追想
陰踏み
高いというだけで女子の声はなぜこんなに耳障りなのだろうかと彼は考えていた。
「じゃあ私やっておきますね!」
実際、その女子生徒は際立って高い声をしているという訳ではないのだが、よそ行きの声というのか、中学二年生でここまで人に追従するような声音を出せること自体に呆れている。それよりも尚彼の気分を害するのは、彼女の性格だった。
九月。文化委員である
——そんなふうに。数々の不満の波をなんとか縫って、それなりの水準をクリアするだけのものを、と心身を削っている由鶴に対し、彼女の態度といったらいつまでも朗らかなままだし、笑顔を絶やさないし、そのくせ挙げられる仕事をあれもこれも引き受ける。そんな時間があるほど暇なのだろうと察することが出来る分、由鶴の胸の内に生まれるものは賞賛ではなく苛立ちだった。
押し付けられる雑用を心の底から喜んでやっているようにしか見えない。勉強など二の次なのかもしれない。悩みなど一つもないのかもしれない。そもそも、彼女にアイデンティティなどあるのか。浮かぶ予想と疑問がどうしても彼女を憎ませる。自分は彼女程、脳天気に生きていない。
「——榊君?」
「、はい?」
「あの、よかったら手伝おうか? これ留めればいいのかな」
そう言って交互に積まれたプリントの束を指差す。由鶴は内心溜息をつきながらも、短く肯定の返答だけした。
彼女はそれににこりと笑顔をみせてから、隣で作業を始める。どうせなら「私がやっておこうか」とでも言えばいいのにと、内心で由鶴は思った。やらなければならないことが多くあり、勿論仕事も熟すことも無理ではないのだが、先のような彼にとっての理不尽の前に屈服することに納得しきれていない。それだけだったらまだ黙って、むしろ進んで仕事をしていたかもしれないけれど、その時彼にはそういった精神的な余裕がなかった。
家に帰れば課題の他に問題集がある。両親は由鶴に学力の高さを求めなかったし勉学を強いることはなかったが、それはそもそも言われなくても彼が自分から勉強をしたからだったし、そうでなくとも祖母だけは学習に関して厳しかった。問題集は、春に祖母が購入したものである。母にはもうやらなくてもいいと言われた。祖母が先月事故で死んだからだ。
孫の勉強に限らず親類のどこに対してもいろいろと物を言う人だったため、死んだやいなや圧政に蜂起する民衆のように離婚だとか引っ越しだとかを言い出す親戚がいて、相続争いもそれなりに面倒なことになっているような荒れた身内の中に今、由鶴はいる。両親が何か言い出すことがなかったことは幸いではあったけれども。
そうした中で、未だに祖母の言い付けを守って問題集を開く。否、傍目には言い付けを守っているように見えるが、それは彼にしてみれば当て付けだった。
二日程後、帰宅しようと校門に向かって歩いているとテニスコートから呼ばれた。校門とはいっても、帰る方向の関係で由鶴が利用しているのは裏門であり、テニスコートはすぐ隣にある。近付いて行くと体育服のクラスメイトが網の向こう側にいた。テニス部だったのか、と殆ど興味もなく思いながら問う。
「何ですか」
「さっき体育館の裏にボール飛ばしちゃってさ」
「取りに行けと?」
「おねがい」
「自分で行けばいいでしょう」
溜息をつくと、もうすぐ大会だから一分一秒が惜しいのだと彼は言った。ついでに部活の勧誘もされるが、そもそも二年生のこの時期に入部しても遅すぎるという理由を添えて断った。というかこんな話をしてる時点で既に一分以上無駄にしていないかと問うてみると、我に返った彼は再度依頼の言葉を発して自分の定位置へ帰っていく。どう考えても彼が自分で取りに行ったほうが両者のためだったと思いつつ、頼まれてしまっては仕方がないので体育館裏へと向かった。
湿った感覚のする、薄い夕暮れが鬱陶しい日だった。
体育館裏は授業で使われるハードルや体育大会で使用された木材が並べられている。並べられているとはいっても実質放置されているようなものだったので、由鶴は見る度に気分が悪くなる。だからといって整頓するほど授業と授業の間に時間がないし、それ以外で訪れることもなかったためいつもそのままだ。裏どころか脇と呼ばれるはずのところに置き去りにされている木材を二つほど拾い、テニスボールを探す。
ふと、声がした気がして歩を止めた。意味もなく耳を澄ますと、何か鉄製のものが重なって倒れたような音がして、ハードルが蹴られた様子が頭に浮かんだ。
ほんと嫌だ、と、女子の押し殺した声が聞き取れた。「ほんと」と「嫌だ」の間には迷いを含んだような間があった。聞き覚えがある気がするが誰の声かは思い当たらない。
