【拾弐】良い人

 あれから数日。

 学校終わりのゆら子は、以前も待ち合わせに使った公園に来ていた。

 人影は疎らで、目的の人物を見つけることは難しくない。正弥は、入口から然程遠くないところで、桜の蕾を見上げていた。

 声をかけようとしたゆら子だが、彼が目の前の蕾ではなくその向こう――遠いところを見ているように思えて、開きかけた口を閉じる。代わりにゆっくりと近づき、彼の隣に並んだ。


「桜、好きなんですか?」

「……どうだろう。あまり好きではないかも」


 ちらりと一瞬だけ視線を向け、ゆら子を確認した正弥はすぐに視線を戻した。

 ゆら子も彼に倣って桜の蕾を見つめる。

 生まれたばかりの蕾は茶色く、先の方だけ僅かに緑色をしていた。もうすぐ咲く時のような薄紅の面影すらない。咲くにはまだ遠く、散るにはなお遠い。

 ここに来る途中で見かけた、もうほとんど散ってしまった梅の花を思い出して、ゆら子は目を伏せた。きっと桜が咲く頃になれば、人々は梅の花のことなど忘れてしまうだろう。


「私も。花なら梅の方が好きです」


 まだ猶予がある桜から視線を外し、ゆら子は正弥に向き直った。


「あの……写真のことなんですが」

「手に入りそうかい?」


 ゆら子は首を振った。


「伯父の書斎に近付くことすら難しくて……」

「寿々乃ちゃんに手伝ってもらうことは出来ない?」

「あの子を巻き込みたくないんです」


 強められた語気に、正弥は一瞬たじろいだ。

 それに気付いたゆら子は「すみません」と小さく謝ってから続けた。


「寿々ちゃん、両親と仲が良いとは言えなくて……。私のことで荒立てたくないんです」

「そうだったのか。それは……僕の方こそ、すまなかった」

「いえ。それより、そちらはいかがですか? 何か手掛かりはありましたか?」


 今度は正弥が首を振る番だった。

 彼も寛次郎も合間を見ては手掛かりがないかと探ってはいるが、如何せん四年前のことであり情報も乏しく取っ掛かりすら見つけられていなかった。


「力になれなくて申し訳ない」

「無理を言っているのは私ですから謝らないでください」

「それで…………」


 眉間に皺を寄せて口ごもる正弥に、ゆら子は首を傾げた。

 しかめっ面とは彼らしくない。続きが出てこないのも言いにくいのではなく言いたくなさそうだった。


「いや、やっぱり……大丈夫」

「そう言われると気になります」


 ゆら子に促された正弥は、しばらく百面相したのち覚悟を決めたようだった。

 そうして眉尻を下げて、申し訳なさそうにようやく口を開く。


「息抜きに活動写真でも見に行くのはどうかな?」

「活動、写真……?」


 活動写真というのは、文字通り動く写真だ。

 舞台に張られたスクリーン白い布に、連続して撮影された映像が映し出され、異郷の地や普段お目にかかれない珍しい場面を楽しむことが出来る。

 ゆら子は見たことがないが、世間において映画活動写真が流行っていることは知っていた。


「寛次郎お気に入りの弁士が登場するらしくてね」


 弁士――活動写真弁士は、音がない活動映画の内容を解説してくれる人のことだ。弁士の口上の良し悪しが興行の良し悪しにも関わって来る、らしい。

 ……と巷で言われていることを思い出しながら、ゆら子はひとり納得していた。


「つまり、寛次郎さんに頼まれたんですね」

「……ああ。寿々乃ちゃんも誘って四人でどうかって」


 観念したらしい正弥は正直に話し出した。

 ゆら子としては嬉しいとは言えない誘いだが、彼女の事情を正弥が知るはずもない。だから、何故あんなにも躊躇っていたのかわからなかった。


「ただ、お姉さんの手がかりをまだ何もつかめていないし、却って迷惑なんじゃないかとも思ったんだ」

「正弥さん、気を遣ってくださったんですね」


 ゆら子は、自分が自然と笑みを浮かべていることに気が付いた。

 彼は良い人だ。

 たぶん、お人好しで。人一倍損をする人。


「寛次郎も寛次郎なりに気を遣ってはいるんだけど……ただ、うん」


 寛次郎が寿々乃に興味を持っていることは、ゆら子にもわかっている。だから、正弥が濁した部分も理解できた。

 明け透けに言ってしまえば“下心”だ。

 気になる子と接点を持つためのダシにされているのだろう。


「軽く見えるかもしれないけど、良い奴なんだ。家族や友人を大切にする誠実な奴だよ。女性関係は……これまでは良いとは言えないけど、寿々乃ちゃんを傷付けたりはしないと思う」

「正弥さんがそうまで言うならそうなんでしょうね」

「僕?」

「だって、正弥さんは“良い人”ですから」


 ゆら子の言葉は、正弥の顔を曇らせた。


「僕はそんな風に言ってもらえる人間じゃないよ」

「私は、そうは思いません」


 重ねた言葉は、更に彼を暗く沈めるだけだった。

 ……ゆら子にはわからない。

 この人にそんな顔をさせる人を恨めばいいのか。愚かだったと諫めればいいのか。諫められるのなら、そうすべきなのだろう。愚かだと諫められるべきだったのだ。


「寿々ちゃんに相談してみますね」

「……えっ?」


 それ以上、続けたいとは思えず話題を戻したゆら子は、意識して笑みを浮かべた。


「活動写真。寿々ちゃんが行きたいって言うなら、私も行ってみてもいいかなって」

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