【拾伍】梅は散り、桜が咲いた

「この羊羹カステラね、寛次郎さんが『ゆらちゃんにも』って持たせてくれたの。正弥さんにばかり良い恰好させたくないんですって。本当に仲良しよね」


 あれから数日――

 ゆら子は、まもなく終わる日常の中にいた。

 代り映えのしない日々だが、寿々乃の部屋で交わされる話題の中心は、いつしか交わらない家族のことではなく、彼女に愛情を傾けてくれる者と過ごした時間についてばかりになっていた。先日、ゆら子も共に行った活動写真の話はもちろん、今日、寿々乃の母親に内緒でこっそり会った時の話などだ。

 ゆら子は、いつになく楽しそうに話す寿々乃をぼんやりと見ていた。


「でもね、寛次郎さんったら可笑しなことを言うのよ。ゆらちゃんが……」


 寿々乃は、はっとして言葉を止めた。


「ごめんなさい。私ばかり話してしまって……詰まらなかったでしょう?」

「そんなことないよ。ただ、ただ……ね」


 沈んだ様子で言葉を濁すゆら子を見て寿々乃は、ようやく彼女がお茶にも茶菓子にも手を付けていないことに気が付いた。それどころか、夕食もほとんど残ったままだ。


「何か、あったの……?」

「……お姉ちゃんの写真を見つけたの」

「えっ、春子さんの? もしかして、叔母様の遺品から?」


 ゆら子は、力なく首を振った。


「……今日は、伯父様も伯母様も出掛けていたでしょ」

「まさか、お父様の書斎に忍び込んだの……?」

「あそこになら確実にあるから」


 主が不在の部屋に断りもなく入り、無断で物を持ち出す行為は窃盗であり褒められたことではない。本来なら咎められるべき事だ。

 だが、寿々乃にはゆら子が何故ここまで落ち込んでいるのかわからなかった。もし、罪悪感に駆られていたのだとしても、ゆら子がそれを寿々乃の前で出すことはないからだ。寿々乃にとってゆら子は頼りになり、弱いところも見せられるお従姉ねえさんだが、ゆら子にとっての寿々乃は違う。彼女は誰にも弱いところを見せたりはしない。


「……他にも何か見つけたのね?」


 片手で顔を覆ったゆら子は、数度首を振ったが何も言わなかった。

 寿々乃には、そんなゆら子が今にも泣きそうに見えたが、どんな言葉をかけていいのかわからなかった。


「……ごめん。上手く、上手く言えない」

「うん」

「ごめんね、寿々ちゃん……」


 寿々乃からは、ゆら子がどんな表情をしているのか窺うことは出来なかった。でも、その絞り出す様な声だけで、なんとなくわかってしまう。

 たぶん、ゆら子が見つけたことは良くない事だ。


「今日はもう帰るよ、また明日」


 彼女らしくないノロノロとした動きで、ゆら子はほとんど残ったままの夕食が乗ったお盆を手に取った。おそらく、もう手を付けることはないのだろう。

 寿々乃は、ゆら子が帰るために窓枠を越えている間に、手付かずのままの羊羹カステラを包み直した。


「これ、よかったらお腹が空いたら食べてね」

「……でも、寿々ちゃんだって好きでしょ?」

「いいの。持って帰って、ねっ?」


 迷った末にゆっくりと手を伸ばしたゆら子に、寿々乃は羊羹カステラが入った包みをしっかりと握らせてやった。少しだけ触れた彼女の手は冷たかったが、外気のせいではないだろう。


「ごめんね」


 それだけ言うと、ゆら子は帰っていく。

 残された言葉は、きっと羊羹カステラに対するものではないのだろうと寿々乃は思った。




――――





 離れに戻ってきたゆら子は、頼りない灯りの下で木製の大きな戸棚と向かい合っていた。

 背筋を伸ばして正座をしているゆら子は、一番下の引き戸を見つめたまま動かない。カチ、カチと時計が時を刻む音だけが響いている。

 やがて、彼女は目を閉じると、寿々乃の前でも隠し切れなかった憂いを努めて消し去り、戸棚に手をかけた。


 引き戸の向こうには、両親の位牌と乾燥して縮んでしまっている三輪の梅の花がある。すでに香りはなかった。

 それらを無視したゆら子は、その奥にある父お手製の将棋盤へと手を伸ばした。

 遊ぶためではない。

 実はこの将棋盤、中は空洞になっており、ひっくり返すと裏の板を開けられるようになっている。何かを隠すため――ではなく、駒を仕舞っておくためだ。まだ村で暮らしていた頃に住んでいた家は、けっして広いとは言えなかったらしい。だから、場所を節約するための工夫だった。

