第6話 暴徒を抜けて

 まさか、こんな大事になるとは――千之助は屋根から見てそう思った。

 ひと、ひと、ひと、ひとだらけであった。

 皆は千之助にさくらを討って勝利し、ひとの世を継続しろと言っているのだ。

 家を取り囲む様は、もはや暴徒に近い。

「どうしたもんだろう――」

 千之助はため息と共につぶやいた。

 下から千之助を呼ぶ声がした。

 永六えいろくだ。

 そろそろと屋内に戻ると、心配そうな顔をしたさくらが待っていた。

「大丈夫だよ」

 千之助はそう言ってさくらの頭を撫でた。一緒に階下へ下りる。

 親と二人の兄、それと乳母とその二人の娘が待ち構えていた。皆一様に神妙な顔付きであった。

 真ん中に位置していた父親が訊ねてきた。

「見てきたか?」

 と。

 いかつい顔付きはお小言をくれる前のそれに類似している。

「すごい人だった。あれを突破して脱出するのは骨が折れそうだ」

 皆が今度は一様に呆れた。

 だが、程度の差はあっても、そうくると予想していた呆れ顔だ。

「決着をつけるつもりはない――ということだな」

「さくらの命を諦める気はない」

 昨日、白心はくしんとメガネとしてきた会話は、既に全員に伝えた。

 さくらが命を狙われていることも含め、千之助は彼女を救うために動くことも。

 そうか――父親は納得したようだ。

「それにしても、僕が代表だってことがどうしてばれたのか――」

「伝達速度も異常に速いですよね」

 義姉が首を傾げた。

「そういえば、そんなことができるやつがいたな――」

 千之助の頭に浮かぶ顔があった。

 下品な二枚目が憎たらしい所作で笑っている――。

古部谷こぶたにか」

 長兄が嫌そうにその名を口にした。

 古部谷秀照こぶたにひでてる――長兄八光はっこうの同級生にして、千之助を目の敵にしている幻術者だ。

 ひとの国には珍しい、術を得意とした能力者で、その筋にはかなりの有名人だ。

 しかし白心に師事している千之助には術の類が効かない。千之助に勝つことが古部谷の目標だと聞いたこともある。

 確かに彼なら一気に情報を喧伝できるだろう。

「問題はその情報をどこから手に入れたか――だ」

 千之助の目が春実はるみで止まる。

 下を向いたまま押し黙っている。次兄が動いて千之助の視界から彼女を隠した。それだけで分かってしまった。

 この件はもういいか――そう思うことにした。

 外の喧騒は止まず、激しくなる一方だ。

 壁を乗り越えてくるなどの暴挙にはなっていないが、いつまで保つか。

 意識をさくらへ向ける。義姉妹の和服をまだ着ていた。

「さくら、走るから、もし動きづらかったら、自分の服に変えてもいいぞ」

 ん――と短く返事をしたが、迷いが感じられた。服を気に入っているのかもしれない。

 花柄の薄い桃色の着物と藤色の下袴は、確かにさくらによく似合っていた。

「走り回るなら目立たない方がいいんじゃないの?」

「それもそうか――」

 乳母の寿黄すおうの意見に千之助は納得した。

「じゃあ、そのまま行くか」

 さくらが頷いた。

「手はあるのか?」

 父親の問いには答えられなかった。

「考えてなかったか」

「やっぱりね」

「考え無しか――」

「千之助くんらしいわね」

 口々にそう言われた。

 予想済みらしい。

「なんでそこまでその子に尽くすの?」

 金切り声で言ったのは、春実であった。

「その子は千之助の何なの?」

 千之助は腕を組んで頭を傾げた。

 何度目だろうか、この事で頭を悩ますのは。

「今から考えるのか――」

 父親の低い声が、白心と同じことを言った。

 そう、昨日は『妹』と答えたのだ。

 だが果たしてそれだけだろうか――。

 同情か――とさくらは訊いている。

 それもないことはない。

 弱き女子を助けるという正義感と倫理観もない訳ではない。

 それを総じて『妹』と答えたのだが、なにかモヤモヤした感じが胸に残るのも確かだ。

 男女間の気持ちだ、と言えばすっきりしそうだが、さくらは十二、三歳だ。何かと罪深い。

 昔なら男十七歳、女十二歳でも成り立っていたかもしれないが、今は充分犯罪的だ。

 う~~ん――……皆を納得させられる答えは言えるが、自分が納得できそうになかった。

「複雑な関係というのは分かったわ」

 義姉だ。

 そういう察しの良さには何度も助けられている。

「じゃあ、あたしは何なのよ」

 察しも、間も悪いのがその妹だ。

「幼なじみ」

 千之助は言い切った。

 これは揺るぎない。

 家族だけど乳母や義姉ほど関係を単純化していないから、そう感じてしまうのだ。

 逆に、春実は千之助を異性と意識している。

 それがズレとなり、二人をギクシャクさせているのだ。

 千之助の即答に、春実が涙をこぼした。

 次兄が春実をかばうように前へ出た。

「お前は弟だが、恋敵だ。嫌いではないが、オレの好きな人に厳しい所は嫌いだ」

 千之助は頷いた。

 知っていたことだ。

「百くん――本当……?」

 当の本人は気付いていなかったらしい。

 百ノもものじは顔を赤くして、でも答えず、千之助に言った。

「お前の考えもなく誰かを助けたり、理由もなく動く所は好きだ。だから――」

 次兄はもっと顔を赤くして、聞こえるギリギリの大きさで言った。

 だから助けてやる――と。

 百ノ路の策は次のようなものだ。

 次兄は千之助の代わりを、さくらの代わりは春実がやることとなった。

 要はオトリだ。

 周りの民衆を引き付け、その間に逃げるというもの。

 春実が鬼の服を着た。

 きつきつなのは、年齢と体型から言って、当然といえば当然だ。

 百ノ路は、剣ではなく箒を腰に挿した。

 二人のそれで、本当に誤魔化せるのか――?

