【拾漆】“さくら”のひみつ

 完全に日が落ちてしまえば、手元に残された写真の少女すら見ることは叶わない。公園の中にもぽつりぽつりと街灯はあったが、正弥は敢えてそこから離れた場所に座り込んでいた。


 ――私たちのこと、助けてくれますよね?


 それだけ残して駆けて行った少女の声が、まだ耳に残っている。

 思えば、彼女の声はもう古くなって擦り切れてしまった女の声に似ている気がした。それは気のせいかもしれないし、彼女たちの関係性に気付いてしまった故の幻想かもしれない。


 嗚呼、つまり……彼女は全てを知っていた。


 日差しにより温められていた空気は、既に熱を失ってしまい、正弥を撫でる風も一撫で毎に彼の体温を奪っていく。だが、正弥は微動だにしなかった。

 少女の声に導かれるように、ずっと捨てきれなかった過去がすぐそこまで迫ってきていた。もう、逃げることは叶わない。


 目を閉じると、一度だって忘れた事がない四年前の出来事がそこにあった。





――――





 許婚だった水谷絹子が死んだ。

 不慮の事故だったという。

 彼女が亡くなったのは梅雨の季節で、連日雨が降っていた。一本桜のある丘で足を滑らせて崖向こうの川に転落し、増水した川に流されたらしい。


 その話を聞かされた時、正弥はどう受け止めれば正解なのかわからなかった。

 若い身空で憐れだとは思った。

 だが、裏返せばそれしか思うことがなかった。

 許婚という関係にありながら、浮かんだのはそれだけだったのだ。

 その事実は、正弥を追い詰め、彼自身を失望させた。

 家同士で結んだ縁であり、絹子とは親しいとは言えなかった。祝言を挙げる前なのだから、それでもいいと思っていた。夫婦になってから互いを知り、誠実に向き合っていけばいいのだと……

 だが、絹子が亡くなってから、それは“逃避”だったのかもしれないと気付かされたのだ。


 絹子は決して評判の良い娘ではなかった。

 利己的で他者を顧みることなく、強者におもねる代わりに弱者を踏みつける。悪い意味で、甘やかされて育った故に他人の痛みがわからない人間だった。

 正弥だって、絹子の気質は知っていた。

 だが、彼自身が持つ好悪とは関係なく、ふたりの関係性は決まっていた。

 許婚として、やがては夫婦として生きていくのなら……互いに味方でいなければならない。誰から見放され、何から嫌われようと、最後まで互いに誠実であるべきだ。

 それが、正弥の考え方だった。


 なのに現実はどうだろう?

 絹子の死を心から悲しんだのは、彼女の両親だけだった。

 そう、正弥は“悲しくはなかった”のだ。

 同情は出来ても、悲しめなかった。

 そして、気付いてしまった。

 絹子が死んだことにより、彼女と一生を共にしなくていいという現実に安堵している自分がいることに……


 そのことに気付いてしまった日から、正弥は毎日欠かすことなくあの桜の木のところへ通うようになった。

 周囲からは、許婚の死を悲しむ健気な男に見えたかもしれない。

 その評価は、正弥の中に更なる罪悪感を生むことになった。彼は、死んだ許婚のためではなく、己の薄情さから逃れたいがためだけに足を向けていたのだから。


 それから、何も変わらないまま日々が過ぎた。

 ただ季節だけが徐々に廻っていき、暑い夏が終わって蝉の声が止む頃に変化が起きた。

 桜の葉が色づき始めた頃、ひとりの女性が現れたのだ。


「お兄さん、いつもここにいるのね」

「……君は?」

「あたし? そうねぇ……さくら。うん、“さくら”って呼んで」


 さくらと名乗った女性は美しかった。

 美しく、上品な顔立ちをしていたが、まだ流行り始めたばかりであるショートカットや丈の短いスカートといった洋装で身を固め、真っ赤なルージュを引いた口を大きく開けて屈託なく笑う姿は明るく生き生きとしていて、ともすれば美し過ぎて冷たく見える容姿を人間らしく見せていた。


 出会った日から、さくらは毎日現れた。

 彼女は自分のことをほとんど話さなかったが、流行りの物事や真偽の怪しい噂話なんかを面白おかしく話しては、楽しそうに笑っていた。

 そんなさくらに対して、正弥は少しずつ自分の話をするようになった。彼女が静かに聞いてくれることが心地良く、何より、彼女が正弥の事情を知らないということが都合が良かったからだ。


 共に過ごす日々が続き、正弥にとってさくらという女性は、言葉では表しにくい存在になっていった。

 彼女に対して、自分が抱える罪悪感や軽薄さを少しずつ打ち明けていったのは、さくらが正弥にとって知り合いとは言えない存在だったからだ。だが、心の内に隠していたことを打ち明けたという意味では、誰よりも近しい間柄だったのも事実だった。

