【拾陸】ゆら子の大切
暦の上では春といえど、日が落ちれば気温はぐっと下がる。
警察署から出てきたばかりの寛次郎は、職場内と外気の温度差に身を震わせた。こんな日は早く帰るに限る。いや、あるいは友人を誘って熱燗で一杯というのも悪くはない。ちょうど、正弥とは話したいことがあった。春子の件や寿々乃のこと――
「寛次郎さん」
退勤後の過ごし方を考えていた寛次郎の思考を遮ったのは、ゆら子だった。
「どうしたんだ? こんな時間にひとりで……」
年長者として夜のひとり歩きを咎めようとした寛次郎は言葉を切って、真剣な表情に切り替えた。
僅かな明かりの下で佇むゆら子の様子は普段と違って思い詰めているようだった。失踪したという姉の話をする時の悲し気なものとも違う――おそらく、彼女にとって何よりも大切なことが関係しているのだろう。
「何があったんだ?」
ゆら子は何も言わずに、じっと寛次郎を見つめた。その瞳は暗く翳っており、推量しようとでもいうかのように隙がなかった。
愉快な視線ではなかったが、寛次郎はゆら子から目を逸らすことはしなかった。だが、言葉を重ねることもしない。ただ、待っていた。
「……寿々乃とふたりで会っているみたいですね」
「健全な付き合いだよ。あなたは許してくれていると思ってたんだが」
ゆら子は、否定はしなかったが肯定もしない。
「彼女の母上に何か言われたのかな?」
「だとしたら、会うのをやめてくれますか?」
即座に出かかった否定の言葉を寛次郎は吞み込んだ。
求められている答えはわかっている。だが、答えが正しくても“答え方”を間違えれば、不正解と変わらない。きっとゆら子は、寛次郎と寿々乃を引き離すだろう。
「寿々乃ちゃんがそうしてほしいのなら」
「何故? 私は、寿々乃じゃなくて寛次郎さんの意見を聞いているんですよ?」
「オレは寿々乃ちゃんを好いていて、彼女にも好かれていたい。だったら、彼女の意見を尊重することは当然だと思わないか?」
寛次郎の言葉を噛み締めるように、ゆら子はきつく目を瞑った。その様子は、涙をこらえているようにも見える。現に開かれた彼女の目には薄っすらと涙の膜が張っていた。
「じゃあ、何があっても寿々ちゃんの味方でいてくれますか? あの子を何よりも大切にして、ずっと守ってくれますか?」
「もちろん」
ゆら子は泣かなかった。涙の代わりに、ため息の様な笑みを零す。
そんな彼女の様子に、寛次郎が少しだけ面白くないものを感じたのは、ゆら子が寿々乃に与える愛情には、まだ敵わないと思わずにはいられなかったからだろう。少なくとも今現在、寿々乃が最も頼りにしているのはゆら子であり、彼女に最も愛情を注いでいるのもゆら子だ。
「……それで、何があったんだ?」
そんな思考を振り払って、寛次郎は話題を変えた。
今の話は、互いにとって重要な話ではあったが本題ではない。おそらく、もっと重要なことがあり、その話をするために必要だっただけだ。
そして、その本題は寿々乃にも関わっているのだろう。
「伯父の書斎で、姉の写真と一緒に……これを見つけました」
ゆら子が取り出したのは一枚の紙切れだった。もちろん、先程正弥に見せた物と同じ日記の一部だ。
街灯の下に移った寛次郎は、受け取った紙切れを慎重に改めた。
そこには、姪に劣情を抱き、断られたがために死に至らしめて“一本桜”の下に埋めたということが言い訳めいた文章でわかりにくくも明確に書かれていた。
読み進めていくうちに、寛次郎の表情が曇っていく。そこには確かに嫌悪の感情も含まれていた。
「本当に……寿々ちゃんの味方でいてくれますか? あの子を何よりも大切にして、ずっと守ってくれますか?」
試されている。
ゆら子が問う内容は同じだったが、先程の縋るような震えた声ではなく、冷たく殺意さえ感じるような声だった。
その意図を汲めない程、寛次郎は鈍くない。
ゆら子が持ってきた宗一郎の日記の一部が本物なら、寿々乃は犯罪者の娘だということになる。更に、当主が罪を犯したとなれば櫻木家も無事では済まないだろう。当然、寿々乃の先行きには、暗雲が垂れ込めることになる。
「付き合いきれない、と言ったら?」
彼女に負けないくらい冷淡に寛次郎が問い返してもゆら子は怯まなかった。
寛次郎が反応するよりも早く日記の一部を奪い去ると、反対の手でいつの間にか取りだしていたマッチに片手で火を灯す。
「これはなかったことになります」