 千之助は半信半疑であった。

 塀の上に姿を見せた百ノ路と春実を、皆が口々に千之助と鬼だと騒いだ。

 まさか――と千之助は呆れた。

 塀の上を走り出した二人を、町のひとが追い始めた。

「騙されてる!」

 勝手口からは寿黄と夏香が出て、通用口からは永六と八光が姿を見せた。その辺にいた町人たちを集めて説教を始めた。

 千之助の暴挙ぶりとマヌケぶりを大声で喧伝始めた。

 家とは全く関係のない人物だというのは、まあ許せる。しかし、子供の時にしていた勘違いや大失敗まで持ち出されるのは違う気がした。

「何かの罰ゲームか――」

 千之助が地に崩れそうになるのを、さくらが止めた。

「そろそろ出ないと」

 その通りであった。

 周囲の暴徒たちを、父や乳母たちが二箇所で堰き止め、大半を次兄が連れ去った。

 逆に正面が開いているはずだ。

 妙なダメージにふらふらとしながらも、千之助は門を開けた。

 誰もいないことを確認すると、さくらの手を引いて走り出した。

 大街道へ入ったが、こんなに人がいないのは初めてであった。

「逆に目立つな――」

 千之助は途中で道を折れ、武家屋敷の立ち並ぶ区域へ入っていった。

 屋敷と屋敷の間を通り抜けていく。ひと一人通れるか位の幅の抜け道と、普通に通り道となっている箇所を織り交ぜ、追跡できないコースを辿る。

「どこへ?」

「鬼の国だ」

 え――とさくらが立ち止まった。

「帰す気?」

「帰りたくないのか?」

 千之助は振り向いた。返事をしないさくらの所まで歩み戻る。

「あそこには――何も無いから……」

 さくらは小声で言った。

 生まれ育った国より、敵ばかりの国がいい――だなんて、何て寂しいことを言うんだ。

 千之助はさくらの両肩を持った。

 目線を彼女に合わせ、腰を屈める。

「生きるために、君の代表権を失くさなければならない。それさえ失くなれば、どこにいても良いんだ」

 さくらの視線が戻ってくる。

「お前の家――でもか?」

「もちろん」

 半分以上は安請け合いだ。

 だが、嘘はついていない。だから千之助は胸を張って答えた。

「そのためには鬼の国で、さくらを代表にしたメガネに会わなければならないんだ」

「メガネ?」

「メガネ――は僕の中での象徴だから気にしないで。でもさくらを代表としたやつがいたろ。そいつに会うんだ」

 さくらは理解したように表情を明るくした。

「だから鬼の国に――?」

 千之助は頷いた。

 さくらが顔をまた下ろした。

「さくら?」

「鬼の国に着くまでに、一つ――お願いしても良いか?」

「――何?」

 さくらが顔を上げた。ほんの少し、頬が紅潮している。

「ずっと曖昧にしてきた、わしを助ける理由を……訊かせてくれないか」

 千之助が息を呑んだ。

 上手く逃れた質問がぶり返したからではない。いや、それもある。

 だが、それ以上に、さくらの表情の色っぽさに、どきりとしたのだ。

 頼んだぞ――とさくらは、麻痺している千之助の横を過ぎて、先へ向かった。

 緩慢な動きで、屈めた腰を戻すと、千之助はやっと小さな背中を追った。

 やばい――千之助の心情だ。

 正直に言うか、言わないか。

 それよりもまださくらへの気持ちは確かなものではない。

 迷いに悩む――。

 先を行くさくらが交差地点で足を止めて振り向いた。

 午前の陽に輪郭が朧に光る。

 その頬はまだ紅潮していた。

 右へ――千之助の声も小さくなる。それにさくらも頷く。

 なんなんだ、これ――。

 男女間に疎い千之助でも、このどぎまぎは恋心だと分かる。

 誰に――?

