【拾肆】夕日に染められて
初めて訪れた百貨店は、ゆら子の想像以上に賑やかで愉快な場所だった。
流行りの柄で作られた着物はもちろん、女学生たちにも人気がある化粧品、異国から取り寄せたというアクセサリー、洒落た洋菓子や海を渡ってきた文具などなど何でもある。
当然、洋服店もだ。
「洋装をしたことは?」
「えっと……ないです」
「私もありません」
「せっかくだし試着してみる?」
「遠慮しておきます。買う予定もありませんし」
ゆら子は、寛次郎の提案にすぐさま首を振った。
ゆら子自身興味がないわけではないし、寿々乃が気にしていることもわかっていたが、試着だけで終わらなかったら困るからだ。ふたりには、洋服を新しく仕立てるお金はないし、それならと贈られても困る。食事代を持ってもらっているだけでも引け目を感じているのに、洋服の様な高価な物は流石に受け取れない。
「……あら。あらあら、本当にお嬢様方と一緒なのね」
声のした方へ振り返ると品の良い婦人がおっとりと微笑んでいた。
一見しただけでも、ゆら子には彼女が誰なのかわかった。目元と、何より笑い方が正弥とそっくりだったからだ。
「母さん、どうしてここに?」
「あなたがお友達を連れてきたと聞いたからご挨拶しようと思って」
よく知った仲なのだろう、寛次郎と簡単に挨拶を済ませてから婦人は、ゆら子と寿々乃に微笑みかけた。
「はじめまして、正弥の母です。息子がお世話になっております」
「ご丁寧にありがとうございます。櫻木ゆら子と申します。こちらは、従妹の櫻木寿々乃でございます」
「よ、よろしくお願いいたします……」
「ふふ、おふたりともしっかりしてらっしゃるわ」
女性陣が挨拶を交わす横で、正弥は寛次郎の脇を突いた。
「君か?」
「オレじゃないよ。従業員の誰かが気を利かせたんじゃないか?」
やり場のない思いを込めたため息を吐く正弥の肩を寛次郎は同情の意味を込めて叩いた。
正弥もいい年なので、彼の母親としてはそろそろ身を固めてほしいのだ。だが、許婚に不幸があったことで強く言えないでいた。そこに息子自身が年頃の女性を連れてきたのだ、期待もするだろう。
「あの子、ずっと塞ぎ込んでいたのだけれど……最近いきいきとしていたのはあなた達のおかげかしら?」
「いえ、私たちは何も……」
ゆら子は、視線で正弥に助けを求めた。
申し訳なさそうに頷いた正弥は、すぐに彼女たちの間に割って入る。
「母さん、その辺で」
「あら、ごめんなさい。若い子達の間に年寄りが入るものではないわね。……それじゃあ、ゆっくり楽しんでいってちょうだい」
正弥の母は、ゆら子と寿々乃の手をそれぞれ握ると去って行った。
完全に見えなくなったのを確認してから、正弥は息を吐いた。
「ごめんね。驚いただろう?」
「えっ……? いえ、優しそうな方でしたし……」
謝罪の意図を汲めなかった寿々乃は首を傾げたが、ゆら子はなんでもないと首を振った。
「むしろ変に期待させてしまったみたいで申し訳ないです」
「母には後で言っておくよ」
「仲が良いんですね」
「迷惑をかけてばかりだけどね。だから、これ以上は……」
苦笑と共に零れた呟きは、ゆら子の耳に届いていたが、追及することはしなかった。
一方、寿々乃はゆら子と正弥の間で交わされた言葉の真意がつかめずに首を傾げていた。
「期待……?」
「オレたちには関係のないことだから気にしなくていいぞ」
「そうなんですか?」
「直接はね」
寛次郎の答えに、寿々乃はますます困惑して、反対側に首を傾げたがさらなる答えは貰えなかった。
――――
「ここまでで大丈夫です」
古びた家々が立ち並ぶ区画を前に、ゆら子は立ち止まった。
櫻木邸はここからさらに少し行ったところにあり、まだその影すら見ることは出来ない。
「すぐそこだろ? 最後まで送ってくよ」
「家の者に見られると面倒ですから……ねっ、寿々ちゃん」
「……うん」
寛次郎の提案をやんわりと断ったゆら子は、寿々乃にも意見を求めた。
母親であるしず代には「男性と会う」とは言っていないので、彼女も寂しそうに頷く。可能ならば、まだこの楽しいひと時を終わらせたくはないのだろう。
「……僕たちはここでお暇しようか。これ以上は却って迷惑だよ」
「そうだな」
正弥にも促された寛次郎は、面白くなさそうに返事をしたものの、寿々乃と向き合う時には、その不機嫌さも鳴りを潜めていた。
「じゃあ、また。今日は楽しかった」
「あっ……はい、私も。私も楽しかった、です……」
日が落ち始めて辺りが赤く染まり始める。
だが、寿々乃の頬が赤く染まっているのは、夕日のせいではないだろう。逆光のせいで、彼女たちからは表情を見られることがないと知っているゆら子は、無感動にふたりを見つめていた。
しかし、それも瞬きの間だけだ。いつもの愛想を取り戻したゆら子は寿々乃の袖を引いた。
「日が暮れるからもう帰らないと」
