ハッピーユアバース
外並由歌
case.1 榊と大久保について
隅から蝕む
真っ暗とまではいかないが、多少距離感が不安になる程度に辺りは暗かった。もう殆ど夏だというのにこれだけ日が落ちているというのは、時刻も結構遅いに違いない。ただ今は手元が暗くて腕時計の文字盤が読めない。
終業のチャイムが鳴ってから随分経ったのではないだろうか。事務室の職員もとうに見回りを終えた時間だろうに、三階のある教室から明かりが見える。後から点灯したのか今までずっと点いたままだったのか、どちらにしろそこに人がいることは目に明かで、誰がいるのかも彼には大体予想がついていた。
ゆっくりと上がった階段の左側、一番向こうから数えて二つ目のクラス——今日の球技大会で一年にして他クラスに圧勝、他学年と健闘し、結果優勝した一年二組の教室。そこから蛍光灯の白い明かりが控えめにこちらまで届いている。その白を辿るように歩みを進めた。
大会が終わってから二組は打ち上げ会をしていたようだった。別棟にも届く賑やかさで、図書室で自習をしていた生徒は苛々していた。まあ、そこは彼にはどうでもいいところなのだけれど。
——彼女のことだ、きっと場に酔ってはしゃいだことだろう。
夜更かしをする子供のような教室の扉に手を掛け中を覗けば、やはりそこに彼女がいた。
手を置いた拍子に扉が鳴ったことで戸口に人がいることに気付いたのか、びくりと肩を跳ねさせてこちらに顔を向ける。と同時に瞬時に「外」の顔を貼り付けたのがみえた。
「大久保」
「榊…」
そしてその人物が彼であることを瞳の奥で煩わしく思ったようであることも同じく。
よりによって一番会いたくない人物と会ってしまった、と彼女は思った。
榊
彼女にとって嫌なのは成績のことよりも彼の性格だった。ストイックで規則を守るところは模範生として咎めることもとくにない。けれど、こちらを見下すような態度と用意されているかのような厭味の羅列はとても受け入れられない。しかも観察力があるから、困る。
「よくもまあ、あんなにはしゃげるものですね」
当たり前のように彼女のもとまでやってきて、近くの椅子を引き腰掛けながら一言。
それでも笑うのは面倒だからか、もしかしたら対抗してるつもりなのかと自分自身を嘲る思考が頭の隅にちらつく。
「みんな頑張って練習したからね。喜びも
「へえ。喜ぶのは勝手ですけど」
「ごめんね、図書室まで聞こえたかな」
「よくあることです、感情が高ぶって周りが見えなくなるのは」
言葉の端々から、彼が責めようとしている対象が二組全体でないことはなんとなく感じられた。勿論はじめから、どうせそうだろうとは彼女も思っていた。
椅子はそのままに彼女は榊の方へ体を向けていたし、榊もこちらを向いていたがそれは決して談話の体勢ではない。出来ることなら彼女も体を背けていたかったが、彼相手に笑みを振る舞うには態度から作っていかなければ難しいのだ。対する彼は余裕の様子で、…組んだ足のうえに丁寧に組まれた手が癪に障る。
「ところで」という接続詞が来たので、ああそろそろ抉りにかかるのだろうと身構えた。
「あなたがどんな醜態を晒したのか是非聞きたいですね」
やはり間違えない。これだから頭のいい人間は嫌いだ。
しばらく手元に視線を泳がせ、ある程度落ち着いたところで相手を見る。彼はこちらの出方を窺うように冷え切った目をしていた。
「…うん、私もね、嬉しくて思わずはしゃいじゃった」
「くだらない感情に流されましたか」
「やだな、くだらなくなんか…」
ない、よ。
最後まで言えるほど彼女は温かな芯を持っていない。本当は行事やお楽しみ会は苦手で、むしろ嫌いで。その理由は自分に途方もない隙ができ、いらないものまで表に出るからだが、なぜだか彼はそれを察しているようだった。
一般的に続くはずの言葉とすげ替えて、「楽しかったよ?」と笑う。相手は表情を変えない。変えずにまたいらない鍼を刺してくる。