 愚問であった。

 数歩前で足を止めた、まだ少女と呼ばれる年齢の子だ。

 さくらが振り返った。表情が困っている。

 大名の屋敷に挟まれた二メートル幅の広い道だ。

 白い壁と壁の間を、ひとが埋めていた。

 その一番手前には見知った顔がいる。

 二枚目に部類する整った顔立ちなのに、下品な笑み。その男こそ、古部谷秀照こぶたにひでてるだ。

 一気に意識が戻ってくる。

 雲に乗ったような浮遊感から、泥に埋められた不快感だ。

 自然と声も不機嫌になる。

秀照ひでてるか――。何の用だ?」

恭樹きょうじゅだ。古部谷恭樹こぶたにきょうじゅ

「秀照のくせに――」

 下品な笑みが引き攣った。

「貴様がここを通ることは、俺の千里眼で分かっていたのだ」

「誰もそんなこと訊いてないよ」

 千之助たちの背後にも同じくひとだかりができた。

 どこかに潜んでいたのであろう。これで挟まれた形になった。

「そっちの小さな子が鬼だろ。貴様を殺し、鬼を殺せば俺は英雄だ」

「相変わらずスケールが小さいな、秀照」

 全員が剣を抜いた。

 まだ高くなりきらない陽が、今度は凶暴に照り返してきた。

「諦めろ。どこへ行こうと、俺の千里眼からは逃れられないぞ」

 千之助はさくらの前に出た。

「でも、お前の千里眼は、自分が千年神話の代表になることを予測できなかったんだろ」

 とうとう古部谷の顔から笑みが消えた。

「昔からのよしみで、苦しまずに殺してやろうと思ったが、止めた」

「悪いな。殺すのを止めてくれるなんて」

「違う! 苦しめて殺すことにしたんだ!」

 古部谷は手を上げた。

「やっぱりお前は、僕が今抱えている問題に比べれば、何万倍も解決が簡単だ」

「貴様が抱えている問題?」

「お前では一生ぶち当たらない問題だ」

「何だ、それは?」

「男と女の問題だ!」

 千之助は胸を張った。

 すぐ後ろから、ばか――と小さく聞こえた。

「貴様――この世の中を真面目に考えてないのか!」

「僕はいつも大真面目だ!」

 古部谷が手を振り下ろした。ひとの壁が剣を振り上げた。

「さくら、僕の背中に!」

 え――と躊躇するさくらを、千之助は強引に背負った。

 小さい悲鳴が場違いにかわいくて、一瞬意識が飛んだ。

 千之助は頭を振ると、地の神への第一の印、人間としての第二の印、術発動の印を結んだ。

 古部谷が気付いた。

 他の男たちは構わず走り寄ってくる。

 千之助は左足を上げ、気合と共に地面へ突き下ろした。

 波動が千之助を中心に地を震わせる。

 両側の白い壁が軋むほどの衝撃に、走っていた男たちが一斉に転んだ。意表を衝かれ、派手に転んだ。

 立っているのは古部谷の他に一人だけ――。

「そんな技、俺には効かんぞ!」

 必死に術返しで耐えた古部谷が、声をひっくり返しながら粋がった。

 彼の後ろで千之助の術を耐えたもう一人は、汗一つ流してはいない。

 詰襟がついた黒い長服は、異教の神父が着ていたものに似ている。

 だが、聖教者ではないと、千之助には分かっていた。

 その人物が持つ長い柄の先には、三日月のように湾曲した刃が鈍く光っている。

 大きな鎌に似た形状をデスサイズという――白心から聞いたことがある。

 ゆっくりと近付くその姿に、さくらも気付いた。

「あれ――」

 耳元に掠める吐息に、鼻の下が伸びるのを何とか耐えた。

「――鬼だ」

 変な間で答えたのは仕方ないと千之助は思っている。

 古部谷の後ろに立っているのは、デスサイズを持った、黒い細身の鬼であった。

 木の葉のような眉毛の下で、黒目が千之助を見据えている。

 角の位置はさくらと同じだが、向きが違っている。二本の角は上向きに反り返っていた。

「さくら、まだ下りるなよ」

 言い終わる前に、同じ術を発動した。

 倒れている男たちが悲鳴を上げた。細い声を上げて古部谷はまたも耐えた。

 だが、デスサイズは普通に歩いてくる。

 千之助はもう一度――更にもう一度――術を発動した。