 だが、長らくその場所は本来の用途では使用されていない。


 ゆら子が板を開けると中には、折りたたまれた紙と、一枚の写真が入っていた。

 まず最初に手に取ったのは写真だった。色がなくても、写真の中で微笑む少女が美しいことは十分伝わってくる。


「お姉ちゃん」


 それからゆら子は、折りたたまれた紙をゆっくりと広げた。

 その紙は、日記帳から破り取ってきた一部だ。慌てて切り取られたかのように切り口は歪だった。しかし、それでも内容は十分に読み取れる。

 指先で文字をなぞったゆら子は、破り取られた日記の一部を握り潰さないように注意しなければならなかった。


「愚かだね」





――――




「これは……」


 言葉を失った正弥を、ゆら子は表情のない顔で見つめていた。

 こうして、ゆら子の学校帰りに公園で待ち合わせをすることにも慣れてきた二人だったが、本来の目的である“春子探し”に大きな進展があったのは初めてだ。


「……ちょっと待って、この内容は……」

「…………」


 ゆら子は、自分が持って来た日記の一部を正弥が信じられないという様子で読み返すのを黙って待つことにした。

 日は傾きかけていたが、文字を読むにはまだ十分な明るさだった。

 どうしても信じられない正弥は何度も文字を辿ったが内容に変わりはない。


 日記の日付は、四年前の秋だった。

 要約すると、この日記の持ち主は姪に関係を迫ったが断られ、逆上。誤って殺害してしまったために、丘のところにある“一本桜”の下に埋めた。しかし、想いは断ち切れず彼女の美しい髪を切って持ち帰り、机の引き出しにある隠しに密かに保管している……らしい。


「伯父の書斎でこれを見つけた時は私も驚きました。伯父が……伯父が、私の母に執着していたことは知っていましたが……まさか、姉にまで……」


 正弥は、以前春子の似顔絵を作成しようという話になった時にゆら子が言っていたことをぼんやりとした頭で思い出していた。


 ――綺麗な長い黒髪をしていて、顔立ちは母によく似ています。妹の私が言うと身内贔屓だと思われるかもしれませんがとても美人なんです。


 推測に過ぎないが、おそらくそういうことなのだろう。

 これを読んでしまったゆら子に慰めの言葉をかけるべきだということはわかっていたが、正弥の混乱した頭では、気の利いた言葉のひとつも出てこなかった。


「日付も、お姉ちゃんがいなくなった日なんです……。確か、伯父もあの日は……帰りが遅くて……どこで、何をしていたのか……」

「もういい……もう、いいよ」


 涙声のゆら子に正弥がハンカチを差し出すと、彼女は「すみません」と小さな声で返す。気持ちを静めるために浅く呼吸を繰り返しているゆら子を待つ間、正弥は再び切り取られた日記を眺めていた。この内容は、おかしい。


「本当にごめんなさい。もうひとつ、お見せしないといけないものがあったのに……」

「もうひとつ?」

「伯父の書斎に行ったのは、姉の写真を探すためだったんです。日記はその時、ちょっと気になってしまって……」

「ああ、なるほどね。でも、この日記の内容が事実なら写真があっても……」

「そういえばそう……ですね。持って来たんですけど、必要なかったかもしれません」


 そう言いつつもゆら子が差し出した写真を、正弥は受け取り損ねた。彼の指の間をすり抜けて、ひらりと落ちていく写真を拾うこともできない。

 正弥は、写真の人物を知っていた。

 彼の人生において、一番忘れられない人だ。

 硬直したままの正弥に代わって写真を拾い上げたゆら子は、写真の中で微笑む美しい人をそっと撫でた。


「お姉ちゃん、とても美人でしょう? 驚いちゃいましたか?」

「……そう、だね」


 ぎこちなく返事をする正弥の手に、ゆら子はしっかりと写真を握らせる。そして、代わりに日記の一部を取り上げた。


「私、あの桜の木の下を掘り返してみようと思うんです。そうすれば、本当のことがわかると思うから」


 正弥に背を向け、日記を夕日にかざしているゆら子の表情はわからない。


「もうこんな時間ですけど、これから寛次郎さんにも声をかけて行ってみませんか?」


 だが、もう少女から憂いは感じられなかった。

 無防備にも背中を向けたまま、ゆら子は続ける。


「私、寛次郎さんを呼んできますね」

「……僕も行くよ」


 正弥が、そっと一歩を踏み出した時、ゆら子はくるりと回って振り返った。予想より近い距離で微笑まれて正弥は身を固くする。


「考える時間が必要ではありませんか?」

「……何をだい?」


 ゆら子は答えなかった。

 ただ笑みを深くして再び背を向ける。


「じゃあ、私行ってきますね」


 正弥には、駆けて行く少女の後ろ姿を見送ることしか出来なかった。

 手元に残された写真の中では、長い髪をした少女が微笑んでいる。髪の長さは違えど、その顔はよく知っている女のものだった。


「正弥さん!」


 写真に意識を持っていかれていた正弥は、遠くから投げかけられた少女の声によって現実に引き戻される。


「私たちのこと、助けてくれますよね?」


 人気の無くなった公園に少女の問いかけが響く。

 ゆら子はそれだけ言い残すと、再び駆けだした。

 答えを待つ必要はなかった。


 だって、正弥には断ることなど出来ないのだから。

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