【拾参】胸の高鳴りだけでいいのに
「あっ、こっち! こっち!」
待ち合わせ場所である駅前の広場は、良く晴れた休日ということもあり人でごった返していた。しかし、そんな中でも背が高い寛次郎は埋もれることがないらしく、あたりを見渡していたゆら子たちに手を振る。
不安そうだった寿々乃は、顔を明るくさせて彼らの方へ駆け寄ろうとした……ものの慣れない人の波を前に怯んでしまったようだった。ゆら子は、寿々乃の手を取ると背中に張り付かせるようにして進んでいく。相手もこちらに向かってくれたので、合流はすぐだった。
「申し訳ありません。お待たせしてしまいましたか……?」
「いやいや、今来たところだよ」
寿々乃へ定番の返しをする寛次郎を、正弥が生暖かい目で見た。ゆら子は初々しい様子のふたりから離れて正弥の隣に並ぶとこっそり尋ねる。
「いつから待っていたんですか?」
「一時間前に連れ出されたから……ここで待っていたのは三十分くらいかな」
正弥の家に押しかける寛次郎も、まだ時間ではないのに強引に連れ出されたであろう正弥の様子もありありと想像が出来てゆら子は笑ってしまった。
肩を竦めると、正弥は中身のない話題を交わしている寛次郎と寿々乃の気を引くために、少し声を張る。
「そろそろ行かないと、活動写真が始まってしまうよ」
「あ、あぁ、そうだった! 案内するからついて来て」
頷く寿々乃の手を、寛次郎がちらりと盗み見たことをゆら子は見逃さなかった。
「はぐれないように手を繋ぎましょ」
「ありがとう、ゆらちゃん」
ゆら子はさっさと寿々乃と手を繋ぐと、案内を待っているとばかりに寛次郎を見上げる。意図を理解し、観念した寛次郎は微かに頷き返して先を歩き出す。
何も知らぬは寿々乃だけだ。ただ、気を取り直した寛次郎が話す世間話に頷いたり相槌を打ったり、時々楽し気な笑い声をこぼしたりしている。
交流を深めることを止めはしないが、手を繋ぐのはまだ早い。ゆら子は寿々乃のお
――――
活動写真を見終わり、レストランへ移動した一行は丸いテーブルを囲んでいた。
店内は大変混雑しており、蓄音機から流れる音楽はともすれば人々の楽しげな声に紛れてしまいそうだ。普段、接することの少ない洋食の香りに包まれていることもあって、寿々乃は夢心地だった。ついつい、ぼんやりとしてしまう。
「寿々乃ちゃん、大丈夫?」
「は、はい……! でも、まだすごくドキドキしてて」
寛次郎に心配そうに覗き込まれた寿々乃は、紅潮した頬を両手で抑えて誤魔化そうとした。しかし、その胸の内では、先程見たばかりの映像がどうしても浮かんでくる。そのせいでどうしても、口元が緩んでしまうのだ。
「異国の風景があんなに素晴らしいだなんて私、知りませんでした……」
彼女たちが見た活動写真は、寿々乃が感動した異国の情景を初め、大道芸やちょっとした劇、蒸気機関車が走る姿など普段の生活ではお目に掛れない光景を詰め合わせたものだった。そこに活動写真弁士が面白おかしく解説を付けるのだ。
「それにお話もとても面白くて……ふふっ」
「彼すごいでしょ? オレが見てきた中でも特に上手いんだ」
「そういえば、ゆらちゃんが寛次郎さんのおススメだって言ってました。楽しいことをたくさん知っているんですね」
「まぁね。……あっ、でも遊び歩いてるわけじゃないぞ」
こんなに楽しそうな寿々乃を見るのは、ゆら子も初めてだった。いつも自信がなさそうに俯き、楽しそうに声を上げるのは極僅か。きっと彼女の人生で今日が一番楽しい日だろう。これからはともかく、少なくともこれまでの中では……
だから、ゆら子は目を細めて……そのまま閉じた。ゆっくりと目を開いてみても、同じ光景が広がっている。これは、うたた寝の間に見る白昼夢ではない。
「おまたせしました」
注文した品が届き、それぞれの前に並べられていく。ゆら子の前にはカレーライスが、寿々乃の前にはオムライス、そして正弥と寛次郎の前にはポークカツレツだ。
「わぁ……! おいしそうね、ゆらちゃん」
「……うん」
ああ、そういえば――とゆら子は思い出した。
つい先日、お給料が出たらミルクホールでもレストランでも連れて行ってあげると約束したけれど、寿々乃の念願はゆら子が手伝わなくても叶ってしまった。
「どうしたの?」
「辛かったらどうしようって、今になって不安になっちゃった」
「辛かったら交換してあげる。私、辛いのは平気だから」
「ありがとう」
それから、食事は恙なく進んだ。
喋っているのは主に寛次郎で、相槌を打つのは寿々乃。ゆら子と正弥も時々話題に入っていくこともあるけれど、ほとんど聞いてるだけだ。
「どこか他に行きたいところはある?」
「えっと……ゆらちゃんはどう?」
「せっかくだから寿々ちゃんの行きたいところにしなよ。出歩ける機会は貴重でしょ?」
「でも、急には思い付かなくて……」
心地の良い時間だと思った。
ずっとずっとこんな時間が続くのなら、それが幸せなのだろうと。
寿々乃と寛次郎は楽しそうで、正弥は穏やかな顔をしている。だから、ゆら子だって自然と笑っていられる。
嗚呼、一体……今を捨てて過去を掘り返すことにどれだけの意味があるのかしら?