 合計で四回。もう声を上げているのは古部谷しかいない。だが、千之助は古部谷なんかを見ていない。

 デスサイズは何事もなかったように最前列へと出てきた。

 え――と初めてその姿を認めた古部谷を、デスサイズは柄で叩き飛ばした。

 間抜けな姿で吹っ飛ぶ姿を目にしながら、千之助は軽口を叩けずにいた。

 術は無尽蔵ではない。生命力を使って発動するのだ。数値では見えない分、疲労感や目眩、倦怠感で、初めて使い過ぎたことが分かる。

「うちはリリー」

 デスサイズが言った。

 低めに抑えた声は女性のものであった。

 顔立ちや僅かに膨らんだ胸でそうかな――と思っていたが、確証はなかった。

「ここは占いで出てたのだ。東南に探し物あり――ってね」

「占い?」

「結構当たるのよ。今週のラッキーカラーは黒、西以外はうちには良い方角で、光るものをつけていれば恋愛運向上!」

「光るもの――ってその鎌か?」

 デスサイズことリリーは、細い指で自分の首を指した。詰襟の部分だ。 

 千之助は目を凝らしてみた。

 小さいピンズが付けられている。

「ちいさっ! その分恋愛運も小さくなるぞ!」

「うるさいな――恋はこの戦いを終えてからするんだから、いいんだよ!」

 リリーが大鎌を構えた。

「うちには術は効かんぞ」

「知ってるよ」

「連発してたじゃないか」

 こういうことだよ――と、千之助は兜割を抜き放った。

 リリーが警戒した。

 だが、千之助は左横の白い土塀へ斬りつけた。

 振動を至近距離で受け続けた土塀は簡単に崩れた。

 千之助は崩壊した箇所へ、さくらを背負ったまま潜った。

 リリーも踏み込んできたのが、目の端で捉えられたが、千之助は既に庭へ走り出していた。

 意外と広い庭園であった。

 白い砂と石が敷き詰められ、立派な松の木と池が左側に、落ち着きのある屋敷が右側へあった。

 千之助はさくらを背に、じゃりじゃりと砂利を鳴らし、庭内を駆け抜ける。

 砂利を鳴らして圧力が迫る。

 振り切れないまま、千之助は屋敷へと飛び込んだ。

 庭の白さとは逆に、屋敷内は冷ややかな暗さを伴っていた。

 ひとの気配は全くない。

 これ幸いと、畳を踏んで居間を一息に抜け、障子戸から廊下へ出た。

 渡り廊下にぐるりと囲まれた中庭だ。

 千之助はまださくらを背負ったままだ。

 細い腕を首に回して、さくらがぶら下がっている。

 そのまま廊下を走り、正面の部屋へ向かった。

 部屋へたどり着いた時、リリーが追いついた。

 彼女は渡り廊下ではなく、中庭へ跳ね入った。

 千之助は部屋へ入ると、ここでやっとさくらを下ろした。

「外塀の上へ――」

 小さく言うと、兜割を収め、長剣を抜いた。

 リリーは数歩で、部屋の前の廊下へ降り立った。

 千之助は両手で長剣を握り、リリーへ構えた。

「やっとその気になったね」

「期待に沿う気はないけどね――」

 ここは恐らく屋敷の主人の部屋だ。

 床の間には花が生けられ、立派な字の掛け軸も見える。六畳くらいの小じんまりとした空間だ。

 中庭と反対側の障子戸は開け広げられている。

 四角く切り取られた視界には外塀が見え、残った隙間には、高い青空があった。

 縁側から塀までは三十センチもない。

 申し訳程度の縁側から、塀の上へさくらが飛び移ったところであった。

 千之助はリリーへ意識を戻す。

 大鎌は槍と同じでリーチが長いが、小回りは効かない。この狭い屋内では扱いづらいはずだ――そんな目論見で誘い込んだのだ。

 しかし、千之助の読みは大きく外れた。

 リリーは、頭上でデスサイズを回転させた。

 天井からぶら下がっていたランプや壁の掛け軸など、円周上にあるものが飛び散った。

 それだけではない。

 壁や柱など固定された障害物でさえ、その動きを遮ることは出来なかった。

 そんな勢いで振り下ろされる三日月の刃は、長剣で受け止めることは出来ず、弾いて狙いを逸らすのが精一杯であった。