 さくらの前では、何も飾らずに居られた。

 ただひとつ“絹子の死に安堵してしまったこと”を除いては。


 それから、更に季節は過ぎて冬になった。

 寒くなっても、ふたりは約束するでもなく一本桜の下にいた。

 心の内を吐き出す様な重要なことから、日常のくだらないことまで、互いに思い付くままに話した。

 そんな日々が終わったのは、その冬、初めての雪の日だった。


「あたしの秘密を教えてあげる」


 その日、さくらは珍しく和装だった。

 良く澄んだ青――空の色を映したかのような天色(あまいろ)の着物だ。

 一目で手間も暇も金もかかる仕立ての良いものだとわかった。

 不思議に思ったものの、正弥は何も聞かなかった。偶然なことに、普段洋装が多い彼自身も和装だったから、そういう日もあるだろう程度にしか思わなかった。

 何より、自分のことを話さないさくらが、己の秘密を教えてくれるということが嬉しかったのだ。


「あたし、人を殺したことがあるの」


 いつもと唯一変わらない真っ赤なルージュを付けた唇をにっこりと吊り上げたさくらは、天気の話でもするようにそう言った。

 最初、正弥は自分が揶揄われているのだと思った。

 掴みどころのない彼女のことだから、いつもの冗談だと思ったのだ。


「あたしが殺したのはね、妹の仇なの」


 だが、普段とは違う冷めた目をする彼女を見て、それが冗談ではないのだと正弥も悟らざるを得なかった。それからさくらは、ただ淡々と話を続けた。いつもの楽し気な様子は鳴りを潜め、詰まらなそうに聞きやすいだけの声で言葉を紡いでいく。


「ちょうどこの場所だったわ。もう半年以上前かな……雨が降ってた。あの女、ひとりでここに来てたから、突き落としてやったのよ」


 正弥が覚えているのはさくらと名乗った女の言葉だけだ。

 この時、彼自身が何を言ったのか――或いは何も言わなかったのかはよく覚えていない。


「お兄さんが毎日ここに来ているって聞いて気を揉んだわ……あんな人、死んだって誰も悲しまないと思っていたんだもの」


 その言葉は、正弥の心で常に燻っていた罪悪感に火を付けるには十分だった。

 もし、わざと挑発しているわけではないのなら、さくらという女性は絹子と同じく無意識に相手を傷つける才能があったのだろう。


「でも、よかった。お兄さんもあの女が死んでよかったと思ってるみたいで」


 最後まで打ち明けられなかったことを指摘されて、罪悪感は殺意に変わった。

 そこからは、ただ夢中だった。

 夢中で彼女の首を絞めて、殺した。

 さくらは抵抗しなかった。

 あまつさえ、くすくすと笑っていた。

 保身のために――家のことを考えてしまい、卑怯にも彼女を埋めて殺人を隠した。

 桜の花びらの代わりに、白い雪が舞って――


 あの光景は、どこまでが現実で、どこからが繰り返し見た悪夢なのだろう?

 もはや、正弥には正解がわからない。

 確かなのは、あの時、ひとりの人間をその手で殺めてその事実を隠蔽した事――それだけだ。





――――





「正弥さん。大丈夫ですか?」


 過去の光景に浸っていた正弥の意識を呼び戻したのは、ゆら子だった。

 正弥がいつかも同じことがあったとぼんやり考えている間に、ゆら子は、一緒に来ていたらしい寛次郎に送ってもらった礼を言っている。その寛次郎は、正弥を怪訝そうな顔で見たが何も言わずに肩を叩くとどこかへと去って行った。


 寛次郎を見送ったゆら子が隣へ座る気配がしたが、正弥はそちらを見る気にはなれなかった。


「君は、初めから全て知っていたんだね」

「……正弥さんの言う“初め”っていつですか?」

「僕と君が出会った日」

「正弥さんが私のために梅の枝を手折ってくれた日?」


 正弥が微かに頷くと、ゆら子が笑った気配がした。

 その小さな笑みは――いや、或いはただ息を吐いただけなのかもしれない。


「確かに私は貴方のことを知っていて近付きました。でも、たぶん“全て”を知っているわけじゃないんです」


 冷たい手が頬に触れて、正弥の顔をそっと持ち上げた。

 冷たい手の持ち主は、とても痛そうな顔で正弥を見ている。だが、そこには姉を奪われた怒りや憎悪はない様だった。


「……君の望みは?」


 虚を突かれたのか、ゆら子の手が頬から滑り落ちていった。

 それが、彼女の本音なのか、或いは何らかの意図を持って行われた演技なのか、今の正弥には正解を見つけることが出来ない。


「今回のことが終わったら教えてあげます。私が知っていることとあわせて、全部教えてあげる」


 その時、正弥は自身がどうなっているのか想像もつかなかった。

 彼は悟っていた。行いの代償をどのように払うのかは、もう決めることは出来ないのだ。彼の行く先の全てを、今は彼女が握っている。

 ゆら子は、何も言わずに正弥の手に己の手を重ねた。どちらも熱は、感じなかった。

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