第2話 決戦は境ケ原

「まいったな――」

 誰ともなしに千之助はつぶやいた。

 境ヶ原は広く、空も高く、戦う場所にはふさわしくないように思えた。

 隆起を繰り返す大地には緑が生い茂り、遠くハルガヤが群生している。風が吹けば、波打つように草がそれを追いかけていく。

 そんな光景を見ていると、戦う気がしなくなる。

 ひとの領地側の岩場に胡坐をかいてぼうっとしていた。

 選ばれたのはともかく、何で来てしまったのだろう? 来るんじゃなかったな――と本気で思っていた。

 一応は武器の準備もしてきた。

 兜割と呼ばれる、厚みのある短い刀身の武器と、一メートルくらいの長剣を腰に挿している。

 二刀流というと聞こえは良いが、兜割りを逆手に持ち、受けとして防御に使っているだけだ。

 こうでもしないと師匠とは全く勝負にならない。手数が多くて防ぎきれない師匠の攻撃に対し、やむなく取った対策であった。

 それでも未だに師匠には勝てなかった。

 ひとの国の人知れぬ山に棲む天狗――それが千之助の剣の師匠だ。天狗の国を追われた『はぐれ天狗』と噂されているが、千之助は詳しく聞いたことがない。自分で話すまでは千之助が訊きだすことでもないからだ。

 とはいえ、剣の師匠というより、団子や菓子を持ってお茶を飲みに行ったついでに剣を教わっている――と言ったほうが正しい。

 覇権争いの代表になったことも報告したが、ケガをしないように気をつけろと言われただけであった。

 ケガか――当たり前だが殺し合いなのだ。自分がケガをしないようにするためには、相手を傷つけなければならない。

 こんなことに参加している自分が柄でもないような気がしていた。

 のどかな風景に腰の剣が野暮な気がして、岩に腰掛けてから何度目かの後悔に悶々としていた。

 かつて武芸道場から菓子屋に転じた祖父に似ているとよく言われるが、戦いへの気負いが全くない顔付きだったらしい。いかつい父親や凛々しい二人の兄の方が武芸家向きであった。

 そもそも服装だっていつもの襟付き作務衣だ。デニム生地で丈夫だが、特に防御力が高くなるということはない。下のズボンは脛辺りで絞られて、足にはブーツを履いている。二刀が帯剣用のベルトにぶらさげっているだけで、それ以外は日常スタイルだ。

 千之助は空を見上げた。高い所で濃い雲が幾つも連なって流れている。

 ほっぽり出して月鳴山げつめいさんに行こうかな――。

 月鳴山は師匠の天狗が棲んでいる山だ。結界が何重にも張られ、普通にはたどり着けない山で、かなり静かな場所であった。

 団子の一つでも買っていこうか――そんな思い付きがかなり魅力的に思えてきた。

 本気で帰ろうと岩場から腰を上げた時、鬼側の境界線上に影が見えた。

「来てしまったか」

 千之助はため息をついた。

 適当に剣を合わせて、しばらく経ったら逃げればいいか、なんて考えていた。

 小さい人影がゆっくりと近付いてくる。

 鬼を見たことはないが、噂だけで聞いたことがある。

 山羊や鹿のような角を生やした身長二メートル越えの巨体だそうだ。昔話ではよく登場する典型的な悪役だが、ひとが戦って倒した話は全く聞かない。追い返すのが関の山だという。

