【弐拾壱】桜が散るその前に真相を(前)

 確かめるように、しっかりと手を繋ぎ直したゆら子は、またゆっくりと歩き出す。正弥も手を引かれるまま、静かに彼女の後に従った。

 言葉もなく歩くふたりを風だけが追い越していく。春の気配を存分に含む風は柔らかくて暖かかったが、感嘆する者はいなかった。

 風が完全にふたりを追い越した後、ぽつりぽつりとゆら子は続きを口にし始める。


「私が二人の復讐心を知ったのは、櫻木家に引き取られてから随分と経った後でした」


 櫻木家に来たばかりの頃のゆら子は幼く、立場も悪かった。

 母によく似ていたために伯父に気に入られた春子とは違い、父によく似ていたゆら子は伯父に嫌われていた。夫の妹とその子どもたちを良く思っていないしず代伯母からも当たりは強かった。

 だから、幼い頃――姉が失踪するまでのゆら子は、常に母の側にいた。他に居場所がなかったこともあるが、少しでも姿が見えないと母が取り乱すからだ。

 ゆら子には、当時の母の行動が、母が娘を守ろうとする愛情だったのか、最愛の人によく似た娘を通して散った幸福に縋ろうとしていただけだったのか、わからない。おそらく、梅子自身もその辺りを明確にすることは出来ないだろう。

 確かなのは、梅子にとってゆら子と復讐だけが生きる糧だったことだけだ。


 ……と、今のゆら子は思っている。


 ちらりと正弥の様子を伺えば、無言で続きを待っていた。過去に想いを馳せ、再び黙り込んでしまっていたゆら子を急かす様子もない。

 今、思い出したことを話すべきかと考えて、蛇足だと切り捨てる。話に必要という意味でなら、もっと簡潔でいい。


「姉が失踪する少し前まで私は、父が亡くなった原因も、母と姉が復讐しようとしていたことも知らなかったんです」

「君には関わってほしくなかったのだろうね」

「でしょうね」


 愛されていた。

 たぶん、と付け加えられる程、ゆら子は感情に対して無知でも鈍感でもない。

 世間一般に認められるものであるかどうかや、ゆら子自身が望んだ形だったかはともかく、母も姉もゆら子を愛していた。娘として、妹として、確かに愛してくれた。

 そして、その事実を否定出来る程、ゆら子は彼女たちを恨めない。


「父の件で櫻木宗一郎の罪を問えないなら、別の形で問えばいい。二人はそう考えたそうです。最初、死ぬのは母の役目だったらしいですよ?」

「えっ?」

「妹に対して異常な執着を見せる兄による毒殺……だったかな。計画の内容まではよく知りませんけどね」


 夫を亡くしてから、梅子は再び体調を崩しがちになっていた。

 早く愛する人に逢いたかったのだろう。本人に生きる気力が乏しく、日に日に衰えていっていた。まるで散らずに朽ちる花のよう。瘦せ衰えても、その目には復讐の火が燃えていたところも、花に似ていた。枯れて尚、美しさを残す様は、萎びても花は花といったところか。