「楽しい? そうですか。それでどうしてこんな時間まで一人でここに?」
「榊君こそ、なんでこんな時間まで…」
「話を逸らしますか。でもいけませんね、隠したいならもう少し表情を穏やかにしては如何です?」
言葉の最後に、彼が立ち上がったために鳴った椅子の音がかかった。このまま自分に喋らせないつもりなのだろうと彼女は悟ったが、剥かれたばかりの肌は外気に侵され傷むことを止めなかった。
榊が一歩詰めて、真正面に立つ。見上げたらあの視線に射止められることはまず間違いないので顔を上げることはできなかった。
——いや、それ以上に脳裏を駆け巡る、感情の波。気持ち悪さと激しい嫌悪感、何故あんなに脳天気でいられたのかという侮蔑、取り返しのつかない過去への殺意。
どうしてこんな風に感じるのかはわからない。いつからか彼女は自分にひとつの精巧さを求めるようになっていた。それは対人関係に纏わって起こる強迫観念で、「全て」上手くまわらないといけないという不可能な条件。その目指すところは多分、「皆に好かれている自分」という無理なものだった。
そんな彼女だから、過去形でも許されない、自分が周囲を見失った時間への快楽。そうだ私は醜態を晒していたに違いない。でなければあの時間の記憶はこうも曖昧で浮ついたものであるだろうか。その時一体どれだけ「間違えた」のか、考えたくもなかった。
「恥ずかしい人ですね」
死刑宣告をするように彼が頭上で言った。おそらくは口元を笑みの形にしながら。
瞳孔が焦点を定めてくれない。心臓が正しい脈の打ち方をしてくれない。無意識のうちに「やめて」という声を紡ぎ出し、それさえも自己嫌悪に拍車をかける。ぐるぐると徒に回る思考の端で、身を隠してしまいたいという衝動が湧き出ているのを感じていた。
「無様としか言い様がありません」
「やめてよ、あなたには関係ないでしょ…!」
「だって、大久保
「やめてってば!」
我慢ならなくなって耳を塞ぐと、声は止んだ。ただ、日を蝕む闇にも似た色で榊の両の手が彼女の手首に伸ばされ、静かに音を拾う器官を解放させた。
同じ動きで跪いた彼は、彼女の瞳を覗き込む。決して、決して優しい目などしていなかった。彼女にはそれが恐ろしかった。呼吸は相変わらず乱れていて、いつのまにか涙が溢れている。
「今の気分を、あなたの正しい感情に従って言ってごらんなさい」
「……榊はサイテー」
「いいでしょう」
向けられた言葉は意にも介さず、むしろ彼は勝ち誇ったような笑みを浮かべて立ち上がった。向けた側である彼女も、自分がどういう立場か充分感じている。彼女にとって、内心を明かすのは死ぬことに等しかったから。
榊はすぐそこに置いた自分の通学鞄を取り上げて肩にかけながらまた言葉を連ねていく。
「好いてもいないのに人当たりよく笑顔を振り撒くのは非常にさもしいです。そんな感情抱いておきながら自分は好かれたいだなんて浅ましい。見苦しいですよ、あなたの笑顔は」
「………」
「愛されたいがために『いい子』を演じるだなんて、可哀相の一言に尽きますね」
何一つ、間違えない。どれも的を射ている。
難無く心を剥いてしまうから、彼女は彼が苦手で、嫌いで、怖かった。
こういうことは中学のときから多々あった。自己嫌悪に陥っているのを揺さぶり、傷付け、殺していく。
何故なのかは考えてみたことがないが、あれだけ言うのだから自分のことを嫌っているのが理由の一つだということは想像がついた。けれどそれ以上に、
「…帰るでしょう? 大久保さん。電気、消しますよ」
手頃な獲物をおとしめるのが好きなのだろう。
時にはそうやって、手を差し出して引っ張り上げさえして。
やめてよ、と、先刻とは違う意味合いで言っただろう言葉に彼はまた口角を上げてしまう。変わらぬ容姿に影が落ちている、その姿がどんなにこの目に快いことか彼以外誰も知らないだろう。
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