 これは百ノもものじの談で、出かける前に『瞬殺されないように気をつけろよ』という励ましまでもらった。

「もっと暖かな言葉はないもんか――」

 のんびりと呟くと、向かってくる鬼に向かって千之助も歩き出した。

 地面が隆起を繰り返す草原は、高低差が三メートル以上ある。躓いたら谷底まで転げ落ちる自信が千之助にはあった。

 その姿を想像すると、思いのほか間抜けで笑いがこみ上げてきた。こんな立場でなかったら、大声で笑っていただろう。

 この広さを埋めるくらい笑えば、かなり気持ちの良いことだったに違いない――と千之助は残念でしょうがなかった。

 堪えていた笑いは、対戦相手が近付くにつれて次第に萎んでゆき、その姿がはっきりと見えた時には完全に収まっていた。

「おいおい――」

 それが千之助の相手への感想だ。これ以上言葉が続かなかった。

 でこぼこの地形において比較的平らな位置で千之助は足を止めた。十メートルほど離れた所で相手も止まった。

「何の冗談なのか――」

 千之助は辺りを見回した。

 他には誰もいない。

 正面に立つ者が、覇権争いの相手だとは、思いたくないが、他には誰もいないのだ。

 余りに動揺して、同じことを頭で繰り返してしまった。

「あの――」

 思い切って声をかけたが、びくっと脅えられ、警戒された。

 身長二メートル越えの巨体って、どんな身長計で測ればそうなるのだ……。

 千之助の目の前にいるのは百二十センチほどの小さな女の子であった。年の頃なら十二歳か十三歳ほど。

 声をかけられ、顔を下げられ、目も逸らされては、悪いひとになった気がしてしまう。

 そんな背丈と仕草ではあるが、鬼であるのは確かなようだ。

 角らしきものがある。これも次兄の言ったような派手な角ではない。

 髪の毛の延長のようだ。前髪が角型に二本尖り、額の両脇から下向きに生えている。

 というより髪の毛そのものだ。髪の毛が変化したものかもしれない。長く背中へ下りている後ろ髪も、所々が硬質化して跳ねるように尖っている。

 ちらりと大きな目が千之助へ向けられた。杏の種のような形で、上睫毛が長い。上目遣いに千之助を見ている。話を聞く覚悟は出来たということか。

「え――と、鬼だよね」

 少女は頷く。

「鬼の代表?」

 少女はまた頷く。

「覇権争いに選ばれたんだね」

 少女は少し考えた後に頷いた。

 何だろう、この間は――千之助は思ったが、質問を続けた。

「ということは戦いに来たってこと?」

 少女は頷かなかった。

 では何をしに来たのだろう――千之助は頭を捻った。

 少女は一応剣を持っている。というより小刀だ。千之助の剣の半分もない。身長と筋力からいって無難なサイズとはいえるが、勝負になるとは思えなかった。

 それが妖刀だとか、抜くと数倍の大きさになるとか。鬼の特殊能力として、実は力持ちとか、動きが素早くて見えないとか。

 彼女が選ばれた理由を考えてみたが、千之助には分からなかった。

 そういう意味では千之助と同じかもしれない。親近感が湧き上がるが、手を取り合って喜ぶわけにもいかない。そもそもずっと警戒されっぱなしだ。

 革製の肩当と一体となったビスチェ――いや同じく革製の腰巻がついているからワンピースか? 前が大きく開いているから、お腹とへそと柔らかそうなスカートが見える。膝上まである長いブーツを履いている。

 鬼の国では流行の格好なのだろうか――。

 千之助は目をそらしたフリをしながら観察して、そう行き着いた。

 それにしてもまだ警戒している。

 いやいや、それが正しい対応ではある。

 なんせ千之助は彼女にとって敵なのだから。

 それはそれで何か悲しいものがあるな――。

 思考は行ったり来たり、答えを導き出さない。

 う~~ん――と、千之助が腕を組んで考えていると、少女が不思議そうに見ていた。

「え――と、何か?」

 答えないだろうなと思いつつ、訊いてみる。

「おぬしがひと代表か?」

 抑えた声質だが、張りとキーの高さが、少女が少女であることを示していた。

「そういうことになっている」

 千之助は答えた。

「ならば、わしと戦うのか?」

 少女は鞘に手を掛けた。

 構えは素人ではないが、微かに手が震えているのが見える。

 そんな強がりに付け込めるほど、この戦いには本気になれない。

「いや――出来れば避けたいところだな」

「では、おぬしは何をしに来たのだ!?」

 それは僕が聞きたかったことだが――?

