【弐拾】桜が散るその前に背景を
とある首都の片隅、丘の上に立つ一本桜に見守られている橋の上で、一人の少女が手を伸ばしていた。指の先へわずかに触れた花弁は跳ね上がり、ふわりと少女の手のひらに収まる。
無事に卒業した少女は、女学生スタイルではなく、間もなく訪れる新緑を映した色の着物を纏っていた。
「危ないよ」
「今日は身を乗り出したりなんてしていませんよ」
力なくかけられた声に、この場所で初めて会った日のことを思い出して笑みを浮かべたゆら子は、図々しくも手のひらの上に鎮座していた桜の花びらを風へと返す。
振り返れば、随分と
「お仕事、お休みなんですか?」
「うん? ……ああ、そうだよ。こっちの方が楽だからね、休日はもっぱら和装なんだ」
「いいですね。私もお仕事の時は洋装にして、お休みの日は和装にしようかな。……うーん、反対でもいいかも」
「……ゆら子ちゃんならきっと似合うだろうね」
誰かを思い出したのか、元々草臥れて生気のない正弥は更に表情を翳らせた。それを見なかったことにして、ゆら子は本題に向けて話を切り出す。
「ゆらって呼んでくれませんか?」
「えっ?」
「ゆらちゃんでもいいんですが……“ゆら子”って呼ばれるの嫌いなんです」
「……何故?」
「約束を果たす前に、自己紹介から始めましょう」
当然の疑問に、ゆら子は正面から正弥を見返した。
「私の名前は、山内ゆら。櫻木家に――伯父に引き取られる前はそれが私の名前でした。でも、櫻木ゆらでは良家の子女に相応しくないってことで“ゆら子”に改名したんです」
「だから……」
「はい。だから、です」
実のところ、ゆら子
蛇足ついでにいうのなら、彼女の姉も“櫻木春子”ではない。両親のもとで幸せに暮らしていた頃は“山内ハル”だった。
「ちなみに、櫻木家からは籍を抜いたので、これからは“山内ゆら子”ですね」
「名前は戻さなかったのかい?」
「手続きが面倒だったので」
ゆら子は、正弥の手をそっと取る。相変わらず冷たい手だった。
「あの事が終わったら、私の知っている事と私の望みを教えてあげるって約束をしましたね」
「そのために呼び出したんだろう?」
ゆら子は頷くと、正弥の手を引く。
そして、ちらりと遠くで花びらを散らしながら揺れる一本桜を見上げた。
「歩きながら話しましょう」
返事を待たずにゆら子は、正弥の手を握ったまま歩き出す。人通りの少ない道を選びながら彼を先導し、空想の物語を読み上げるかのように語り始めた。
「始まりは……多分、私の母が生まれた時でしょうね。母が生まれた日は、梅の花が咲いた日でもありました」
「だから、あの日、梅の枝を取ろうとしていたのか」
「母は――櫻木梅子は、自分の名前の由来にもなった梅の花が好きでしたから」
それだけでなく両親にとっても思い入れがある花だと聞いた記憶がある。しかし、詳細は忘れてしまったのでゆら子は口にはしなかった。
「母は生まれつき病弱だったそうで、家族に随分と大切にされていたそうですよ。特に母の兄であり私の伯父にあたる櫻木宗一郎はとても過保護で、彼らの両親――私にとっての祖父母が早くに亡くなってしまってからは過保護に拍車がかかったそうです」
長じるにつれ、梅子は健康になっていったが、彼女の兄の過保護は変わらなかった。
日がな一日、家から出られず無為に過ごすだけの日々。
梅子にとって、人生とは退屈なものだったという。
「でも、ある日……こっそりと抜け出すことに成功したそうです。そこで偶然、村から農作物を売りに来ていた青年と出会いました」
「……ゆらちゃんの父君かな?」
ゆら子はひとつ頷いた。
歩調は変わらずゆったりと、口調もそのままゆったりと、聞いただけの物語を紡いでいく。
「何度か会う内に、二人は恋仲になったそうです。けれど、当然それは道ならぬものでした。伯父が許すわけありませんからね」
ゆら子は、視線だけで正弥を振り返る。
彼が一番知りたいであろうことからは、まだ遠いが退屈して聞き流しているということはないようだった。
「二人はどうしたと思います?」
「君のご両親は、駆け落ちしたと前に聞いたよ」
「覚えていてくれたんですね。……そう、この街を離れて、遠くの小さな村に逃げたんです。伯父にも見つからないくらい遠くて、ふたりには縁も所縁もないところまで逃げ出した」