 湾曲した切っ先は、大振りに畳へ突き刺さったが、止まることなく通り過ぎた。

 足元に暴力的な裂け目が出来た。

 リリーの攻撃は止まらない。

 自在に振り回す大鎌は、暴風のように部屋そのものを削り、千之助に迫った。

 連続で迫る刃は、見た目以上の重さがあり、弾いた隙間に攻撃する以外、千之助には手がなかった。

 しかも、千之助の剣による攻撃は、長い柄で器用に受け止められた。

 三対一――リリーと千之助の攻撃の割合だ。もちろん千之助が『一』。

 力では千之助が上だ。

 だが、勢いに乗った大鎌はその差を余裕で埋めている。

 勢いを止めないことにはどうしようもない。

 千之助は腰を落とした。次の一撃に集中する。

 旋風を右に左に操りながら、リリーがじりじりと迫る。

 千之助は動かない。

 リリーが足を止めた。

 長剣にとって、やらしい間合いだ。届きそうで届かない。

 一歩踏み出した所で、大鎌だけが届く位置だ。

 風切り音だけが室内を満たす。

 木の葉型の眉の下で、大きな目が千之助を凝視している。

 細身のシルエットは直立不動で、腕だけで長い大鎌を操っている。

 どの方向から斬りかかってくるのか、千之助は彼女の目を見返した。

 す――と瞳に意思が込められた。 

 左上――!

 千之助は剣を振り上げた――

 いや、引っ掛けだ――!

 黒衣の鬼はここで初めて動いた。

 足元の畳を焦がすほどに素早く身体をターンさせたのだ。

 上向きに構えていた刃が、回転の勢いで右下から迫った。

「ふんっ!」

 斬り上げの姿勢から、千之助は気合と共に、急角度で長剣を振り下ろした。

 きん――と鋭い金属音を鳴らし、長剣は大鎌の柄を捉えた。

 千之助は、全体重を乗せて、相手の動きを止めた。

 細身の刀身が、鎌の付け根の金属が拮抗して、きしきしと音を立てた。

「おぬし、やるな――」

「お前だって――。こっちは唯一運のない西方向だっていうのにな」

「なぬ――!」

 リリーの表情が微妙に動いた。

 千之助は見逃さなかった。

 剣ではなく、自らを前進させたのだ。

 細い黒鬼がバランスを崩した。

 後ろへ倒れそうに傾く。

 千之助がそれを追う。

 蹴り飛ばすつもりであった。

 しかしリリーは、一歩跳び退ったのだ。

 有利も不利も捨て、一旦射程を外したはさすがだ。

 しかし、千之助の狙いはそこにあった。

 蹴ると見せかけ、踵を返したのだ。

 リリーは廊下まで間合いを空けてしまっていた。

 千之助は、長剣を鞘に収めると、外へ飛び出た。

 塀の上のさくらに、

「飛ぶぞ!」

 と短く宣言した。

 さくらの表情が強張った。

「でも――」

 千之助は塀の屋根に手を掛けて一気に飛び乗った。

 リリーが追うために、再び部屋へ入ってきたのが見えた。

 さくらの身体を片手で抱え、塀の屋根から飛び降りた――

「逃がすか!」

 リリーの声が響いた。

 数歩の助走、間髪入れずに縁側を蹴り上げる音。そして一息に迫る気配。

 ぶわあああと影が頭上を通り過ぎた。

「え?」

 振り返ったリリーと目が合う。

 交わした視線は重力に従い、下へ落ちていった。

 千之助とさくらがいるのは、塀の際にある、数十センチの出っ張りだ。

 さくらが表情を強張らせたのも無理はない。

 足元には着地のための地面が無く、五メートル下には川が流れているのだから。

 つま先から下は切り立った崖である。

 二人は塀に張り付くようにして、やっと立っているのだ。

 リリーは跳躍力があるために、一気に土塀を越えられたために、着地点を見誤ったのだ。

 跳んだ姿勢のまま川へ落ちた。

 本当に西方面は運勢が良くないようだ――。

 流れの速い流水に、黒い姿が遠ざかっていく。

「占いって当たるんだな――」

 呟いた千之助に、さくらが呆れた顔を浮かべた。

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