【拾玖】茶番

 それからの日々は、櫻木家にとって慌ただしいものになった。

 当主である櫻木宗一郎が逮捕されたからだ。


 櫻木宗一郎は容疑を否定したが、証拠は彼を逃がさなかった。

 まずは、ゆら子が見つけてきた日記の一部。

 残りの部分――つまり、日記の本体は宗一郎の書斎から見つかり、破った跡も一致した。更に、筆跡鑑定も行われたが、櫻木氏の筆跡で間違いなかった。

 続いて、書斎の机の引き出しの隠しから春子の遺髪も見つかった。

 これが決定的な証拠となった。

 櫻木春子を殺害した犯人でなければ持ち得ないからだ。


 それでも櫻木宗一郎は春子の殺害を否定した。

 確かに彼には日記を付ける習慣がある。それは、書斎の片隅で年代別に並べられている日記たちを見れば明らかであり否定するつもりもない。だが、彼は春子の殺害と遺棄した場所を仄めかす様な内容を書いた覚えはないという。それどころか宗一郎は、証拠とされた“日記の一部”に記された内容は全て偽りであり、『姪に関係を迫った事などない』と主張した。

 しかし、筆跡は一致しており他の頁の内容は彼も覚えがあるものだった。誰かが書き換えたのだという彼の主張は通らなかった。


 続いて、春子の遺髪だが、こちらについても宗一郎は『知らない』と言うのみだった。

 遺髪どころか、書斎の机に隠しがあったことすら知らないという。

 こちらも、あまりにお粗末な言い訳と見做されて、まともに取り合われることはなかった。


 警察を辞した寛次郎は、最後に関わることとなった事件を頭の中で振り返っていた。

 証拠は揃っている。

 動機も痴情のもつれであればよくあることだ。


 だが、腑に落ちない。


「寛次郎さんが会うべきなのは、私ではなく寿々ちゃんではありませんか?」


 だから、寛次郎はゆら子を呼び出したのだ。

 閑散とした公園で二人、誰にも聞かれることなく話をするために。


「彼女のことは、この後でちゃんと迎えに行くさ。でも、その前に確かめておかないといけないことがある」

「なんでしょう?」

「裏で糸を引いていたのは、あなただろ?」

「えっと、言っている意味がわかりません」


 困惑した様子を見せるゆら子は、とても嘘をついているようには見えない。だが、もう寛次郎にはわかっていた。


「あなたは嘘吐きだな。性質が悪い程に」

「突然、酷い言いようですね」

「茶番はやめよう。互いに時間は惜しいはずだぞ」

「茶番を仕掛けているのは寛次郎さんではありませんか? 貴方の言う……えっと、“裏で糸を引いている”でしたっけ? 一体、なんの話をしているのか見当も付きません」


 ゆら子は困惑した様子を見せたが、それはただの見せかけだ。一度、彼女の噓に気付いた寛次郎にはもう通用しない。そして、彼女が往生際悪く誤魔化そうとしているのではなく、彼とこの話をするつもりがないことも理解している。彼女は、終わりにしたいのだ。

 だが、ゆら子の思惑は、寛次郎とは相容れないものだった。


「櫻木春子を殺したのは、櫻木宗一郎ではない」

「何を言い出すんですか……?」

「彼女を殺したのは正弥だからだ」


 その言葉は、ゆら子が意識して浮かべていた戸惑いの表情をはぎ取った。

 一体、どこで気付いてしまったのだろう?

 これはふたりだけの秘密として忘れ去られるはずのことだった。


「あの人を貶めたいの? それとも、気でも触れたのかしら?」

「どちらでもないさ。ただオレにとってあいつは、あなたにとっての寿々乃ちゃんみたいなものだ」


 寛次郎は真剣な様だが、ゆら子はそれを鼻で笑う。

 虚勢だった。それでも、このまま相手の調子に合わせるのは分が悪い。


「私は寿々ちゃんに冤罪をかけたりしない」

「四年前の冬、あいつは様子がおかしかった。オレにも何があったか話さなかったけど、良くないことに巻き込まれたんだろうと思ったんだ。オレの様な人間が警察にいるのは何故だと思う?」


 ゆら子は答えなかった。

 寛次郎とて、答えを当ててほしいとは思っていないだろう。ただ、反応を引き出したいだけだ。そんなゆら子の考えを証明するように、寛次郎は一呼吸の後に話を続けた。


「警察に居れば、あいつが話す気になった時、力になれると思ったんだ。……まさか、人を殺したとは思わなかったけどな」


 寛次郎はゆら子から反応を引き出すことに失敗したが、ゆら子も淡々と話す男を計りかねていた。

 寛次郎は、見かけよりもずっと頭が回る。これは以前から、ゆら子にもわかっていたことだ。誤算だったのは、普段の振る舞いと違って腹の底が見えないところだった。彼がこの話をする理由をいくつか推測することは出来ても、正解がわからない。

