つぎの帳
スキャニングされた文字の掠れをじっと睨めていた時間はどのくらいだろう。そう長くもないだろうが、この様子を誰かに見つかるのをおそれているから一秒も一分に感じられて落ち着かない。けれど、足は縫い付けられたようにその場から動かない。悪夢の一端のようでどうしようもなく箔の付かない日常の一片そのものであることを、喜ぶべきか嘆くべきか。
握り直した教室の鍵が何かを知らせるようにかちゃりと鳴った。次いでぱた、と足音がする。はっとして戸口を振り返ると一人の男子生徒が立っていて、あんなに神経を尖らせていたつもりだったのに人がいることに気づけなかったのを口惜しく思いながらそれを強引に胸に押し込める。「榊君」笑ってみせたけれど相手は笑わない。
「……締めないんですか」
「締めるよ、ごめんね」
彼は、ごく自然な様子で教室に一歩踏み入れながら呼弥が後期は文化委員ではなかったことを確認する。文化祭が近く、その中で開催される校内合唱コンクールの練習で業後残ることを許されているが、その場合普段は室長が任されている教室の戸締りを文化委員が引き継ぐという形を取っていた。けれど今日はクラスの文化委員が私用で早く帰らなければならなかったために呼弥が引き受けたのだ。そう説明すると榊は「ああ、」と低く相槌を打った。何か含めた、ように。
およそ一ヶ月前の理科準備室を、呼弥は当然よく覚えている。呼弥の悪癖を厳しく詰った彼とはその後委員会の再編があったことであまり接点がなく、現時点では印象を挽回することも難しく思われたので無闇に関わらないようにしていたのだが———こんなところを見つかるなんて。彼は、目敏い。早いうちにこの場を離れなければならないと思った。
「……何をご覧に?」
「えっ?」
「眺めていたでしょう。何か……」言いながら視線が掲示物群に移動する。
いけない。意識を逸らさないと。
「あっ、うん、でももういいの」
「………」
「……榊君のクラスは曲、なんだったっけ。『空駆ける天馬』?」
ええ、と短い肯定。目は相変わらず掲示物に向けられているが、なんとなく眺めている程度にも見える。呼弥も目線を追ってみるが、その先がどこに繋がってるかまでは流石にわからなかった。少しだけ。逸らしたい。
「…十日って目の愛護デーだったの知ってる?」
ちら、とこちらを見たのを感じながら、呼弥は平静を装って掲示された保健だよりを見つめる。相手もそれに気付いたようで、今月の便りにありましたね、と話題を合わせてくれる。「特別なことはなにもしませんでしたけど」
「一緒。あ、ねえ、榊君って裸眼?」
「そうですね」
「そうなんだ。私もなんだけど、今年の視力検査ちょっと悪くなっちゃってて……」
呼弥が話している間に榊は掲示物に近づいてゆき、保健だよりに触れた。愛護デーの記事を包むように手のひらを添えて、その様子は文面を読み始めているようにも思われ、呼弥は安心しはじめていた。しかしその手のひらがするりと居場所を変える。斜め左下の、別の掲示物の上、に。
「学級通信」
唐突に唱えられる単語に思考が止まった。榊の指先が印刷された手書きの文字をなぞる。
「あなたはこれを見ていましたね。」
息が、詰まる。
彼の言う通りだった。呼弥はさっきまで、このクラスの学級通信を見ていたのだ。今朝配られたばかりの、不定期の、担任教師による配布物。今の時期の話題は当然文化祭、殊に合唱コンクールに関するものになる。なんとか取り繕おうとして言葉を探すもののそれより早く彼の声が接がれてしまってまた後手。「この生活日誌のコピー、あなたのものですか」「…ばれちゃった? 恥ずかしいからあんまり読まないでほしいんだけど…」あくまで恥ずかしがっているという体、後ろ暗いものはなくていっそ誇らしげでなくてはならない……。呼弥は控え目に苦笑した。僅かに身体の重心を変えたのは何か濁されることを期待したのだろうか。けれどそういった些細な仕草も功を奏することはない。「恥ずかしい、ですか」