そこでの暮らしは、梅子にとって幸せなものだったらしい。
病弱だった過去など感じさせないくらい元気に、夫と共に畑仕事に精を出していたという。育ちを完全に隠すことは出来なかったようだが、村によく馴染んでいた……と、ゆら子は姉から聞いていた。
ゆら子には、村で暮らしていた頃の記憶はほとんどないが、まるで自分が体験したかと錯覚するくらいに親しみがあった。故郷の話をする時だけは、母も姉も穏やかで幸せそうだったから。
「愛する夫がいて、お姉ちゃんが生まれて、私が生まれて、母は幸せだったようです。……それも束の間のことでしたが」
ゆら子は足を止めて、目を閉じた。
心臓の辺りが重い。この話を思い出すと、いつも気分が悪くなるのだ。
「父が死んだんです」
父の死は、ゆら子を悲しくさせる。顔すらほとんど覚えていなくとも、微かに残っている思い出は温かく、優しい。多分、大好きだった……はずだ。
だから、気を重くさせるのは“死”という現象そのものではない。
大切な人を失った悲しみと、ゆら子が感じる苦痛は“父の死”に結びついてはいても別のものだった。
父の死に方。
姉の慟哭。
母の怨嗟。
蚊帳の外にいる己。
「落石があって、父は押し潰されて死にました。姉の、目の前で」
正弥が息を呑む音が聞こえたが、ゆら子は反応出来なかった。浅くなった呼吸を取り戻すだけで精一杯だった。
嗚呼、全くもって……本当に、気が重い。
事故だったらよかったのに。
そうすれば、まだ、まだマシだったはずだ。
姉の、母の、狂気を孕んだ瞳を知ることなんて、なくてよかったはずだ。
「崖の上には人影があって……姉は、その人が故意に岩を崩すところを見ていたそうです」
「それは、つまり……」
続きを濁す正弥に、ゆら子は数度浅く頷いた。
風に流されて「殺人」と呟く声が、ゆら子に届く。
少しだけ、胸にのしかかっている重みが軽くなった。父の死をその言葉で表すことは、ゆら子にとっては、この上なく気分が悪くなることだ。代わりに言葉にしてくれたことを密かに感謝した。
「それから、葬儀を挙げる間もなく伯父が迎えに来ました。まるで、父をの死を知っていたかのように」
「……実際のところ、知っていたんじゃないかな?」
「母と姉もそう考えたみたいですね。下手人は別にいても、仕組んだのは伯父だったんじゃないかって」
どう言葉をかければいいか迷っている正弥に、ゆら子は「まぁ」と軽い調子で続けた。
「母と姉は、実行犯の男が伯父の元に金をせびりに来ているところを見つけたそうですよ。問い詰めて、自白させて、もう少しで告発させるところまで行ったみたいです」
「でも、上手くは、いかなかったんだね」
「上手くいっていたら、私たちの出会いはなかったでしょう。或いは、別のものになっていたかもしれませんが……」
深窓の令嬢を惑わせた男がひとり。
その男を圧死させた男がひとり。
死体は、ふたつ。
ついでに、心を壊した母と子がひとりずつ。
「これで今回の事の動機はわかったんじゃないですか?」
「復讐」
「そうです。夫を、父を殺された母と子の復讐だったんです。くだらないでしょう?」
本当に、なんてくだらないんだろう。
どうして、私があの人たちの代わりに、復讐なんてしないといけなかったのだろう?
どうして、私は、投げ出せなかったのだろう?
……「なぁーんて」とゆら子は口の中で呟いた。
答えなんて最初から、知っている。
彼女たちの憎悪を見捨てられなかった。
それだけ、
ゆら子は、ふと思う。
もし、寛次郎がこの辺りの事情まで把握していたら――きっと彼は真相まで辿り着いただろう。そう考えると彼の推理は実に惜しかった。
まぁ、盤上の上からでは駒が揃っているかどうかすらわからないのだから、辿り着けずとも仕方がないだろう。
そして、余程のことがない限り寛次郎がこの件を掘り起こすことはないはずだ。だから、彼がこの事に辿り着くことはもうない。もちろん、他の人々は言わずもがな。
つまり、この
証拠など、ひとつも残っていない。消えてしまった
語る者がいなければ存在にすら気付けない、証明の仕様がない
伯父は、結局、自分の行いによって自分の首を絞めたのだ。
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