 そして、厄介なことに彼の思惑間違った正解読み損ねた頼りにしたまま話を切り出せば、途端に全てが崩れ去ってしまう。それはなんとしてでも避けなければならなかった。


「……お姉ちゃんがいなくなったのは秋。冬なら関係ない」

「殺されたのが秋とは限らない」

「冬だったとでも言いたいの?」

「そもそもあなただって知っていただろ? だから、正弥に春子さんの写真を見せなかったし、絵が下手だと嘘も吐いた」

「……絵?」

「寿々乃ちゃんから聞いたんだ。『ゆらちゃんは絵も上手ですよ』ってね」


 どういった経緯かはわからない。だが、春子の写真を手に入れられないかという話をした時に、ゆら子が手帳に描いてみせた落書きを寛次郎は、寿々乃に見せたのだろう。確かに「ゆら子は絵が下手だ」と聞かされたなら、寿々乃は『ゆらちゃんは絵も上手ですよ』と言う。


 しかし、それも実のところ買い被りだった。

 手帳に描いた時、わざと誇張して下手に描いたのは事実だ。事実だが、その実、ゆら子は特別絵が上手いわけではない。しかし、ゆら子を万能だと思っている寿々乃は、彼女よりは上手に描けるというだけで、“ゆらちゃんは絵も上手”になってしまうのだ。

 不自然に思われないように理由を付けて、あの落書きは回収しておくべきだったとゆら子は歯噛みした。

 終わったと思ったところで、失態が露見するなんて……春子ならこんな失態はしなかっただろうと思うと余計に面白くない。


「あいつに近付いた目的はなんだ? 弱みを握ってどうするつもりだったんだ?」


 敵意の籠った――ともすれば殺意とさえ呼べるような強い問いかけに、ゆら子はきょとんとした後で、笑ってしまった。

 どうやら、底が見えないと思っていたのは間違いだったようだ。彼がしていることは、先日ゆら子が寛次郎にしたことと何も変わらない。

 そして、それはゆら子が思い付いた推測・・の中でも最も都合の良いものだったことの証左でもあった。警察にいたような人間だから、或いは正義感に溢れているかとも思ったが、あの時“自分と似ている”と感じたことは間違いではなかったのだ。

 やっぱり彼は、社会的正義より、身内の利益を優先する人間だった。


 ならば、彼女のやり方で丸め込める。

 だってゆら子は、彼の大切な人の敵ではないのだから。


「何がおかしい?」

「ふふっ……だって、おかしなことだらけですから。正弥さんがお姉ちゃんを殺すなんてありえません。そもそも、ふたりは知り合いですらなかったと思いますよ? 聞いてみたらどうですか?」

「もう聞いたさ。あいつは『“櫻木春子”とは会ったこともなかったし、今回のことがなければ関わることもなかったと思う』って言ってた」

「知らない人をどうやって殺すんですか?」

「……世の中には不幸な偶然というものがある」

「じゃあ、仮に不幸な偶然によって正弥さんがお姉ちゃんを殺したとしましょう。どうやって、私の伯父が殺したように細工するんです? 私が手を貸したとでも言うんですか? 私が伯父の日記を書き換えて、伯父の机にお姉ちゃんの髪を隠したとでも?」


 寛次郎は黙り込んだが、ゆら子はまだ終わりにするつもりはなかった。畳みかけるのではなく、一言一言ゆっくりはっきりと相手に刻み付けるために、敢えて間を取ったに過ぎない。

 今、この機会に彼がどれだけ間違っているのかをきちんと認識させないといけない。もう二度と無意味に疑いあうことのないように、教えてあげなければならなかった。


「仮にそれらが事実だったとしましょう。“仮にもしも”にもしもを重ねるなんて馬鹿げてますけど……事実だったとして。、ですよ?」


 もう一度、言葉を区切って聞き逃さないように強調してやる。

 だって、ゆら子は、寛次郎の敵ではないのだ。

 これから友人になっていくであろう――いや、もう立派な友人である彼には、正しいことを教えてあげないといけない。


「私から彼に近付いたというのはおかしくありませんか? 彼が私を脅して協力させたというのならまだわかりますけど」

「……あなたは本当に櫻木宗一郎が、殺したと思っているのか?」

「むしろ、どうして正弥さんを疑うんですか? 彼がお姉ちゃんの殺害に関与したという証拠がひとつでもありますか?」


 寛次郎はしばらく考え込んでから、慎重に首を振った。


「いや、ない。ひとつもないよ」

「じゃあ、いいことを教えてあげます」


 ゆら子は、にこりと笑った。


「証拠のない推論はただの妄想です」


 反論できないようだが、寛次郎はまだ何か言いたそうだった。

 ゆら子はくるりと背中を向けた。その視線の先には、小さくではあったがあの一本桜がある。


「それでも、あの冬の様子が納得出来ないなら、こう考えるのはどうですか?」


 一本桜を指さしたゆら子は、僅かに振り返ると揶揄う様に笑った。


「正弥さんは“さくらの精”に誑かされたんだって」

「……桜の精?」

「寿々ちゃんが前に話していたじゃないですか。学校で流行っている噂――一本桜の下には死体が埋められていて、それを邪魔に思っているさくらの精が掘り起こさせようと、ひとりでやってきた人に吹き込むんです『あなたが殺してここに埋めた』って」