心地が良ければ良い程、心は苦しかったけれど。
「じゃあ、百貨店はどうだ? 冷やかすだけでも楽しいぞ」
「冷やかすだけでもいいんですか……?」
「
「よくはないけど……まぁ、興味があるなら案内するよ」
食事が終わる頃には、次の行き先も決まっていた。
支払いを終えて店を出た一行は、ゆっくりと次の目的地へ向けて歩き出す。
「えっと、ゆらちゃんとも話したんですが、学校では桜の精のことが噂になっているんですよ」
寛次郎と並んで先を行く寿々乃は、すっかり打ち解けたのか他愛もないことを喋っている。少し後ろを歩くゆら子は、そんなふたりをどこか遠い世界の情景を見るような気分で眺めていた。
「……お似合いだと思いますか?」
「寛次郎と寿々乃ちゃんのことかい?」
隣を歩いている正弥にだけ聞こえる声で尋ねると、彼も同じように声を落として尋ね返した。小さく頷いたゆら子は、前を行く二人から視線を逸らさずに続ける。
「寿々ちゃんには幸せになってほしいんです。ずっと辛い思いをしてきたから、これからは幸せになってほしいんです」
「……それなら、お似合いなんじゃないかな」
「どうして?」
正弥を見上げるゆら子は、迷子の子どものようだった。どこに行っていいのかわからず、座り込んでいた子どもが初めて声をかけてもらえた時のような不安と期待が混じった視線を正弥はしっかりと受け止めた。
「ゆら子ちゃんとよく似た目で彼女を見ているから」
ぽかんとしているゆら子に、正弥は一言だけ付け加える。
「慈しむような、って言えばいいかな?」
「そ、そうですか……!」
ゆら子は勢いよく顔を逸らした。
嬉しさと気恥ずかしさ……そして、後ろめたさ。
似て見えても、全く同じではないだろう。だって、ゆら子には寛次郎が自己憐憫に浸るとは思えなかった。よく似た誰かを自分の代わりになんてしたりしない。そんな、身勝手なことをするのは――
「ごめん、可笑しなことを言ってしまったかな?」
「……いえ、可笑しくはありませんよ。ちょっと気障でしたけど」
「えっ? そうか……ごめんよ」
「ふ、ふふっ」
意識して肩の力を抜くことに成功したゆら子は、わざとらしく笑った。それを見て、からかわれていただけだと気付いたのか、正弥もつられて笑う。
今日くらいは、楽しいだけの時間にしてもいいだろう。
「そういえば、私も寿々ちゃんも百貨店にはほとんど行ったことがないんです。見所とか教えてくれませんか?」
「いいよ。そうだなぁ……」
声量を戻せば、百貨店の話題になったことに気が付いたらしい寛次郎も加わり、次いで寿々乃も興味津々といった様子で耳を傾けだす。途端に賑やかになって、ゆら子もまた自然と笑うことが出来た。
ただただ、楽しいであろう百貨店へと思いを馳せる。きっと想像以上に不思議で美しい物が溢れているに違いない。
もう目の前に、宮川百貨店は見えている。
嗚呼、本当にどうして……こんな風に出逢ってしまったのだろう?
ゆら子は、心の奥底から聞こえる声は聞こえなかったことにして、胸の高鳴りにだけ集中した。
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