「私の知らないところで二人は計画を進めていたようなんですが、いくつか不都合なことが起こったそうです」


 そのひとつは、梅子の衰弱が思っていたよりも早くて深刻だったこと。

 例え、毒を呑んで死んだとしても、彼女たちが望む通りの結果に持っていけるかは微妙なところだった。


 そして、何より……


「姉が、絹子さんを死なせてしまったこと」


 しっかりと握っていた手が解けそうになって、ゆら子は慌てて立ち止まった。

 振り返れば、眉を寄せた正弥が何とも言い難い表情で立ち尽くしている。ゆら子には彼が今、誰の言葉に惑わされているのかわかる気がした。


 ――あたし、人を殺したことがあるの。


 どんな言葉だったのかは知らない。

 でも、彼を追い詰めるためなら、春子は多少の嘘も用いただろう。春子はゆら子以上に人を騙すのが上手い。


「……絹子さんの死は、不幸な事故として片付けられたそうですね」

「世間では、ね」

「結果としてなら、“不幸な事故”というのは正しいと私は思っています」

「じゃあ、彼女は殺してない、と……?」


 ゆら子は、少し言葉に詰まった。

 見方によっては殺したとも、殺してないとも言える。その判断をゆら子は出来なかった。

 ちゃんと向き直り、正弥の手を両手でそっと握る。


 これは、正弥にとって大切なことだ。

 彼の人生において最も大きな疵瑕であり、不幸にも一生付き纏うこと。

 そして、春子の罪そのもの。

 つまり、ゆら子が判断していいことではない。


「……私が知っている範囲で、姉と絹子さんの間に起こったことを順序立てて話してもいいですか?」

「もちろん」

「水谷女学園に通っていた三人の女学生が同じ年に亡くなった件、覚えています?」

「君は関係があるんじゃないかと言っていたね」

「関係あるんですよ」


 丘の一本桜の枝に紐をかけて首吊り自殺をした沙紀。

 一本桜がある丘から川に転落して事故死した絹子。

 一本桜の下に埋められることを望んだ春子。


「“エス”ってわかりますか?」

「エス? ……いや、わからないな」

「女学校で密かに流行っている特別なお友達のことです。上級生と下級生が“姉妹の契り”を結ぶっていう……まぁ、ちょっとした内緒の関係でしょうか」

「……ああ、なるほど」

「姉と沙紀さんはエスだったんです。上級生のお姉ちゃんが“姉”で、下級生の沙紀さんが“妹”」

「それで“妹の仇”……か」


 ゆら子は、春子が正弥にどんな話をしたのか知らない。

 だから、彼の納得したような呟きを敢えて聞き流してやった。


「沙紀さんは、一般家庭の出身で才覚があったため奨学金を貰って女学校に通っていました。絹子さんはそんな沙紀さんが……気に入らなかったみたいですね」


 ゆら子は言葉を濁したが、正弥には“気に入らなかった”などという生易しいものではなかったであろうことが、ありありと想像出来た。良家の出身であることに誇りを持っていた絹子は、平民の出なのに自分より優秀な沙紀を一方的に恨んだだろう。


「幾人かのご友人たちと、沙紀さんに辛く当たっていたようです」

「……苛めていたとはっきり言ってくれ。気を遣わなくていいから」


 ハッとしてゆら子は、正弥を見たが彼の表情から真意を読み取ることは出来ない。もしかしたら、いまだに正弥自身が、絹子への態度を決めかねているのかもしれなかった。

 僅かに目を伏せたゆら子は、戯れに彼の手を指先で撫でる。


「絹子さんたちの苛めに耐えかねた沙紀さんは、死を選びました。姉は止められなかったことをとても悔やんだそうです」


 清く正しく模範的な学生生活を送っていた春子だが、それは復讐のための見せかけだった。

 全ては、復讐相手を欺くための偽装。

 疑似姉妹エスを持ったのも、女学生らしくあるため。……だったけれど、いつの間にか春子にとって沙紀というもうひとりの妹は確かな存在になっていたらしい。

 だから、復讐にばかり囚われて“妹”を疎かにしたことを悔いた。


 尤も、ゆら子から見れば、後悔があったとしても、春子は自身の行動を最期まで変えられなかったように思う。


「姉は苛めを煽動していた絹子さんを問い詰めました。偶然、あの丘で行き会った時に……」


 春子は、自死した沙紀を弔うため。

 絹子は……ゆら子には彼女が何を思ってあの場所を訪れたのかはわからない。もしかしたら、彼女なりの罪悪感があったのかもしれない。


 ともかく不幸だったのは、その日、二人があの場所で行き合ってしまったことだ。

 そして、もうひとつ、雨のせいで地面がぬかるんでいたことも不幸だったと言える。


「続けて」


 黙り込んだゆら子に続きを促す声に重さはなかった。穏やかではないが、暗くもない。でも、ここで終わらせるのを許さない声。

 ゆら子は目を閉じて、ゆっくりと開け、また閉じた。

 それでも、決心がつかなくて……


「ゆらちゃん」


 名前を呼ばれて、ようやく口を開く。


「問い詰められた絹子さんは、姉を突き飛ばしたそうです。倒れそうになった姉は、咄嗟に絹子さんに手を伸ばして……今度は彼女を、絹子さんを突き飛ばしてしまったそうです……地面がぬかるんでいたせいもあって、絹子さんは崖の下に落ちました。増水した川に落ちたため、すぐに見えなくなったそうです」


 ゆら子は、この出来事を“殺人”とは呼ぶべきではないと思っている。これは、何人かの人間の人生を狂わせることになる“不幸な事故”だ。

 でも、正弥がどう思うかはわからない。


 ゆら子から握った手は、今や正弥に握り締められていて痛いくらいだった。だが、それを振り解くことなくゆら子は受け入れていた。

 この痛みは、姉が彼に与えた苦痛の片鱗だ。姉の代わりに罰を受けようというつもりはない。ゆら子は、ただ彼の苦痛を知りたかった。


「……姉は、怖くなって逃げ帰ったんです。そして、直後に降った雨が姉の足跡も痕跡も流してしまいました。だから、“不幸な事故”として片付けられたんです」

「確かに、不幸……だ」


 正弥は、なんとかそれだけを絞り出した。

 でも、彼にとっての本当の“不幸”はここから始まる。


「絹子さんのお葬式の時、姉はあなたを見たそうです。許婚だった絹子さんを心底大切にしている、という印象を受けたみたいで……」

「……そう」


 正弥は、自嘲した。


「だから、“復讐させてあげよう”と思い付いたそうです。……傲慢だと思いません?」

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