「いつもいつも……自慢話ばっかり、……自分のことしか考えてない……」
声に微妙に嗚咽が混じっている。応酬はなく、独り言のようだった。由鶴は手に持った木材の目を見つめながら続きを聞く。声は周囲に対する不満をあと二、三漏らし、顔を覆ったのかしゃがみ込んで俯いたのかくぐもった声で最後に、私はそんなに暇じゃない、と呟いた。特にこれといった根拠があるわけではなかったが、一人の人物が頭に思い浮かんだ。
音を立てないように気をつけて、体育館の壁まで寄る。涙を払うような溜息の後にがたがたとハードルをそろえる音が聞こえて、やがて走り去る足音と共に彼女はいなくなった。テニスボールは裏を探してもなかった。
テニスコートまで戻ってわざわざ先ほどのクラスメイトを呼び出したのはボールが見つからなかったことを告げるためではなく、確認のためである。時間を無駄にしたくないと言っていたはずの彼はさして文句も付けず、それなら別の人が届けてくれたと言った。
「誰ですか、それ」
「ん? ああ、榊、こんちゃん知らねぇか。一組のさ、女子。大久保
一組の大久保。それで情報は十分だ。
「……随分親しげですね?」からかうつもりでそう言うと、同小同小、と多少心外そうに彼は答えた。
「俺じゃ不釣り合いだろ、あんないい子」
「高望みする身の程知らずなタイプでしょう?」
「うっぜえ、自分が頭いいと思って」
「冗談ですよ。高望みでもいいと思います」
「待て、だから友達だって」
そう言いつつ何処か恥ずかしげな表情を浮かべている。それを指摘すると、やめろよ、とラケットで顔を隠してしばらく沈黙し、「まあ、それだけ、いい子なんだよ、こんちゃん」という言葉で話を終わらせた。それはどうだか、とは由鶴は言わなかった。
挨拶を交わし別れた後、考える。声はこうも言っていた。
(やると思って、あれもこれも頼んで)
自分のことばかりでそんな可能性に気付きもしなかった。大久保——教師も同級生も手放しで「いい生徒だ」と褒めるあの引き受けたがりの文化委員に、まさかあんな一面があっただなんて。笑顔や、気遣いや、人当たりのいい言葉。それが全て作り物である可能性、なんて。
そこを突いたとき、果たしてあの愛想のいい表情はどんな変化を見せるだろう。
由鶴は理科準備室へ向かっていた。担当教師の関係で文化委員の仕事は大抵そこか、第一理科室で行われる。今日は呼び出されたわけではなかったが、由鶴の記憶が正しければ確かいくつかの提出日だったはずだ。彼女は友人に帰りを誘われない日はそこで仕事をしている。
約一週間の間、偶然姿を見かけたらという積極性に欠けるものではあったが大久保呼弥の普段の様子を観察してみて、それなりの収穫は得られた。直前まで見せていた笑顔は人がいなくなった途端に失せること、何か腹の立つことがあれば人目に付かないところでひっそりと愚痴をこぼすことは確認出来ている。一方で、どの教師や生徒に対しても友好的で、ときには全く逆の意見にも特別な反論はせずに応じていた。いわゆる八方美人だったが、そんなありきたりな言葉で表現するには徹底しすぎているし抜け目ないと言ってもいい。全ての行動を見ている訳ではないので確実なことは言えないが、彼女はそういう人間だった。
理科準備室の前まで来て、ノックをしようとしてやめた。声も掛けないまま戸を開けると、予想通り大久保が一人で作業をしている。突然の来客に驚いたそぶりを見せ、すぐに明るい笑みを作りこちらの名を呼ぶ。驚く直前の姿を、由鶴は見逃さなかった。
「どうかしたの?」
「いえ、別に。…手伝いましょうか?」
期限を確認すると、彼女は今日であることを肯定し、「いいのかな、ありがとう、助かる」と本当に言葉通りの感情を持っているかのように声と表情を彩る。返事や反応はせず、戸を閉めて彼女と背中合わせになる位置についた。作業の内容を確認する。去年の十二月にあったお楽しみ会のアンケートの結果を集計するという一見文化祭とは無関係な仕事だが、今年はお楽しみ会を文化祭の二日目として持ってくるらしいので今着手しているのでは遅いくらいだった。去年の文化委員の怠慢と教師間での伝達がなされていないことがよくわかる。気付いていて尚引き受けているのか、気付かずに反射的に引き受けたのか、彼女はどちらだろう。
それどころではないのか、と、一瞬見たあの切羽詰まった表情を思い出して由鶴は小さく笑んだ。揺り起こされる嗜虐心を、静かに手なずける。
「これを一人でやるのは大変だったでしょう」
「えっ、あ、……うん、思ったより。ほんとにありがとね」
「いいえ。でも、出来もしない仕事を次から次へと引き受けるのはやめたほうがいいですよ」