 とはいえ、早い者勝ち。

 訊かれたからには答えねばならない。

 答えに窮した千之助。

 しかも少女が大きな目を涙で揺らして急かしてくる。

 え――と、え――と、え――と、と目を泳がせていると、思考を通さずに言葉が出てきた。

「ピクニック」

 さっきから抱いていた欲望を口走っていた。

 もちろん、少女は固まった。

 しかも全力で目を逸らされた――。

 千之助は大きなため息をついて、

「それは願望であって、今は違うな。うん、不謹慎だった。すまない」

 素直に謝った。

 少女がちらりと視線を投げた。

 敵意からの警戒心は薄まったが、おかしな人への警戒心は強まったようだ。

 それにしても、彼女の切れ長な目尻は、横目になるとかなり色っぽかった。

 これは将来良い女になるぞ――と親の目線で頷いてしまう。

「となると、意地でも戦わない方向に持っていかないと――」

「何だと?」

「独り言だ、気にするな」

 少女の顔に不信感が募り、あしらわれた不満が頬を膨らませた。

 きしん――と鞘を鳴らし、少女は小刀を抜き放った。

「馬鹿にしてるのか!」

 小刀を持つ手は震えていない。緊張感は解けたらしい。

 構えはそれなりだが、まだ日が浅そうだ。

 剣以外の能力者なのだろうか――本当に何故この娘が選ばれたのかが疑問であった。

「馬鹿になんかしてないよ」

「じゃあ……わしと戦え!」

「それ――……本心じゃないでしょ」

 少女が言葉を呑み込んだ後、

「そうしないと――、そうじゃないと困るのじゃ!」

 吐き出すようにやっと言った。

 少女が困らないことは、千之助の困ることであった。

 今度は千之助が目を逸らす番だ。

 逸らした先――鬼側の領地にほど近い岩場。こちらよりも標高が高く、見下ろせる位置にある。

 その上の辺りで、ち――と何かが光った。

 それが何かと考える前に、千之助は動いていた。

 両手の中指、薬指を曲げ、他を伸ばして合わせる。第一の印――地の神を現す。続いて人差し指と中指だけを伸ばして他は曲げて合わせる。第二の印――これは人間を表す。最後に術発動の印――左手の人差し指と中指を伸ばし、それを右手が握る。