「……そう、だね。それじゃあ、本当にこれで……」
「おふたりも気を付けて帰ってくださいね」
手を振るゆら子につられて寿々乃も手を振った。正弥と寛次郎も振り替えしてくれる。
それだけ確認するとゆら子は、寿々乃の手を引いて歩き出した。背後で何度も寿々乃が振り返る気配がする。きっと、あのふたりはゆら子達の姿が見えなくなるまで見守ってくれているのだろう。次の角まで足早に去ってしまいたい気持ちを抑え、ゆら子は努めていつもの足取りを守った。
「楽しかったね、ゆらちゃん」
「そうだね」
角を曲がったところで寿々乃が呟いた。
そっと盗み見た顔は、とても幸せそうだ。強烈な西日で霞んでしまってもおかしくはないのに、ゆら子がその表情を読み間違えることはなかった。
寿々乃にとって、今日は人生で一番幸せな日だったのだろう。
これまでで一番楽しい日だったのだ。
だから、
だから、
だから……
「…………」
空いている右手が赤く染まっている。
ぼんやりと眺めている間にも、指先から色を失い、死に掛けの太陽に与えられた赤ばかりが誇張されていった。それはゆら子の色ではない。本来の彼女の指先は、冷えた空気にさらされて白くなっているはずだ。けれど、ゆら子の指先は赤く染まっている。
いつだってそうだ。
ゆら子は、自分で決められない。
「ゆらちゃん、どうしたの?」
手を引いていたはずの寿々乃がいつの間にか隣にいた。
少し考えてから、ゆら子は自分がいつの間にか立ち止まっていたのだと気が付く。ため息の代わりに「なんでもないよ」といつもの笑みを浮かべ――ようとして、項垂れた。
「寿々ちゃんはさぁ……好きな人と一緒なら何があっても生きていける? 何もかも失くして、他に頼りに出来るものが何も無くなってしまっても、互いを頼りに生きていける?」
寿々乃から答えはなかった。
俯いているゆら子には、従妹がどんな顔をしているのかすらわからない。
耳に響く微かな息遣いだけが続きを聞いていいのだと教えてくれた。
「寛次郎さんを、それだけ信じられる?」
思い切って上げた視線の先で、寿々乃はゆっくりと微笑んだ。まさに花が綻ぶように――花笑んだ。
「信じられるよ。あの人はゆらちゃんと同じ目で私を見てくれるから」
頷く寿々乃の言葉が、昼間に聞いたばかりの言葉と重なる。
――ゆら子ちゃんとよく似た目で彼女を見ているから
――慈しむような、って言えばいいかな?
「そっか……そうだね」
繋いでいた手をそっと放す。空になった左手は、少しだけ冷たくなった。
「……私、変なこと言った?」
「ううん、それなら大丈夫って思っただけ」
ゆら子は、そっと寿々乃の背を押した。
「それより、もう着いたよ。私は裏口から入るから先に行って」
「うん……」
背を押されたことで数歩、前に出た寿々乃は納得しきれていないという顔で振り返った。
「今日はとっても楽しかったね。とてもいい日になった」
「……うん!」
彼女の様には出来なくても、ゆら子が精一杯の笑みを浮かべれば、ようやく寿々乃も笑顔を返してくれた。彼女にしては珍しく大きく手を振ってくれる。
邸の門の向こうへ寿々乃が消えるのを確認してから、ゆら子はゆったりと歩きだした。
空っぽになった左手はまだ僅かに温かい。握り締めるとそれがよくわかった。
寿々乃は、もう大丈夫。
自分で判断して、選んで、決められる。
幼かった頃の自分に似ていたはずの従妹はいつの間にか、ゆら子とは違う道を歩いていた。誰かに強制されたわけでもなく、自ら見つけて、選んだ。掴み取るのは大変だろうけど、きっと、もう流されたりせずに辿り着ける。
寿々乃は、ゆら子とは違うから。
「もう、やめよう」
ぽつりと零した言葉は、届けるべき人のところへは届かない。
もう永遠に届かない。
手遅れにしたのはゆら子自身だ。
「こんなことやめようよ」
言うべき時に言わなかった。
伝えるべき時に伝えなかった。
ただ、それだけ。
でも、そのせいで積み上がった物がある。
母の最期を覚えている。彼女の恨みも忘れられない。
姉が家を出た時のことも覚えている。その時に託されたことを捨てられない。
――必ず、復讐を。
彼女たちの声はゆら子の耳に届くのに、ゆら子の言葉はもう届くことはない。
いない人に言葉は、届かない。
最後に残った温もりが、握った手のひらの奥で消えた。
寿々乃とゆら子は違う。
寿々乃は自分の力で幸せになれる。
ふぅとゆら子は息を吐いた。
梅は
振り返れば、屋敷の裏口はすぐそこであり、屋敷を囲む塀の奥では、明かりが揺れている。あの二階にある部屋は、伯父である宗一郎の書斎だ。
書斎を冷たく一瞥したゆら子は、冷え切った自身の両手に視線を落とした。
その手は、長く細く伸びた今日、最後の陽光によって真っ赤に染まっていた。
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