ意味合いを持っていた。同じように激昂したために溢れていた涙はごく自然に重力にしたがってあごを伝って落ちていく。こんなに。こんなに嫌な思いをして怒っているのに全く相手には届いていない。人を睨み上げることなんて初めてした。そもそもこんなに攻撃的な言葉をぶつけたことさえ彼女にはなかったのに。
「ほら、榊、全然知らない。」
静謐を伴った自分でもぞっとするような声。恨みをのせた言葉は、のちに後悔することになっても今この瞬間は歯向かえたことに対する満足感が胸に広がっていく。どちらが非道いかはこのときもう問題ではなく、ただ、正しさを裏返したような鈍色の優越——榊は、知らない。呼弥の思いなんて何一つ受容しない。結局、他の人間と何も変わらないのだ。分かったような気になっているようだけど。
そうして凶悪な思いに駆られながら、ああ見てしまった、とも思っていた。これが本当の自分だったのだ、誰も彼も騙して、醜悪なものを集めて固めたようなモノが“わたし”だったのだ、と。ゆっくりと彼の袖から手を離して一歩離れる。制服に皺がついてしまえばよかったのにと、直すように二度ほど袖をはらっている彼を見る。素直に「嫌い」の二文字が胸に浮かんで、いっそ、それこそ、(清々しい。)
知りたくもないのにあなたの汚らしい部分を見せられてるこっちの身にもなってくださいよ。汚いものは目に付くんですから。
そう言って踵を返した榊を見送りはしなかった。誰もいなくなった場所はなんでもないただの夕方の廊下で、日はもう空から背を向けたような暗さになっていて、足をすりぬける三月の冷気と絶対的な無音が、今生まれたばかりの彼女をひどく責め立てているようで。息を吹き返した自分に対する嫌悪に耐え切れなくなった呼弥はその場にしゃがみこんで泣いた。
もう少し、せめてあと少しだけ優しくて温かい子になりたかった。
明日になればまたきっといつもの様にわらって誤魔化して演技を続けていくんだろう。容易に想像がつくから救いようがない。きっと一生こんなふうに生きていくんだろう。誰にも何も気付いて貰えないまま、たぶん、本当に愛してはもらえないまま。
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