 地の神の術を人間が使うことを了承してもらう――という契約の印だ。

 印を結んだまま左足を前に出す。

 ここで少女が激しく警戒した。

 剣を突き出してきた。

 千之助はお構い無しに、左足を上げて地面へ踏み下ろした。

 振動が千之助を中心に十メートルの範囲に響き渡った。

 天狗に教わった、千之助が使える数少ない神通力の一つだ。

 攻撃力は無く、果たして距離も届くか微妙だが、唯一の効果は――。

 きゃっ――少女が短い悲鳴と共に足を取られて転んだ。

「よし!」

 ばすっという音と共に左側で丘の土が弾けた。遅れて雷鳴のような音が響いた。

 銃声だ――。

 しかも狙われたのは少女の方だ。

 まだ銃声がこだましている。

 この距離が届くということはライフルである。

 千之助は見たことがないが、長距離に撃てる銃らしい。そんなものまで用いて殺そうとしているのは、ただの少女だ。

 その鬼子は倒れこんだままであった。

 このままでは狙い撃ちされる。

「こっちへ走るんだ」

 ちらりと切れ長の目が千之助を見た。

 涙目だ。

 怯えている――そう思った途端、千之助が走り出していた。

 少女は千之助の接近に小刀を構えた。

 だが止まっていられない。

 最新のライフルでも連射は出来ないはずだが、狙撃者に余裕を与えてしまっている。二射目の準備はもう出来ているはずだ。

 千之助は飛び込むように鬼子を抱えて転がった。ほんの数秒差であった。彼女が倒れていた辺りの土が大きく抉れた。

 音が遅れて届く。

 その頃には千之助と鬼子は地面の隆起の下へ転がっていた。

「危なかった――」

 土の弾痕を見る限り、狙撃ポイントは変えていないらしい。

 普通は変えるらしい。そうしないところを見ると、本職の狙撃手ではないのだろう。

 二発を外して、この高低差だ。向こうは千之助たちを見失い、さすがに場所を変えるであろう。

 撤退するか、追ってくるか……。どちらにしろ移動しよう――。

 千之助は斜面を背中にしながら思った。

「ケガはない? ここは危ないから離れるよ」

 鬼子を見ると、見開いた目が千之助の腕辺りで止められていた。

 視線を同じ位置へ持っていくと、袖がすっぱりと切れていた。腕にも真っ直ぐに傷がついて、血が流れていた。

「平気、平気」

 千之助は懐から手ぬぐいを出して包帯代わりにした。止血するように結びながら、どうやってここから逃げるかを考える。

 狙いはこの鬼の少女であるのは間違いない。

 たとえここで見捨てても、誰にも文句は言われない。

 責められもしないだろう。

 きっとこの子自身も。

 必死に言い訳を考える。

 置いていく理由より、連れて行く理由だ。これだ――というものがない限り、周りは納得しない。

 考えに考えた結果、といっても三秒ほどだが、放っておけないよな――となった。

「行こう」

 千之助が歩き出すと、躊躇は一瞬、少女は黙って後ろをついてきた。

 鬼側へ向かうことにした。狙撃ポイントとなっている岩場から位置を変えようとしたら、ひとの領域側へ迂回しないと高低差は縮まらない。

 つまり千之助は逆方向へ向かったのだ。

 起伏の底を鬼側へ進めば、狙撃者から離れ、尚且つここからも脱出できる。

 五分も歩けば川へ行き着き、そこから川沿いに下流で人里へ、上流から山を越えれば鬼の領域へ戻れる。

「とりあえず、そこまで一緒だ」

 千之助の説明に少女は頷きもせず、その目は脅えたままであった。

 狙われていることへでも、敵である千之助といることへでもない。それは千之助のケガそのものへ向けられたものだ。

 それだけは分かったが、そこまで脅える理由は分からない。

 血への脅えだろうか。

 それなら理解も出来るが、覇権争いの使徒がそれでは戦えまい――とも、変な心配をしてしまう。

 二人が進んでいるのは、谷側と便宜上呼んでいるが、両側から空へ向かう勾配と同じ草っ原だ。日当たりの関係で育ちは良くないが、足元ではサクサクと草が踏まれている。青臭さに混じる水の匂いは、川が近い証拠だ。