「……お姉さんの仇を庇うことになるよ」
「
淡々としているようで、どこか憎しみの籠った物言いが引っかかったものの、寛次郎にはその正体がわからなかった。そして、その正体を探るには至らない。それよりも先に対処しないといけないことがあったからだ。
「それで、答えは?」
日記の一部に火を近付けたゆら子に、降参だと寛次郎は手をあげる。
「前言撤回するつもりはないさ。寿々乃ちゃんの味方でいたいし、誰よりも大切にして守りたいと思っている」
「……そうですか」
ゆら子が灯した火が消えて、辺りが少し暗くなる。しかし、ふたりの間に流れる空気は先程よりずっと穏やかなものになった。
寛次郎はわざとらしく肩を竦めると、これまたわざとらしく困った笑みを浮かべた。
「でも、身の振りは考えないとなぁ……」
「身の振り?」
「流石に警察官は続けられないよ。未練は……まぁ、然程ないとしても、収入がないのは困る。実家に頼るってのは格好悪いからな」
「……もしかして、すぐにでも寿々ちゃんと籍を入れるつもりですか?」
じっとりとした目で見られて、寛次郎は慌てて首を振った。思い詰め、試す様な目で見られるよりも、こういう呆れた目で見られる方がある意味では心臓に悪い。
「いや、その……彼女次第だけど備えておいて悪いことはないだろ。備えあれば患いなしって言うし」
「……ふふ」
寛次郎の慌てた様子に笑みを零したゆら子は、ふと目の前の男が何故、警察官などというものをやっているのか不思議に思った。
一見、調子が良くて軽く見えるのはともかく……公権力に興味がある様にも見えないし、何より毎日真面目に出勤して他者のために働くことが好きなようにも見えない。
正弥は、寛次郎のことを良い奴――『家族や友人を大切にする誠実な奴』だと評していた。ゆら子はその評価を正しいと思っている。特に“家族や友人を大切にする”という部分だ。これは極端にいってしまえば“身内のためならなんでもする”ということになる。
ゆら子が、寛次郎を信頼してもいいと思ったのは、正弥の評価があったからだけではなく、そういったところが自分と似ていると思ったからだ。
つまり、情を傾けた相手を裏切ることはない。
そう考えると、彼が警察にいる理由も推測が出来る。
家族か友人のためだ。
それも、大切な人たちの安全を守りたいという広い意味ではなく、もっと個人的かつ明確な目的があるはずだ。
もちろん、
彼の正義は、どこにあるのだろう?
それによっては面倒なことになるかもしれないとゆら子は思った。
「ところで、その証拠品は預かってもいいのかな?」
「あっ、そうでした。実は、掘り返すのを手伝ってもらおうとも思っていたんです。私と正弥さんだけだと難しいですし」
「正弥? あいつにも話したのか?」
「はい。いけませんでしたか?」
ゆら子はきょとんとして見せた。
正弥に先んじて話すのは当然だと言わんばかりに。
そうすれば、寛次郎が呆れてため息を吐くことはわかっていたが。
「……もしオレが寿々乃ちゃんを見捨てると言ったらどうするつもりだったんだ?」
「えっ?」
「証拠品は燃やしたとして、あいつにどう言い訳するつもりだったんだい?」
ゆら子は黙り込むことでその話を終わりにした。
何も考えがなかったわけではないが、口にするのは悍ましい。ひとつの死のために、幾つもの死体を積み重ねるのはあまりにも愚かだ。
「それより一本桜の下を掘り返すのを手伝ってください」
「……わかった。同僚たちにも声をかけて準備をするよ」
「じゃあ、私は正弥さんを呼んできますね」
「そういえば、あいつはどこにいるんだ?」
「いつもの公園です。……なんというか、伯父の日記が受け入れられなかったみたいで。ひとりで気持ちの整理をする時間も必要だと思ったんです」
「ああ、この手の話には耐性がないだろうな」
納得した様子の寛次郎は、警察署に戻るのではなく反対側に歩き出した。
「あの……?」
「この時間にゆら子ちゃんをひとりで歩かせる訳にはいかないだろ? 正弥のところまでついてく」
断ろうかとも思ったが、ゆら子は素直に厚意を受け取ることにした。
正弥とふたりで話したいことはあるが、寛次郎はきっと正弥にゆら子を預けたらすぐに警察署に戻るだろう。それならば、邪魔にはならない。
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