「それは違いますね」
「……え?」
「怯えている、と言った方が正しいのでは? たとえばそうですね…———この綺麗事の羅列を目の当たりにしたクラスメイトが一体どんな評価を下すのか、について」
さっと血の気が引いていくのをはっきり感じて、それをどうにか取り戻そうとするように胸元で両手を握る。一度あんなに徹底的に剥ぎ取られた外殻が再び割られてしまうことを、予感もしながら信じられないままでいた。「やっぱりちょっと……変に気合い入れ過ぎちゃったかな?」まだ誤魔化せる、と思うのだ。あさましくも。「まさか先生が通信に載せちゃうなんて思ってもみなくて……」
「なるほど」榊は振り返る。相手の深層を穿つような眼をして、おそろしく綺麗に、笑った。
「不都合は認めるわけですね」
「不都合っていうか、ほら、その……みんなに見せるならもっと……書き方とか、」
「変えたのに?」
そういうものですかね、と冷たい声音。呼弥は静かに震えた。「ご自分の意見を提示するときに、何故相手によって内容を改変する必要があるんですか」「そ、れは」TPO? 冗談めかす言葉は浮かんでも、これ以上抵抗を見せていていいのかという迷いが口にするのを止める。嘘はついていないはずでも、言葉を重ねる度うそが増えていく感覚がして、それはとても不恰好な様子に思えた。目の前の彼は一体いまの呼弥をどんなふうに感じているだろう。嫌な印象は与えたくない。これ以上。(ちがう、やめて、そんな打算的に人と関わりたいわけじゃない……)そんなことはあってはいけない。けれど。
他人のような自分の字に視界が奪われていく。
せっかくこんなに気を遣って必要以上に不和が生じないように立ち回っているのに、なぜ、誰も彼も余計なことをするのか。重たい蓋をしていた釜の中から這い出てくる感情がひとつひとつ、閃いては消える。どうして余計なこと言っちゃうの。どうして勝手な話を広げるの。どうして伝えなくていいことまで伝えるの。どうして。勝手なことしないで!
何かがはじけて真っ白になった思考に滑り込む声はひどく優しく聞こえた。
これさえなければ、と思っているでしょう。
彼の目も再び同じ場所へ注がれている。そして徐に、用紙の天に指先をかけた。びり、と、決定的な音がして、それは悲鳴をあげながらゆっくり地に向けて亀裂を作ってゆく。その音はひとつひとつ、裂け目はひとつひとつ、呼弥の心を蝕んだ。最後にぷつりと小さく啼いて、そこでようやく、自分が一言の制止もしなかったことに気づく。胸の裂け目が傷んでいくように、じわりじわりと暗くて重たいものが産声を上げて、あちこちを引っ掻き回して、いく。
「……だめ、」
一瞥。言葉はない。
「だめ、だよ、こんなの」
「……伺いましょうか。何がいけないんです?」
「だって、…」
榊が呼弥の方へ歩み、ひたと顔を寄せた。眼差しを受けるだけの勇気がなくて俯くと、視界で彼の右手が手放した紙片がおちる。手は、呼弥の髪にかけられた。「共有物を破損したことや、教師の計らいを無碍にしたこと、ではないですね」ぎゅっと目を瞑る。なんて続くかは分からなかったけれど、彼の言葉がおおよそ正しいであろうということだけは、どうしてかわかっていた。
「これはあなたが招いたすべてで、あなたはそれを見たくはなかった。ただそれだけです」
再び一人になった教室で、呼弥は掲示板に一枚の紙を留める。元通りになった掲示板を確認して戸締りをし、鍵を返すために職員室のほうへ歩みだした。
肌寒い。
鞄に詰め込んだ紙片のあるあたりを上からおさえて、赤くなった目元を隠すように俯く。
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