 釣りの一つでもしたくなる――。

「おぬしはバカなのか?」

 後ろから声をかけられた。

 歩きながら振り返ると、凛々しい目が千之助を見上げていた。

 脅えは完全に消え去ってはいないが、強がれるくらいまでは回復したようだ。

 しかしだ――

「言うに事欠いて、バカとは何だ?」

「わしはまだ刀を持ったままなのだぞ」

「ふむ――」

「それなのに背中を向けるとは何事だ」

 一理ある。

「それでは刺されても文句は言えないな」

 千之助が納得した声で答えた。

 少女が絶句した。唖然と口が開いたままだ。

「でもバカなら君も負けてないぞ」

「――何?」

「刺すなら黙ってやれば良いものを、これでは僕が警戒してしまうじゃないか」

 語尾の方でおどけて見せたが、特に反応を返さず、少女は無言で刀を鞘に収めた。

「あ――ごめん、言い過ぎた?」

 返事はない。

 手持ち無沙汰で、千之助は前へ視線を戻した。

 川でお別れなのだ。人間関係を修復する必要はない。そう思い込んで、千之助は歩を進めた。

 緩やかに谷底が蛇行し、山のような丘が青空を楕円に切り取っている。

 千之助は狙撃者を警戒しつつも、のんびりとした歩幅で道なりに歩いた。

 道が直線になった。相変わらずの谷底だが、勾配はゆっくり下がり、千之助の予想通り、その先に川が見えた。

 しかし千之助の顔には安穏な表情がなくなっていた。

 河原と丘を隔てる境に木が植えられているのだが、その木の陰から人影が現れたのだ。

 銃を持ってはいないからさっきの狙撃手ではない。

 だが、細身の長身からは、ただならぬ殺気が滲み出ていた。長髪の数箇所が立ち上がっている。あれは角だろう。

 ということは鬼か――。

 千之助はちらと少女を見たが、まだその長身の鬼に気付いていない。

 このタイミングで現れ、尚且つ、この殺気――狙いは千之助か、鬼娘か。

「お前――宝条ほうじょうのさくらだな」

 低い恫喝力のある声が上から聞こえた。

 狙いはこの子だ――千之助は察した。

 同時に振り向きながら、宝条のさくらと呼ばれた少女を引き寄せて退がった。

 ずん――と地面を揺らし、巨体が二人のいた辺りへ落ちてきた。

 振り下ろした手には大きな斧が見えた。

 勢い余り、肉厚の刃が大地に突き刺さった。

 スキンヘッドの巨体がぎろりと千之助を目だけで睨んだ。

 スキンヘッドとは言ったが、髪の毛が数箇所残っている。その残った髪の毛が角となっていた。

 この場合、角としての髪以外を剃ったということか――千之助はどうでもいいことを考えた。

 背中へ庇う形で引き寄せた少女――さくらが剣に手を掛けた。

 千之助はその手を上から押さえた。戦って勝てると思っているのが不思議だった。

 それよりも、彼女の手に触れた時に息を呑まれた方に、千之助は傷付いた。

 そりゃあ年頃の女の子だから仕方ないけどさ――と心でぼやく。

「人間、なぜ鬼を庇う?」

 スキンヘッドが言外にさくらを差し出せと言ってきた。

「逆に訊くけど、なんで同族を狙う」

「お前には関係のないことだ」

「だったら断ったって関係ないよな!」

 スキンヘッドが目を白黒させた。

 言った千之助も意味が分からなかった。

 微妙な空気の中、動いたのはさくらであった。川へ向かって走り出した。

 千之助の会話の酷さに逃げ出したのかと思ったが、彼女は真面目であった。川から歩み寄る長身の鬼へ向かったのだ。

 そっちなら勝てると思ったのも分からない。

 千之助は腰の刀に手を掛けた。抜き放ったのは兜割の方だ。

 兜割とは、打撃に重きを置いた短めの剣で、手元に枝鉤がついている。刃は多角形の断面で厚みもあり、名前通り兜を割るために存在する。

 スキンヘッドが下から振り上げた斧を兜割で受け止める。日本刀では折られただろうが、兜割はそれに耐えた。

 得物同士は互角でも、体重差がある。

 千之助の身体が浮いた。その力に乗って弾き飛ばされたが、丘の斜面へ着地した。

 斧を大きく振って身体を開いたスキンヘッドへ、千之助は跳んだ。

 ブーツ底がスキンヘッドの顔に吸い込まれた。

 ぐうっと呻く声が靴底に響いたが、無視し、顔を足場に更に跳んだ。

 川の方へ跳躍し、着地と同時に、さくらを追った。

 長身の鬼とさくらは既に交差していた。一撃で斬られるのだけは避けたようだ。

 地面に倒れこむさくらへ、長身が剣を振り上げた。

 ひとの世界では見たことのない幅広の剣だ。

 千之助は走りながら兜割を投げた。

 長身がその剣で兜割を弾いた。

 それで倒すつもりはない。初動さえ抑えられれば良かったのだ。

 間合いへ入り、千之助は長剣に手を掛けた。

 抜刀した刃を、長身は戻した幅広の剣で受けた。

 しかし今度弾き飛ばされるのは鬼の方であった。体重はほぼ同じだが、駆け下りながら勢いに乗せた分、千之助が勝った。

 千之助は足を止めない。

 さくらを立たせ、落ちている兜割を拾うと、川へ向かった。

 嫌がられようが構っていられない。

 剣を鞘に収めると、さくらの小さな手を取って、一気に駆け下りた。

 足元の感触が地面から河原の硬さに変わる。石ころの感覚がブーツ底に当たる。

 意外と川の流れが速い。

 振り向くとスキンヘッドと長身が並んで駆け下りてくる。

 走っていては逃げ切れない――。

 手を握ったままのさくらは顔が真っ赤だった。

 彼女を見ないように、逃れる手段を探す。

 川幅は五メートルほど、向こう岸には切り立った崖。その上から木々が鬱蒼と見下ろしている。

「そうか――材木問屋の山か」

 千之助はすぐに伐られた丸太の束を見つけた。崖に幾本かの縄で数本がぶら下げられている。

「ごめん!」

「え――?」

 千之助はさくらの腰から小刀を抜くと崖へ投げた。小刀は回転しながら縄に激突し、切り離した。

「ええ~~!!」

 と不満を洩らすさくらの手を再び取ると、下流へ向かって走り出した。

 崖側で大きな音がする。

 縄を切られ、バランスを崩した材木が河原へ落ちたのだ。

 数本が川まで転がり、水流に乗った。

 千之助とさくらは、徐々に川へ入っていった。

 真っ直ぐ流れてくる一番初めの丸太にさくらを座らせると、千之助はその後ろへ飛び乗った。

 水飛沫を撒き散らしながら丸太は速度を上げていく。

 後ろを確認すると、スキンヘッドと長身がやっと河原へ姿を見せた。

 それも一瞬であった。

 川の高低差に後方は見えなくなった。

 水飛沫を上げながら、段差を下り、その度に速度を増した。数回それを繰り返すと、最早止められるかどうか不安になるほどの速さで人里へ向かっていた。

「何でわしの刀を使ったのじゃ!」

 水と風の音の隙間を抜け、さくらの声が届いた。

「いや、長剣は重くて投げられないし、兜割は切るのに向かないから――」

「刀もなくて、どうやって戦うのじゃ!」

「戦うって、誰と?」

「それは――」

 川床の岩に丸太がぶつかって揺れた。

 落ちそうになったさくらの腰を片手で支える。

 少し尖っている耳の先端が赤くなった。

 申し訳ないが我慢してくれ――千之助は心で謝った。

 ついでに、鬼の国ではなく、ひとの国へ向かっていることも、心で謝った。

 視界が開けた。まだ昼浅い農村だ。生き生きとした田んぼの緑が光っている。

 丸太は川面を割りながら、下流へと進んでいく。

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