「それこそ妄想だ」

「でも、半分本当でしたね」


 観念したのか、寛次郎は両手を上げた。

 これで二人の駆け引きは終わりだった。


「早く寿々ちゃんを迎えに行きましょう。今、あの子に必要なのは私じゃなくて貴方なんだから」

「……これだけ口が回る従姉がいれば、オレの出番はないんじゃないかって思えてくるな」

「嫌味なら上出来ですね。……私じゃ、本当の意味であの子のためになれないってわかってるくせに」

「お互い様だろ」


 途中まで一緒に櫻木邸に向かったゆら子と寛次郎は門のところで別れた。

 寛次郎はそのまま門の前で待ち、ゆら子は裏口から入ると既にまとめておいた荷物を離れから持ち出して、寿々乃の部屋を目指す。


「ゆ、ゆらちゃん……!」


 ゆら子が上がり込むのに何度も使った窓には、ずっと泣いていたのか目元が腫れてしまっている寿々乃がいた。そっと触れると熱を持っていて熱い。冷やしてあげたかったが、今は時間がなかった。


「すぐに荷物をまとめて。着替えとどうしても必要なものだけでいいから」

「……えっ? どうするの?」

「いいから早く」


 困惑した従妹を励まして、ゆら子も荷造りを手伝ってやる。

 宗一郎が捕まった後、使用人は皆やめてしまったし、寿々乃の母親であるしず代は彼女の実家に呼び出されていて忙しい。ゆら子も事情聴取などがあって、寿々乃の側にはいられなかった。

 つまり、寿々乃はあの大騒動からずっとひとりだったのだ。


「ねぇ、どうするの? ここを出ないといけないの? 私、何も出来ないのに……どうすれば……」

「寿々ちゃん、前に言ってたよね。『いつも俯いてばっかりだけど、何もかも無くなっちゃったら、もう俯いていられないから、前を向けるかも』って」

「う、うん……」

「前を向く時が来たんだよ」


 寿々乃は「無理だよ」という言葉を飲み込んだ。ゆら子がいつもの優しい目で彼女を見ていたから。

 そこからは、早かった。ゆら子の助けもあったが必要な物は――持っていきたいと思う物は然程なかったからだ。小さな荷物だけを持って、部屋を出た。生まれ育ち慣れ親しんでいたはずの屋敷を寿々乃はゆら子と二人で歩く。ずっと暮らしてきた場所なのに、ゆら子とこうして並んで歩くのは初めてだ。


 でも、門まではとても長かった。

 きっと隣にゆら子がいなければ荷物を投げ捨てて部屋に逃げ帰っていただろう。そして、布団を被って、来ることのない助けを願っていた。


「寿々乃ちゃん」

「寛次郎、さん……」


 思わぬ人物に喜んだのは束の間だった。

 寿々乃はすぐに自分の立場を思い出す。

 彼女は犯罪者の娘で、彼は警察の人間だった。


「前を見て自分の足で踏み出すんだよ」

「でも……」


 ゆら子はそれ以上、何も言わなかった。

 ただ、いつも通りの目で見ているだけ。


 ――前を向きたいっていう気持ちを、忘れないでね。


 きっとゆら子は、寿々乃が泣きつけば助けてくれるだろう。

 でも、それはこれから先、ずっと彼女を頼ることを意味する。


 ゆっくりと息を吸って、寿々乃は前だけを見ることにした。

 足を捻ったわけでも、体に不調があるわけでもないのに、一歩が重くて辛い。

 しかし、それも最初の一歩だけだった。

 踏み出してしまえば後は簡単で、すぐに門の外へ――寛次郎の元へ飛び込むことが出来た。


「寛次郎さん、私……何もかも無くなってしまったけど、一緒に居てくれますか?」

「もちろん。……オレの方こそ職を失くしたばかりなんだけど――」


 ゆら子が聞いたのはそこまでだった。

 寿々乃から一歩遅れて櫻木邸を出たゆら子は、そのままふたりの隣を通り過ぎた。これ以上は彼女が干渉するべきことではない。

 もう、寿々乃は大丈夫なのだ。

 ゆら子を追いかけるように風が吹く。その風の中には、先日咲いたばかりだと思っていた桜の花びらが混じっていた。


 そういえば、桜の季節は短いのだったとゆら子は駆け出した。

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