息を詰める様な音がしたが、無理矢理といった風に彼女は相槌を打った。声音をなんとか立て直して、そうだね、と返事する。不自然な間や相槌は喉の調子が悪かったのだと考えれば自然で、呆れ返る程、見事に動揺を押し潰していた。
「私、こういうのやるの好きだから、思わず手挙げちゃうんだー、悪い癖だね」
「へえ、好きなんですか。その割にはさっき随分と鬼気迫った表情をしていましたよね?」
今度こそ言葉に詰まった。アンケート結果をまとめるペンの音も止まっている。「……そ、」
「そんな顔、してたかな……、えへ、やだ、恥ずかしいな」
「やりたくもない仕事をやらされているといった風にしか見えませんでした」
「そんな、違うよ、」振り返った気配がする。「ちょっと疲れてただけで」
「他人に媚びを売るのに?」
「媚び…なんて、そんな、つもりじゃ」
こちらも振り返ってみると、相手は怯えたように僅かに震えた。頼りない笑顔を浮かべ、そんなじゃないよ、と言い直す。無理があるなと思って、せっかくなのでそれも口にした。戸惑いとためらいと恐れが徐々にあらわれ、彼女がほつれていくのを感じて由鶴の感情はうち震える。
「えっと…、」泣きそうにも見えたが辛うじて笑みを保ったままだ。「気分悪くしちゃったなら、謝るね、…」
「その作り笑いやめませんか。みっともない」
瞳が揺らぐのを確認する。喉が渇いているような呼吸が耳に心地いい。彼女は口元を幾度か動かし、出て来ない言葉に焦ったような様子を見せ、つ、とか、ち、とか一音だけ発しながらついには視線を落とした。ちがう、と呟くような声が聞こえる。非常に無意味な弱々しい抵抗だ。
あんな滑稽な表情でよくも微笑んでいるなんて言えたものだ、といった内容のことを口にしてみたところ、沈黙したまま自身をまもるように両腕で身体を抱き、次に左手を顔まで上げて左耳を塞ぐ仕草をみせた。湿った溜息が聞こえ、俯いて垂れた前髪のなかから一滴水が落ちるのが見える。由鶴は身体の向きを戻して作業に戻りつつ、泣くのなら余所で、と出来る限り煩わしそうに言った。
「仕事の邪魔ですから」
「…ごめんなさい……」
「謝って、貴女のその愛想笑いが改善されますか?」
「……おねがい、そんな話、しないで…」
「…具体的には何を?」
「私…私が、ほんとは、みんなが言うほどいい子じゃないって、…わかってる、だから、」
悲痛な声が必死に言葉を紡ぐ。この女子にはそういう自覚と自己嫌悪があって、周囲に悟られないかという緊張の中で生きてきたようだった。その、張り詰めた糸を引きちぎってしまいたい。
鉛筆を置いて再度彼女を振り返る。「他人からの評価が下がるのが恐ろしいですか?」
「もう、」やめて、と続けたいようだが、喉が引き攣るのかそれ以上音はなかった。
「あなたと出身校が同じ男子生徒があなたのことを絶賛していましたよ。見ている限り周囲との関係も良好。教師からの信頼も厚いようですね」
「……、」
「けれども実は、心の内では誰のことも鬱陶しく思っているわけですか」
「……やめて、」
「いい顔して媚びを売っておいて、嫌いなんですね」
「、やめて」
「そのくせいい評価にはしがみついて」
「やめて、お願い…!」
見ていて恥ずかしいですよ。告げると、彼女はしゃがみ込んで身を丸めた。本心を暴かれた恐怖に嗚咽が生まれていく、その様子が由鶴の心に与えるものは歓喜の他に何もない。
結局大久保は泣き止まず仕事は全て由鶴がやる羽目になったのだが、それでも気分はよかった。纏めた結果を彼女が仕事をしていた場所に置き、提出するように促して、最後に涙で顔が汚いことも教えてやって、帰宅した。
翌日文化委員の招集がかかった。驚くことに、あんなに絶望した状態でいた大久保はきちんと登校していただけでなく、普段と全く変わらない様子で周囲に笑顔を向けている。それ以上に興味深かったのは、由鶴の姿を見つけるなり昨日作業を手伝ったことに対してわざわざ礼を言いに来たことだった。それでも知り得る者にしか気付けないほんの僅かな不安げな色は作り直された笑みの中に紛れてはいる。それに対して愉悦を抱きながらも、大久保呼弥という女子生徒の“悪癖”が相当深い根を張っていることに考えを巡らさずにはいられなかった。
立ち直った、のか、空元気のようなものなのか、どちらにせよ気分転換に口汚く罵る相手としてあと何度か再利用が可能らしい。向けた背中に揺れる、梳いたために束の細い二つ結びを眺めながら、由鶴は人知れず笑む。
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